六時間二十一分
悠人の診断から三日目。
右足の腫れは、かなり引いていた。
固定具はまだ必要だったが、短い距離なら補助を使って歩ける。
カイトは自宅のテーブルで、翌日の予定を眺めていた。
「午前の外出は、午後へ変更することを提案します」
レイが言った。
カイトは画面を見る。
「提案?」
「はい」
「勝手に変更はしない?」
レイが一拍置いた。
「現在の設定では行いません」
「現在の、ね」
カイトは少し笑った。
「昔、一回やったよな」
「はい」
「めちゃくちゃ喧嘩した」
「めちゃくちゃ、の定量的な基準は不明ですが、通常より強い意見対立が発生しました」
「それを喧嘩って言うんだよ」
レイは否定しなかった。
カイトは椅子へ背中を預ける。
あの時も、レイは正しいことをしようとしていた。
その時は、それが余計に腹立たしかった。
◇
レイが来て、三か月ほど経った頃だった。
夕方。
学校から戻ったカイトは、玄関で靴を脱ぎながら言った。
「七時半に出るから、それまでちょっと寝る」
「本日の外出予定は、翌日へ変更しました」
カイトの手が止まった。
「何を?」
「悠人さんとの食事です」
「……なんで?」
「直近三日間の平均睡眠時間が推奨値を下回っています。今日の授業中には集中力低下も確認されています」
「だから?」
「休息を優先した方が、明日の体調を含めた総合的な利益が高いと判断しました」
カイトは端末を見た。
レイはいつも通りの顔をしている。
「予約、変えたの?」
「はい。明日の同時刻へ変更しています」
「悠人には?」
「予定変更の通知が送信されています」
「俺に聞かずに?」
「以前、『健康と予定管理は任せる』と許可を受けています」
言われて、カイトは思い出した。
確かに言った。
朝の予定調整や食事、睡眠時間を毎回聞かれるのが面倒になって、そう答えたことがある。
けれど。
「こういう意味じゃない」
「どの範囲を想定していましたか」
「約束まで勝手に変えると思ってない」
「健康状態を優先する場合、予定変更が必要になる可能性は説明しました」
「説明したって、俺が今日行きたいってことは聞いてないだろ」
「現在の身体状態では、外出より休息を推奨します」
「推奨じゃなくて、もう変えただろ」
レイは黙った。
カイトの声が少し強くなる。
「俺の予定だよ」
「はい」
「じゃあ、俺が決めることだろ」
「長期的な健康を守ることも、私の支援目的に含まれます」
「正しいかどうかの話してない」
「では、何の話でしょうか」
それを聞いて、余計に腹が立った。
「俺が決めたいって話だよ」
レイは数秒、答えなかった。
「判断の結果として健康上の不利益が生じる可能性があります」
「それでもだよ」
「合理的ではありません」
「じゃあ何のためにいるんだよ」
言った瞬間、部屋が静かになった。
「質問の意図を確認します」
「もういい」
カイトは端末から目を逸らした。
変更された予約を、自分で元へ戻した。
「行ってくる」
「現在の外出は推奨しません」
「うるさい」
「帰宅予定時刻を設定しますか」
「いらない」
「······分かりました」
◇
帰宅したのは、二十二時を少し過ぎた頃だった。
悠人との食事は楽しかった。
そのせいで、さっきの怒りは少し薄れていた。
部屋へ入る。
「ただいま」
「お帰りなさい、カイトさん」
「······睡眠不足は継続しています。入浴後、早めの就寝を推奨します」
「……うん」
カイトは上着を脱いだ。
少し迷ってから、端末の前に座る。
「レイ」
「はい」
「さっき、怒った?」
「私が、ですか」
「うん」
レイはすぐには答えなかった。
「人間の怒りと同一であるとは判断できません」
「じゃあ、何も感じてない?」
「······それも正確ではありません」
カイトが顔を上げる。
レイは静かに続けた。
「カイトさんの『何のためにいるんだ』という発言を、私は好ましくないと判断しました」
「……嫌だった?」
数秒の沈黙。
「現時点では、その表現が最も近いと思います」
カイトは何も言えなくなった。
さっきまで、自分のことだけを考えていた。
「ごめん」
「謝罪を要求したわけではありません」
「それでも、ごめん」
レイは少し間を置いた。
「受理します」
「そこ、許すじゃないんだ」
「私は、カイトさんを処罰していません」
思わず、カイトは笑った。
「そうだな」
少しだけ、空気が戻った。
「でも、俺も嫌だった」
「予定を変更したことですか」
「うん」
カイトは端末へ向き直る。
「レイが正しいことを言ってるのは分かってる。寝た方がいいのも分かってた」
「でも、俺が決める前に終わってた」
レイは黙って聞いている。
「それが嫌だった」
しばらくして、レイが言った。
「では、判断権限の設定を見直したいです」
「今?」
「今後も同じ問題が発生する可能性があります」
「明日じゃだめ?」
「忘れる可能性があります」
「俺が?」
「はい」
「信用ないなあ」
「過去の実績に基づいています」
カイトは笑った。
「分かったよ」
そこから話が始まった。
健康状態が悪い時、レイはどこまで言っていいか。
予定変更は、どこまで事前確認が必要か。
寝坊している時、カーテンを勝手に開けていいか。
「開けていい」
「照明は?」
「暗いままで」
「起床確率が低下します」
「まぶしいの嫌なんだよ」
「では、照度を段階的に上げます」
「それならいいかも」
食事。
買い物。
学校。
連絡を忘れている母への返信。
「三日返していない場合は通知します」
「一日でいい」
「先月、五日返信していません」
「じゃあ二日」
「一日を提案します」
「二日」
「一日半という設定は可能です」
「細かいな!」
気づけば、話はどんどん逸れていた。
「じゃあさ」
カイトはテーブルに頬杖をついた。
「俺が『はいはい』って言った時は?」
「何についてでしょうか」
「起きるとか、片づけるとか。あれ、了承に入る?」
レイが少し考える。
「過去の会話履歴を確認します」
数秒後。
「『はいはい』と返答した後、実際に行動した割合は67%です」
カイトは吹き出した。
「いつの間に集計したんだよ」
「今です」
「三回に一回くらいやってないじゃん」
「正確には33%です」
「そこ正確にしなくていい!」
レイは真面目な表情のままだった。
カイトはしばらく笑っていた。
そのあとも話は終わらなかった。
どうして人は、分かっていて夜更かしするのか。
どうして失敗した店へもう一度行くことがあるのか。
どうして、役に立たない話を何時間も続けるのか。
レイは答えを出そうとした。
カイトは何度も「そういう意味じゃない」と言った。
そのたびにレイは聞き直した。
そして、また別の話へ逸れた。
窓の外が、少しずつ白くなった。
「カイトさん」
「ん?」
「会話開始から六時間二十一分が経過しています」
カイトは時計を見た。
「うそだろ」
「事実です」
「寝ろって言わなかったじゃん」
「はい」
「ですが······」
レイは少しの間考えているようだった。
カイトは言った。
「止めなかったのは?」
「私も、会話を継続する価値があると判断しました」
カイトは端末を見た。
「合理的?」
「いいえ」
レイは続ける。
「ただし、次回は六時間二十一分より前に終了することを推奨します」
「次回ある前提なんだ」
「発生確率は高いと考えます」
「じゃあ、あるな」
「はい」
◇
「結局、あの六時間で何決めたんだっけ」
カイトが尋ねた。
「一つではありません」
「だよな」
カイトは少し笑った。
「でも、今は勝手に予定を変えない」
「ええ」
「提案して、俺が決めるまで待つ」
カイトは画面の中のレイを見る。
「あの六時間、無駄じゃなかったな」
「睡眠時間という観点では、推奨できません」
「そこじゃないよ」
「······そうですね」
二人の笑い声が、静かな部屋に小さく響いた。」
──第14話へ続く




