第11話 交わらぬ双星と疑似的な夜 (挿絵あり)
──マーテェルナビス4号機、居住区画。
人工天蓋が光量を落とし、鋼鉄の艦内に欺瞞に満ちた『疑似的な夜』が訪れていた。
環境を維持するための循環システムの駆動音すら極限まで絞り込まれた、耳鳴りがするほどの無機質な静寂。
その自室の冷たい床に立ち、俺は一人、分厚い透過装甲の向こう側を見つめていた。
窓枠によって切り取られた景色の向こうに広がるのは、無数の星々が砕けた氷の破片のように冷たく瞬く、絶対零度の漆黒。果てのない真空の宇宙空間だ。
そしてその彼方──視界を暴力的とも言える質量で圧迫して浮かんでいるのが、惑星アースニアだった。
大気圏に高濃度で混濁する魔力が引き起こす光学現象なのか。
地表は赤や紫、緑が複雑に混ざり合った、毒々しくも悍ましい虹色のマーブル模様を描いて渦を巻いている。
俺たちがいずれ降り立ち、血を流し、そして誰にも看取られることなく鉄屑と共に朽ちていくであろう、巨大な墓標。
その禍々しい星の瞬きを網膜に焼き付けながら、俺の胸の奥では、13号機の庭園で出会った少年・ジンの言葉が、何度も、何度も呪文のように木霊していた。
『人類皆が豊かで幸せに生きられる場所を作るんだ』
純粋で、無垢で、今の俺たちには到底直視できないほど眩しすぎる光。
俺たちのように培養槽で造り出され、引き金を引くためだけに命の期限を設定された生体兵器には、決して描くことのできない、明日へと続く未来の形。
それでも俺は、あの少年の無垢な夢を、希望を、ただ守りたいと強く願ってしまったのだ。
肌を撫でたあの美しい庭園の風が、初めて口にした温かい食事が、俺の奥底に眠る魂に『人間として生きろ』と痛切に囁きかけている。
逃げてばかりではいけない。
俺が自分の芽生え始めた心をごまかし、曖昧な境界線に立ち止まっているから。
ただ一人の家族であるスレアは不安に苛まれ、自らを守るための防壁として、過剰なまでに己の心を殺していくのだ。
(兵器の論理じゃなく、人間の言葉でぶつかれ。……ジークさんの言う通りだ)
決意を固め、小さく息を吐き出したその時。
背後で部屋の電子ロックが解除され、油の切れた駆動音ひとつ立てることなく、滑らかにドアが開いた。
「私よ、兄さん」
入り口の暗がりに立っていたのは、スレアだった。
彼女の白銀の髪が、分厚い透過装甲から差し込む宇宙の薄暗い青っぽい光に照らされて、幽鬼のように青白く、微かに透けて見える。
彼女は窓辺に立つ俺の背中を確認すると、足音すら立てない兵器特有の歩法でゆっくりと歩み寄り、隣へ立った。その青い光を反射して、彼女のアイスブルーの瞳が、凍てつく宇宙そのもののように鋭く、より一層際立って見えた。彼女はそのまま無言で漆黒の宇宙を眺めた。
「また、窓の外を見ていたの。……無駄な時間」
隣に立つスレアの瞳は、相変わらず氷点下の冷たさを保っている。一切の感情の揺らぎを|排した、精巧なガラス玉のような瞳。
だが、今の俺には誤魔化せなかった。
俺は小さく深呼吸をした。
この部屋のどこかに潜んでいるかもしれない軍の監視カメラや、微細な集音マイクなど、今の俺にはどうでもよかった。
言葉を交わさずとも脳内に直接意志を伝えることができる、【思念伝達】。それは反逆罪に問われることも、他人に盗聴されることもない、兵器にとって最も安全な逃げ道だ。
だが、そのノイズのない完璧な会話手段を、今の俺は明確に拒絶した。
声帯を震わせ、空気を介して、不完全な音を相手の鼓膜に届ける。
それは『人間』が行う、酷く泥臭くて不器用なコミュニケーションの形だ。
俺は、その『本当の声』で、彼女に真っ直ぐ向き合った。
「……無理をしてるな、スレア」
「なんの話?」
「誤魔化すな。機体との同調率、こっそり基準値を超えて上げているだろ。顔色がひどい。お前の細い神経でそんな真似を続ければ、脳髄が焼き切れるぞ」
俺が静かに、だが確かな非難を込めて指摘すると、スレアは僅かに細い肩を強張らせ、窓から視線を逸らした。
沈黙が落ちる。環境音すらない部屋の中で、彼女の浅く乱れた呼吸音だけが微かに聞こえていた。
「……私は、完璧な兵器でなきゃいけないの。甘すぎる兄さんの分まで、私が補わなければ」
「だからって、心を殺して自分をすり減らす必要はない! 俺たちは道具じゃないんだ!」
「心なんて、ただの致命的な欠陥にすぎないわ」
スレアの声が、ひどく冷たく、そして細い糸のように微かに震えた。
「感情を持てば、迷いが生じる。戦場で迷って引き金を引けなければ、私たちを待っているのは理不尽であっけない『死』だけ。……どうして兄さんは、そんないらないものを拾おうとするの」
「ただ生かされているだけじゃ、意味がないと気づいたんだ。俺は、誰かのために生きたい。血の通った命として」
俺は手を伸ばし、スレアの傍らに垂れ下がっていた冷たい手をそっと握った。彼女の細い指先は、まるで死人のように、ひどく冷え切っていた。
「お前を守りたいと思うのも、俺の脳にプログラムされた護衛命令からじゃない。俺自身の、俺だけの意志だ」
「やめて!」
弾かれたように。
スレアが、俺の手を激しく振り払った。バチン、と乾いた音が室内に響く。
常に感情を殺し、どんな過酷な命令にも従う氷の兵器として振る舞ってきた彼女が、初めて見せた激しい動揺だった。
後ずさった彼女の瞳の奥が、ひどく傷ついたように、そして何か得体の知れない強大な運命に『酷く怯えるように』激しく揺らいでいる。
「人間ごっこなんてやめて……! 兄さんのその甘さが、その無意味な優しさが! いつか兄さん自身を殺すのよッ!」
静かな部屋に、ガラスが割れるような悲痛な叫びが響き渡った。
「私たちはただの兵器なのよ! 感情に迷って引き金を躊躇えば、待っているのは『廃棄処分』だけ! そうなったら、もう誰も兄さんを守ってくれない!」
俺は息を呑んだ。
胸を締め付けるような彼女の叫びには、ただの想像や危惧を超えた、まるで「明確な死の秒読み」の存在をすでに知っているかのような、生々しく、張り裂けんばかりの恐怖がべったりと張り付いていた。
「スレア、お前……一体何を……」
「だから、私の意思は変わらない。兄さんが何を言おうと、私がすべての敵を殲滅する。兄さんが人間の心に迷う前に、私がすべての障害を斬り伏せる『完璧な兵器』になる」
荒い呼吸を繰り返す彼女の言葉には、刃のような鋭い拒絶と、そして、自分の魂がどうなろうと構わないという、血を吐くような狂気的な愛情が込められていた。
「……兄さんを、絶対に死なせないために」
彼女の真実。
それは、どこまでも残酷で、純粋すぎる自己犠牲だった。
兵器としての冷徹さは、ただ一つ。優しすぎる俺が戦場で迷い、『廃棄処分』という名の処刑の引き金を引かれてしまう前に、すべての敵を自らの手で排除するための、分厚く、悲しい「鎧」だったのだ。
俺に血で汚れてほしくないから。俺に人間でいてほしいから。彼女は自ら進んで、心を殺す悪魔の道を選んだのだ。
互いを誰よりも大切に想い、互いの生を誰よりも強く願っているのに。
生き残るためのアプローチが真逆になってしまった俺たちは、もはや言葉だけでは分かり合えない、致命的な断絶の淵に立たされていた。
重く、氷点下の沈黙が降りる。
目の前で、血が滲むほど強く唇を噛み締める妹に。俺は何の言葉も掛けてやれなかった。
俺自身がまだ何も成し遂げておらず、彼女が魂の底から怯える『廃棄の恐怖』を、理不尽なこの世界ごと覆せるだけの「力」を示せていないからだ。
無力な理想論など、彼女の絶望の前ではただの雑音にしかならない。
その直後だった。
二人の情報端末が同時に、耳を劈くような甲高い警告音を鳴らした。血の色を思わせる赤い光が、薄暗い室内を不吉に明滅させる。
『──緊急動員命令。対象者、AERS-01(アレス)、SREA-02(スレア)。直ちに第1格納庫へ出頭せよ』
機械的で、一切の|慈悲を含まない|合成音声が、俺たちの時間を強制的に断ち切った。
「……格納庫? こんな深夜に?」
「行こう……。兄さん」
スレアは先ほど強く振り払った俺の手首を、今度は自ら強く掴み、半ば強引に部屋から連れ出した。
その細い手を振り払うことなど、到底できなかった。
俺を引く彼女の指先は、まるで死地に赴くようにひどく小刻みに震えていて、そして、どこまでも氷のように冷たかったから。
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