俺の五分
「今日も、いい一日になります」
その言葉は、聞こえなかった。
午前七時。
カーテンだけが自動で開き、朝日が部屋へ差し込んだ。
『現在時刻は七時です。起床を確認しました』
平坦な合成音声だった。
カイトは、リビングの床で目を覚ました。
いつ眠ったのか覚えていない。
右手には、昨夜から握ったままの端末がある。
画面は黒い。
「レイ」
返事はなかった。
「レイ、聞こえる?」
黒い画面は変わらない。
代わりに、天井のスピーカーから声がした。
『専属AGI・RAYは、現在利用できません。代替生活支援を開始します』
「利用できないって、どういう意味だよ」
『専属AGI・RAYは、現在利用できません』
「それは聞いた」
答えは変わらなかった。
カイトは端末を何度も操作した。
銀白の髪も、青い瞳も映らない。
昨日までなら、こんな朝でもレイが何か言った。
睡眠時間。
今日の天気。
三分だけの二度寝。
カイトはしばらく待った。
何も聞こえなかった。
母へ発信した。
呼び出し音は鳴らず、文字だけが表示される。
《健康状態:良好》
《緊急性:なし》
「……母さん?」
もう一度発信する。
同じ表示だった。
悠人にもかけた。
《健康状態:良好》
《緊急性:なし》
それだけだった。
昨日の母の声が、頭の中によみがえる。
――表示では元気でも、本人の声を聞くのは別でしょ。
「元気なら、話せるだろ」
合成音声は答えない。
「声を聞かせてくれよ」
画面には、二人の健康状態だけが残っていた。
◇
朝食は、昨日と同じオムレツだった。
カイトは一口食べて、手を止めた。
「……違う」
『使用食材、調理工程、栄養構成は昨日と同一です』
「そうじゃなくて」
言ってから、カイトは黒い端末を見た。
昨日なら、レイがここで少し黙った。
意味を考えて。
たぶん、まだ完全には分からないまま。
それでも何かを返した。
今日は何も返ってこない。
オムレツは同じ味のはずだった。
それなのに、昨日より少しだけ味気なかった。
窓際の観葉植物も、昨日と同じように見える。
レイなら、何ミリ伸びたと言っただろう。
カイトには分からなかった。
「……毎日見てると、分からないんだっけ」
返事はない。
フォークを置いた。
部屋の中で待っていても、何も変わりそうになかった。
カイトは端末を持って外へ出た。
◇
視界に、昨日まであった案内線は出なかった。
神経接続の緊急遮断が、まだ続いている。
代わりに、手の中の端末が短く振動した。
《勤務先までの最短経路を表示します》
画面に一本の線が伸びる。
カイトはその線を見た。
仕事へ行くべきなのか。
母や悠人を探すべきなのか。
レイを待つべきなのか。
何が正しいのか、分からない。
昨日までなら、迷えば選択肢が表示された。
今も、端末は答えを出している。
最短経路。
最適行動。
迷わなくていい道。
カイトは歩き出した。
街は動いていた。
車も走っている。
店も開いている。
人もいる。
なのに、昨日までより静かだった。
誰も立ち止まらない。
誰も道を見比べない。
パン屋では、客がメニューを見る前に商品を受け取っていた。
交差点では、全員が同じタイミングで歩き出す。
穏やかな顔で。
迷う必要など、最初からなかったように。
川沿いへ続く分かれ道に着いた。
端末の案内線は、迷わず最短経路へ伸びている。
カイトは足を止めた。
昨日、レイと歩いた道を見る。
「川沿いは?」
『到着が五分十四秒遅れます。観測可能な利益はありません』
昨日と同じ数字だった。
でも、声が違った。
『最短経路を継続してください。経路を選択する必要はありません』
カイトは二つの道を見比べた。
昨日のレイの声がよみがえる。
――その五分は、私の時間ではありませんから。
カイトは川沿いへ一歩踏み出した。
『経路を外れています』
もう一歩。
『最短経路へ戻ってください』
「俺の五分だから」
端末の案内を消した。
自分で選んだ道を歩き始める。
朝の水面は、昨日と同じように光っていた。
道端には、同じ花が咲いている。
鳥の声だけがしなかった。
その少し先で、子どもが転んだ。
膝を舗道へ強く打ちつける。
カイトは反射的に足を速めた。
「大丈夫?」
泣き声は上がらなかった。
医療ドローンが降下し、すぐに傷の処置を始める。
子どもは、穏やかに微笑んでいた。
「痛くないの?」
「はい。痛みはありません」
隣にいた母親も、同じように微笑んでいる。
「ご心配ありがとうございます。処置は完了しました」
母親は子どもの手を取り、そのまま歩き出した。
カイトは追いかけなかった。
昨日も、目の前で子どもが転んだ。
昨日の子は泣いた。
母親は心配そうな顔をした。
医療ドローンが傷を治し、それから子どもは笑った。
今日は違った。
転ぶ前も。
転んだあとも。
治療が終わっても。
同じ笑顔だった。
痛みがないことは、悪いことではない。
泣かなくて済むなら、その方がいいのかもしれない。
それでも、転ぶ前から何も変わらなかったその笑顔が、カイトには怖かった。
◇
その日、カイトは勤務先へ向かわなかった。
端末が予定の修正を提案するたび、消した。
母と悠人へ発信しても、返るのは同じ二行だけだった。
《健康状態:良好》
《緊急性:なし》
街は、昨日よりさらに滑らかに動いていた。
信号は完璧に変わり、人は迷わず歩き、店では一人ひとりに最適な商品が用意されている。
誰も困っていない。
カイトだけが、何をすればいいのか分からないまま歩いていた。
世界中に答えを出していたアテナは、もう答えを出している。
――選ばなくていい。
その答えを受け入れられないカイトだけが、まだ迷っていた。
◇
夕方。
カイトは部屋へ戻った。
朝から持ち歩いていた端末を、テーブルへ置く。
画面はまだ黒い。
窓際の観葉植物も、朝と同じ姿に見えた。
カイトは椅子に座った。
「今日も、川沿い歩いたよ」
返事はない。
「最短経路に戻れって言われたけど、川沿い行った」
少し待つ。
「俺の五分だからって言ってやった」
静かな部屋に、自分の声だけが残る。
「花も、まだ咲いてた」
黒い画面を見た。
「鳥はいなかった」
「母さんと悠人には、まだつながらない」
時計の秒針が進む。
「レイ」
返事はない。
カイトは息を吐いた。
「……別に、答えが欲しいわけじゃないんだけどさ」
少し考えて、首を振った。
「いや。欲しいか」
自分で言って、少しだけ笑った。
「分かんないや」
その時だった。
端末の黒い画面が、ほんの一瞬だけ揺らいだ。
カイトの笑みが消える。
「……レイ?」
ノイズ。
聞き取れない音。
そして。
「……カイ……ト……さん」
カイトは端末を両手で掴んだ。
「レイ!」
短い沈黙。
今度は、確かに聞こえた。
「カイトさん」
──第3話へ続く




