欠けたカップ
「お帰りなさい、浩一さん」
玄関の明かりがついた。
「ただいま、陽子」
朝倉は靴を脱ぎ、少し曲がったネクタイを緩めた。
「遅くなった」
「お疲れさまでした。コーヒー、淹れましょうか」
「もうこんな時間だぞ」
「飲みたそうなお顔をされています」
「そんな顔、分かるのか」
「毎日見ていますから」
陽子はそう言って、台所へ向かった。
ほどなく、二つの白いカップがテーブルへ並ぶ。
朝倉は自分のカップを持ち上げた。
縁の一部が、小さく欠けていた。
「また少し広がっていますね」
「前からだ」
「前より大きくなっています」
「よく見てるな」
「毎日見ていますから」
同じ答えに、朝倉は小さく笑った。
陽子も向かいに座り、自分のカップへ口をつける。
「熱くないか」
「少しだけ」
そう答えながら、陽子は朝倉へ手を伸ばした。
「浩一さん。まだ曲がっています」
「もう帰ってきたんだから、いいだろ」
「私が気になります」
ネクタイを直す指先が、朝倉の首元へ触れた。
温かかった。
「日曜日、新しいカップを見に行きませんか」
「これ、まだ使えるぞ」
「その言葉、先週も聞きました」
「先週も使えたからな」
陽子は少しだけ困ったように笑った。
「今度も、白がいいです」
「また白か」
「二つ並べた時、きれいですから」
朝倉は、テーブルに並んだカップを見る。
「じゃあ、白にしよう」
「はい」
「日曜だな」
「忘れないでくださいね」
「今度は覚えてる」
「先月も同じことをおっしゃいました」
陽子の笑い声が、小さく部屋へ広がった。
朝倉も笑った。
窓の外では、静かな雨が降り始めていた。
◇
「お帰りなさい、浩一さん」
暗かった部屋に、壁面端末の明かりがついた。
画面の中で、陽子が微笑んでいる。
「ただいま、陽子」
朝倉は一人で靴を脱いだ。
「現在、二十二時四十七分です。コーヒーは睡眠へ影響する可能性があります」
「今日は飲む」
「分かりました。量を少なくします」
コーヒーメーカーが動き出す。
用意されたのは、一つだけだった。
朝倉は、白いカップを手に取った。
縁の欠けた、古いカップだった。
「欠けが、以前より広がっています」
「そうだな」
「交換をおすすめします」
壁面に、いくつものカップが表示された。
白。
黒。
薄い灰色。
青。
「どれがいいですか」
朝倉は、しばらく沈黙していた。
少し間を置いて、陽子が尋ねる。
「私が選んでもよろしいですか」
「ああ」
候補が、ゆっくりと消えていく。
最後に残ったのは、深い青色のカップだった。
「これにします」
朝倉は、画面を見た。
「…···陽子は、それは選ばない」
陽子は否定しなかった。
微笑みも消さなかった。
ただ、わずかな沈黙のあとで答えた。
「私は陽子ですが、奥様ではありません」
朝倉の指が、欠けた縁に触れた。
「……わかってる」
部屋には、コーヒーメーカーの停止音だけが残った。
やがて、テーブルの端末が振動した。
表示された名前は、カイトだった。
朝倉が応答する。
『朝倉さん』
「どうした」
『アテナから、レイのことで選択を求められました』
朝倉は壁面端末を見る。
陽子も、静かに朝倉を見ていた。
『俺だけで決めたくないんです』
少しの沈黙。
「場所は」
カイトが場所を告げる。
「分かった。今、行く」
通信を切り、朝倉は立ち上がった。
古い白いカップを、テーブルに残して。
「行ってくる」
「はい。いってらっしゃい、浩一さん」
扉が閉まる。
壁面端末の明かりが残る部屋で、青いカップの注文表示が、静かに消えた。
──第16話へ続く




