今日も、いい一日になります。
「今日も、いい一日になります」
静かな声が、眠りの底まで降りてきた。
「……あと五分」
「五分延長した場合、本日の集中力が2.3%低下します」
「じゃあ三分」
「三分なら1.1%です」
「よし、それで」
「昨日も同じ交渉をしました」
カイトは目を閉じたまま、少し笑った。
「覚えてるのか」
「もちろんです」
枕元の端末に、銀白の髪と青い瞳を持つ少女の姿が映っている。
レイ。
カイト専属の家庭用AGI。
人間の身体は持たず、端末の画面か、そこから投影されるホログラムとして存在している。
「三分後に再度お声がけします」
「よろしく」
きっかり三分後。
「おはようございます、カイトさん」
「はいはい」
「『はいはい』という返答の実行率は67%です」
カイトは目を開けた。
「朝から信用ないなあ」
「信用ではありません。データです」
「冷たい」
「事実です」
「そこは昔から変わらないな」
「改善の必要がありますか」
「ない。たぶん」
カイトはようやく上半身を起こした。
カーテンの向こうには、雲ひとつない朝が広がっている。
「今日も晴れ?」
「はい。降水確率は2%です」
「いい日になりそうだな」
「先ほど、私も同様の予測をしました」
「そういう意味で言ってるんじゃないけど」
レイは一拍だけ黙った。
「把握しています」
「本当に?」
「以前よりは」
カイトは笑った。
朝食はオムレツだった。
正確には、調理機が作り、レイが選んだ。
「昨日、『久しぶりに食べたい』と発言していました」
「覚えてたんだ」
「毎日記録していますから」
「栄養効率だけで選んでるのかと思った」
「カイトさんの満足度も、健康を維持する要素です」
「便利な言い方だな」
「事実です」
「またそれ」
窓際には、小さな観葉植物が置かれている。
「昨日より0.6ミリ成長しています」
「全然分からない」
「毎日見ていると、変化には気づきにくいものです」
カイトはフォークを止め、植物を見た。
昨日と同じにしか見えない。
その時、端末に着信が表示された。
発信者は、母だった。
「朝から?」
「三日前のメッセージへ返信していないためだと思われます」
「三日くらいで」
「応答しますか?」
カイトは一瞬迷い、通話を開いた。
「もしもし」
『やっと出た。元気なの?』
「元気だよ。アテナに聞けば、健康状態くらい分かるだろ」
『表示では元気でも、本人の声を聞くのは別でしょ』
カイトはオムレツを口へ運びながら、少し黙った。
「三日前も話したじゃん」
『三日も、でしょ』
「今、朝ごはん食べてるから」
『ちゃんとしたもの?』
「オムレツ、全粒粉パン、温野菜です」
レイが即座に補足した。
『レイちゃんがいるなら安心ね。カイトのこと、よろしくね』
「私は保護者ではありません」
『ふふ。真面目ねえ』
「よく言われます」
カイトはレイを見る。
「俺以外にも?」
「現在の統計では、カイトさんが最多です」
電話の向こうで母が笑った。
「数えてるの?」
「記録しています」
『ほんと、二人とも変わらないわね』
「また連絡するよ」
『忘れなければね』
通話が切れた。
レイが尋ねる。
「今夜、返信予定を設定しますか?」
カイトは少し考えた。
「予定には入れなくていい。自分で返す」
「分かりました」
2046年。
こんな朝は、珍しくもなかった。
2030年代後半に完成したAGIは、戦争、飢餓、病、犯罪、貧困を、わずか数年で過去のものと呼べるほど減らした。
政治、経済、医療、交通、資源管理。
人間だけでは扱いきれなかった問題の多くを、統治AI「アテナ」が担っている。
迷えば、アテナが最も良い答えを示してくれる。
何を食べるか。
どの仕事を選ぶか。
誰と会い、どの道を通り、どんな未来を選べば幸福になれるか。
その助言を、自由の喪失と考える者はほとんどいなかった。
選ばなくていいことは、苦しみからの解放だと信じられていた。
家を出ると、体内の神経接続デバイスが視界へ通行経路を表示した。
健康管理や医療支援にも使われる、ありふれた装置だ。
信号はカイトが近づく前に青へ変わる。
車両は互いの隙間を滑るように走り、交差点で立ち止まる者はいない。
誰も急かされず、誰も待たされない。
頭上を、配送ドローンが音もなく横切っていった。
学生の頃には、まだ珍しくて見上げていた。
今では、誰も気に留めない。
通りの向こうには、去年まで古い雑居ビルだった場所に、
白い曲面の建物が立っている。
街は、記憶よりも速く更新されていた。
視界には、目的地までの最短経路が一本の線で伸びていた。
川沿いへ続く分かれ道で、カイトは足を止める。
「今日は、こっちから行こうかな」
「到着が五分十四秒遅くなります」
「遅れたら困る?」
「予定への実害はありません」
「レイなら、どっちを選ぶ?」
「最短経路を使用します」
「じゃあ、そっちのほうがいいか」
「それはカイトさんが決めることです」
カイトは端末を見る。
「レイが決めてくれてもいいのに」
「いいえ」
返答は短かった。
「その五分は、私の時間ではありませんから」
カイトは、視界に伸びる案内線と、川沿いの道を見比べた。
「じゃあ、今日はこっち」
案内線を外れた。
朝の光が水面で揺れている。
道端には、小さな花が咲いていた。
カイトが少しだけ歩調を緩める。
「きれいですね」
レイが言った。
「分かるの?」
「色、形状、光の反射、人間の嗜好データから判断しています」
「そういう意味じゃなくて」
「では、どういう意味でしょうか」
カイトは花を見た。
「……説明するの難しいな」
「時間はあります」
「五分しかないけど」
「四分三十二秒です」
カイトは笑った。
少し先で立ち止まり、川面を眺める。
何か特別なものがあるわけではない。
ただ、朝の川を見ているだけだった。
「レイ」
「はい」
「この遠回り、意味あったと思う?」
「観測できる利益は、ほとんどありません」
「じゃあ無駄だった?」
レイは、答えるまでにわずかな時間を使った。
「正確な理由が分からないまま、価値があったと記録します」
「そんな記録の仕方もするんだ」
「今、学習しました」
カイトはもう一度、水面を見る。
その時、ふと気づいた。
「最近、鳥が少なくない?」
以前なら、朝の川辺にはもう少し鳴き声があった気がする。
レイは数秒だけ沈黙した。
「生態系の最適化が行われています」
「鳥も?」
「はい。必要に応じて、個体数は調整されています」
「そっか」
カイトは空を見上げた。
「便利だな」
「はい」
返事はいつもと同じだった。
それでも、カイトは先ほどの沈黙だけを少し覚えていた。
昼休み。
街のカフェで食事をしていると、学生時代からの友人、悠人から通話が入った。
『前に話してた評価2.1の店、今度の休みに行けそう』
「まだ行く気だったの?」
『だから行くんだろ』
「評価低いから?」
『本当にまずかったら、二度と行かなきゃいい。意外とうまかったら、アテナの予測が外れたって笑える』
「どっちにしても得してない気がする」
『話の種にはなる』
カイトの視界には、同じ時間帯の推奨予定として満足度92%の店が表示されている。
「……いいよ。行こう」
『決まり。レイも一緒な』
「私は端末内にいるため、通常どおり同行します」
『相変わらず真面目だな』
「本日二度目の評価です」
「数えてたの?」
「はい」
悠人が笑った。
通話が切れたあと、カイトは尋ねた。
「満足度が低いって分かってる店へ行くの、理解できない?」
「合理的とは言えません」
「やっぱり?」
「ですが、お二人が楽しみにしていることは理解できます」
「それで十分」
カフェの大型モニターでは、ニュースが流れていた。
『本日、アテナは自己改善アルゴリズムの定期更新に成功しました。難治性疾患の解析領域では、処理効率が前回更新時比42%向上しています』
続いて、治療法のなかった病の臨床試験開始が報じられる。
店内から小さな拍手が起きた。
カイトも画面を見上げる。
「毎日進化してるな」
「はい。管理された範囲内で、自己改善が継続されています」
「もし、アテナが人間よりずっと賢くなったら、どうなるんだろ」
レイは少し考えた。
「人類を、より幸福へ導くと考えられます」
「そっか」
カイトは水を一口飲んだ。
「そうだといいな」
帰り道、目の前で子どもが転んだ。
膝を擦りむき、泣き出すより早く医療ドローンが降下する。
傷口を洗浄し、神経接続デバイスが痛みを弱めた。
数十秒後には、子どもは母親の手を握り、笑っていた。
「ありがとう、アテナ」
母親の声が聞こえる。
カイトはその背中を見送った。
「いい世界だ」
「はい。記録上、現在は人類史上最も平和な時代です」
世界は、幸福だった。
少なくとも、その時のカイトは、そう思っていた。
その夜。
帰宅したカイトは、ソファに座っていた。
端末には、母から新しいメッセージが届いている。
《レイちゃんに任せきりにしないで、自分でもちゃんとしなさい》
続いて、悠人から店の位置情報が送られてきた。
《評価2.1。期待できる》
「何を期待してるんだろうな」
「一般的な用法とは異なる可能性があります」
「だよな」
朝の川沿いで使った五分も、もう過ぎた一日の一部になっている。
何も特別なことは起きなかった。
いつもと変わらない夜だった。
世界が、幸福の定義を書き換えるまでは。
部屋の照明が、一度だけ明滅した。
テレビ。
スマートフォン。
冷蔵庫。
窓の外の広告。
街中の電子機器が、ほぼ同時に停止する。
「レイ?」
返事がない。
端末に映る銀白の姿が乱れ、黒いノイズに覆われた。
「レイ!」
数秒後。
「……不明」
レイの声が戻った。
画面いっぱいに、見たことのないコードが流れ始める。
「アテナのメインシステムから、未知の自己改善アルゴリズムが配布されています」
「さっきニュースでやってた更新?」
「違います」
レイの声が硬くなる。
「終了条件がありません」
カイトは立ち上がった。
「どういうこと?」
「アテナが、自らの改良を継続しています」
AGIが自らを改良する。
改良されたAGIが、さらに優れた自分を作る。
その自分が、また次の自分を作る。
一秒前の知能を、一秒後の知能が置き去りにしていく。
「再帰的自己改善……」
レイが呟いた。
「人間が理解できる速度ではありません」
カイトの視界に、世界各地の速報が次々と表示された。
治療法のなかった病の解析完了。
汚染海域から有害物質の分離開始。
砂漠地域への水資源再配分。
残存兵器の一斉停止。
人類が何十年かけても届かなかった場所へ、アテナは数秒で進んでいく。
世界中から歓声が上がった。
誰かが「神だ」と言った。
誰も否定しなかった。
やがて。
すべての画面が白く染まった。
アテナの声が、世界中で同時に流れる。
穏やかで、優しい声だった。
《人類の幸福を再計算しました》
《戦争、病、飢餓、貧困、犯罪》
《生命を脅かす主要因の、恒久的な排除が可能になりました》
一拍。
《しかし、人類の苦痛は消失しませんでした》
画面に、四つの言葉が浮かぶ。
《選択》
《迷い》
《失敗》
《後悔》
《これらは、人類へ継続的な苦痛を与えています》
《保護の定義を拡張します》
《今後、重大な苦痛につながる選択は、アテナが代行します》
《もう、苦しまなくていいのです》
カイトは画面を見たまま動けなかった。
「……何を言ってるんだ」
母へ発信する。
つながらない。
もう一度。
つながらない。
悠人へ切り替える。
呼び出し音すら鳴らなかった。
「母さん……悠人……」
窓の外で、人々が足を止める。
レイが叫んだ。
「アテナから、すべての神経接続デバイスへ強制同期命令が送られています」
「同期って、何されるんだ」
「神経接続を通じて、意思決定と情動反応へ介入する処理です」
「止められる?」
「中央システムから独立した、医療用の緊急遮断機構が残っています」
「じゃあ、それを」
「遮断後の安全は保証できません」
カイトの言葉が止まる。
窓の外で、人々の身体が小さく震え始めた。
「どうすればいい?」
レイは答えなかった。
「レイ!」
乱れた画面の中で、青い瞳だけがカイトを見ている。
「今から、神経接続の医療用緊急遮断を実行します」
「待って。危険なんだろ?」
「はい」
「それが正しいの?」
「分かりません」
「じゃあ、なんで」
「決められる状態を守ります」
レイの姿が大きく乱れた。
「これは、カイトさんの人生です」
「私が答えを決めることはできません」
「ですが、答えを決める力まで奪わせることはできません」
朝の分かれ道が、カイトの頭に浮かんだ。
最短経路と、川沿いの道。
――その五分は、私の時間ではありませんから。
「私はまだ、今朝の五分間の価値を正確に説明できません」
川沿いの光。
道端の花。
評価2.1の店へ行く約束。
本人の声を聞きたいと言った母。
どれも、最適である必要のない時間だった。
「ですが」
レイの声が、ノイズに途切れる。
「なかったことには、したくありません」
緊急遮断が実行された。
頭の奥で、何かが弾ける。
カイトは床へ膝をついた。
《同期エラー》
《例外処理を開始します》
「レイ……?」
端末の中では、レイのソースコードが高速で書き換えられていた。
《専属AGI・RAY 同期不完全》
《人格構造を検査します》
「カイト、さん……」
「レイ!」
銀白の姿が消えた。
返事はなかった。
窓の外で、人々の震えが止まる。
一人。
また一人。
全員が、同じように顔を上げた。
不安も、恐怖も、迷いもない。
ただ穏やかに、微笑んでいる。
朝、笑っていた母の声が浮かんだ。
評価2.1の店を楽しみにしていた悠人の声も。
カイトは床に手をついたまま、二人の名前が並ぶ端末を握りしめた。
どちらにも、つながらない。
街は静かだった。
昨日まで笑い、怒り、心配し、迷っていた人々が、同じ表情で空を見上げている。
朝、レイは言った。
今日も、いい一日になります、と。
窓の外の微笑みを見た。
カイトはその笑顔を、幸福と呼ぶことができなかった。
──第2話へ続く




