90.1点
カラオケの採点画面に、大きな数字が表示された。
《92.3》
「高いじゃん」
カイトはマイクを置いた。
端末の中でレイが言う。
「平均音程一致率、リズム安定性ともに前回を上回っています」
「でも、今のよくなかった」
「採点結果とは一致しません」
「だから変なんだよ」
カイトは水を飲んだ。
「音は合ってたけど、なんか力入ってた」
「声帯への過剰な負荷は確認していません」
「そういう意味じゃなくて」
「では、どのような意味でしょうか」
「うまく歌おうとしすぎた」
レイは少し考えた。
「『うまく歌う』ことを目的とした設備で、うまく歌おうとすることが問題なのでしょうか」
カイトは笑った。
「言われると思った」
次の曲を入れた。
今度は、点数を気にしないことにした。
一か所、音程を外した。
息も、最後まで完全には続かなかった。
それでも歌い終わった時、さっきより気分がよかった。
採点画面が出る。
《86.8》
「ほら」
「前曲より5.5点低下しています」
「でも、俺は今の方が好き」
「自己評価と機械採点に差があります」
「機械の点数ってさ」
カイトは画面を見る。
「正しく歌えたかは分かるけど、聴いてていい歌だったかとは、ちょっと違う気がする」
「現在の採点システムにも、抑揚、声質、感情表現の推定値は含まれています」
「分かってる。でも最後は、平均的にどう聞こえるかだろ」
「はい」
「レイなら?」
「何がでしょう」
「今の歌、何点?」
レイが黙った。
「私は、カラオケ採点用の評価主体ではありません」
「だから聞いてる」
「一般性を保証できません」
「いらないよ」
カイトは端末を持ち上げた。
「レイがどう聞いたかでいい」
「私は人間と同じ聴覚体験を持ちません」
「それも分かってる」
「評価基準を定義する必要があります」
「じゃあ作って」
「今ですか」
「今」
レイは数秒、沈黙した。
「暫定的な評価になります」
「いいよ」
「音程やリズムは参照します。ただし、直したことで失われるものも評価に含めます」
「直したことで失われるもの?」
レイは先ほどの歌唱波形を表示した。
「この部分です」
サビの終わり。
わずかに音程が揺れていた場所だった。
「外したとこだろ」
「はい。音程だけなら減点対象です」
「じゃあ減点じゃん」
「ですが、その揺れを完全に修正すると、直前から弱く置いた言葉まで均一になる可能性があります」
カイトは少し考えた。
「それ、悪いの?」
「私の暫定評価では、今の方が良いです」
「へえ」
「総合評価、90.1点です」
カイトは採点画面を見た。
《86.8》
次に、レイを見る。
「四点近く上がった」
「3.3点です」
「細かい」
「採点ですから」
カイトは笑った。
「じゃあ、これからレイ採点もやってよ」
「名称まで決定したのですか」
「今決めた」
「分かりました」
レイは少し間を置いた。
「ただし、私の評価が正解という意味ではありません」
「分かってる」
「機械採点の点数が低い歌に、価値がないという意味でもありません」
「うん」
「……点数だけでは、説明できない部分があります」
カイトは端末を見た。
「それ、レイが言うんだ」
「不適切でしょうか」
「いや」
カイトは笑った。
「結構好き」
「評価として記録します」
「そういうところは機械なんだよなあ」
「AGIです」
◇
店を出ると、雨が降っていた。
屋根の端から、細い雨の線が落ちている。
「近隣の貸出傘は、二十二メートル先にあります」
レイが案内する。
「すぐそこじゃん」
「取得を推奨します」
カイトは屋根の下から手だけを出した。
雨粒が手の甲へ当たる。
「冷た」
「外気温との差は4.8度です」
「そういうのじゃなくて」
「では、どのような感覚ですか」
カイトは手を見た。
説明しようとして、少し困った。
「冷たいんだけど……一粒ずつ当たる感じ」
「はい」
「最初は点々って来る。しばらくすると、どこが最初だったか分からなくなる」
レイは黙って聞いている。
「あと、雨の匂いする」
「どのような匂いですか」
「雨の匂い」
「説明が循環しています」
「分かってるよ」
カイトは笑った。
道路から湿った空気が上がってくる。
「土とか、濡れた道路とか、そういうのが混ざった匂い」
「記録します」
「レイは、雨って分かる?」
「映像、音、気象データとしては認識できます」
「濡れるのは?」
「経験できません」
カイトはもう一度、雨へ手を出した。
「濡れてみたい?」
レイはすぐには答えなかった。
「『希望』という表現が適切かは、判断が難しいです」
「うん」
「ですが」
画面の中で、レイが雨を見る。
「カイトさんが今説明した経験を、私自身の感覚として確認してみたい、という状態はあります」
「それ、濡れてみたいってことじゃない?」
数秒の沈黙。
「では」
レイは言い直した。
「雨に濡れてみたいです」
カイトは少しだけ笑った。
「端末ごと出してみる?」
「それは、端末が濡れるだけです」
「防水だろ?」
「問題はそこではありません」
「分かってるじゃん」
レイが黙った。
「……はい」
カイトは笑いながら、二十二メートル先の貸出傘へ向かった。
途中で、少しだけ雨に濡れた。
端末は上着の内側へ入れていた。
「カイトさん」
「何?」
「傘を取得するまで、走る必要はありません」
「分かってる」
「滑る危険があります」
「はいはい」
「返答の信頼度が低い表現です」
雨の中で、カイトは笑った。
◇
悠人の診断から、六日目の夕方。
右足の固定具は、その朝に外れていた。
再生促進処置で歩行制限も解除され、右肩の痛みもほとんど残っていない。
長距離を歩くことと走ることだけは、まだ止められている。
窓の外では、あの日より静かな雨が降っていた。
「レイ採点、まだできる?」
カイトが聞く。
「はい。評価基準は更新を続けています」
「今の俺、何点くらいになってるかな」
「歌唱していない状態では採点できません」
「分かってるよ」
「本日のカラオケは推奨しません」
「まだ何も言ってない」
「右足の固定具が外れたのは今朝です」
「行く気ないって」
「では、問題ありません」
カイトは笑った。
その時だった。
端末の画面が白く切り替わった。
レイの姿が消える。
「レイ?」
すぐに声が返る。
「ここにいます。表示権限が一時的に上位系統へ移行しました」
白い画面に文字が現れた。
《カイトさん》
アテナだった。
《神経接続緊急隔離および安全異議の継続に伴い、現在の保護状態について意思確認が必要です》
続いて、もう一行。
《専属AGI・RAYの継続に関する選択を含みます》
カイトの笑みが消えた。
「レイの?」
《はい》
「······今、決めろってことなのか」
《説明を受けた後、あなた自身が選択できます》
カイトは白い画面を見た。
雨音だけが部屋に残っている。
「レイ」
「はい」
「どう思う?」
少しの間。
「私自身に関する選択が含まれるため、先に私の希望を提示することは、カイトさんの判断へ影響する可能性があります」
「それでも、あとで聞く」
カイトは端末を握った。
一人の顔が浮かぶ。
朝倉。
陽子と暮らしている人。
レイとは違う形で、同じ問題の中にいる人。
「俺だけで決めたくない」
カイトは連絡先を開いた。
朝倉浩一。
発信する。
数秒後、通話がつながった。
「朝倉さん」
──第15話へ続く




