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ヴェリタスの最終定理 PART1/エラーラ・ヴェリタス  作者: Wan Liyue
●第1章:主人公の消滅

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第5話:ギデオン・ヴァンツ

これを手に取ったあんたに、最初に言っておくことがある。

これは、俺という一人の記者がその存在のすべてを賭けて記す、一切の脚色も、一欠片の嘘もない、ありのままの記録だ。


俺はギデオン・ヴァンツ。十五年、インクの匂いが染みついた指で、この国の英雄たちの『真実』を書いてきた。ああ、もちろん、あんたが知っている真実だ。編集部が喜び、民衆が拍手喝采し、子どもたちが目を輝かせる、ハリボテの真実だよ。俺は、その作り話の片棒を担ぐことで、この気だるい街でどうにか生き長らえてきた。


だが、俺はある日、本物の『真実』に出会っちまった。それは、世界の土台を根こそぎひっくり返すような、馬鹿げていて、恐ろしくて、そしてどうしようもなく心を惹きつける、残酷な事実だ。その日を境に、俺が今まで書いてきた全ての記事は、インクで塗り固めたただの嘘の塊になった。

だから、これは警告だ。

もしあんたが、今の生活に満足していて、英雄の活躍に胸を躍らせ、世界の平和を信じて疑わない幸福な人間でいたいなら、今すぐこの紙束を暖炉にでも放り込むんだな。この先には、あんたの信じる世界を肯定してくれる言葉は一行たりとも書かれていない。

だが、もし世界の裏側を、ハリボテの英雄譚の先に隠された本当の『力』の正体を、知る覚悟があるなら……読み進めるがいい。



アスファルトの代わりに敷き詰められた魔石の舗道は、三日続きの雨に濡れて、安物の宝石みたいに鈍く光っていた。

王都。

夢と野心が渦巻くこの街で、俺はインクと煙草と安い酒の匂いにまみれてもう十五年になる。「週刊コロッセオ」の記者、ギデオン・ヴァンツ。それが俺の名刺に書かれた、たった二行の事実だ。


編集部の安物のランプが、書きかけの原稿をうんざりしたように照らしている。次の特集は、闘技場の若きスター。甘いマスクと、貴族受けする綺麗な剣筋。民衆はそういう分かりやすい記号が好きだ。だが、俺の目には、そいつの振るう剣がまるで安全な玩具にしか見えなかった。気だるい。何もかもが、予定調和の茶番劇だ。


「本物、ねえ…」


煙草の煙と一緒に、独り言が漏れる。そんなものは、この街じゃとうの昔に絶滅した。そう思っていた。傭兵たちが溜まる酒場で、あの噂を聞くまでは。

名を、ジンというらしい。

公式記録には一切存在しない、幽霊のような武道家。その噂はどれも出来の悪いおとぎ話のようだったが、なぜか俺のささくれだった心に引っかかった。

本物を探しているんだろう? だったら、光に聞け。影のことは、光が一番よく知っている。俺は大陸最強の男、「不動」のドミトリー・ヴォルコフにアポイントを取った。表向きは、「偉大なる英雄の足跡を辿る」という、ありきたりな特集記事の取材だ。


ヴォルコフの屋敷は、成功者の匂いがむせ返るほどに満ちていた。壁には磨き上げられたトロフィーや魔物の首がこれみよがしに飾られている。当の本人は、暖炉の前にどっかりと腰を下ろし、退屈そうに俺を迎えた。


「『英雄の足跡』、か。お前たちも好きだな、その手の話は」


「読者が求めるものですから。まずは、有名な『灼熱丘陵の赤鬣キマイラ』討伐のお話からお聞かせいただけますか? 伝説では、三日三晩に及ぶ死闘だったとか」


俺はわざとらしくメモ帳を広げ、優等生な記者の顔を貼り付けた。ドミトリーは「ふん」と鼻を鳴らしたが、語るのが嫌いなわけではないらしい。


「死闘、ね。まあ、ちと骨は折れたな。奴の炎と氷のブレスを同時にさばくのに手間取ってな…」


俺はドミトリーの武勇伝に、適当な相槌を打ちながらペンを走らせた。帝国剣聖との百番勝負の話。たった一人でゴブリンの軍勢から砦を守り抜いた話。どれもこれも、民衆が喜ぶ英雄譚だ。だが、ドミトリーの声には、どこか熱がこもっていない。何度も繰り返してきた、手垢のついた物語をなぞっているだけなのが分かった。


一通り彼の「公式記録」を聞き終えたところで、俺はペンを置いた。そして、おもむろに本題を切り出す。


「素晴らしい。やはり、あなたに敵う者などこの大陸には存在しない。…ですが、一つだけ。ゴシップ記事にもならない、酒場の与太話で、奇妙な名前を聞いたことがありましてね。ジン…という男の名を」


空気が、凍った。

さっきまで退屈そうに自らの伝説を語っていた男の顔から、すべての感情が抜け落ちる。暖炉の火が揺らめき、壁に飾られた魔物の首が、まるで生きているかのように影を伸ばした。


「…ジン、だと?」


俺がその名を口にすると、大陸最強の男の肩が、ほんのわずかに震えた。豪放磊落なチャンピオンの顔はそこにはない。ただの、何かに怯える一人の男の顔があった。


「あんたほどの男が、なぜそこまで…」


「小僧!……お前は、知らないのだ…」


ドミトリーの声は、乾いた葉が擦れるようだった。


「強さとは、積み上げるものだと、俺は信じていた。技を磨き、肉体を鍛え、魔力を練り上げる。だが、奴は違った。奴の強さは…概念そのものだった。災害だ。人の姿をした、世界のバグのようなものだ」


そこから語られたジンの伝説は、俺が酒場で聞いた与太話など、可愛い子どものお遊戯に変えてしまうほど凄まじかった。


ジンが睨むだけで、山は自らの重さに耐えきれず崩落した。ジンが歩いた森は、生命の理屈を忘れ、一夜にして腐り果てた。奴が放つ闘気は、空間そのものを歪ませ、熟練の魔術師たちが束になっても、魔法をまともに構築することすらできなかった。


「俺も…対峙したことがある」


ドミトリーは己の拳を握りしめる。その指先は白を通り越して、紫色になっていた。


「死ぬかと思った。いや、違うな。俺はあの時、確かに一度死んだのだ。奴がただ、俺という存在を『見逃した』。それだけのことだ…」


最強の男が見せる、完全な恐怖。それは伝染する。俺は背筋を冷たい汗が伝うのを感じながら、唾を飲み込むことしかできなかった。世界は、この男が最強だと思い込んでいる。だが、その本人が、まるで赤子のように震えている。この事実だけで、特大のスクープ記事が一本出来上がる。


だが、話はそこで終わらなかった。


「そのジンは、最終的に自らの力に飲まれ、世界そのものを喰らう寸前までいった。我々は…ただ、終わりの時を待つことしかできなかっ、『た』」


「…過去形、ということは、誰かがそいつを止めた、と?」


「ああ」


ドミトリーはそう言うと、ふっと息を吐いた。恐怖とは違う、もっと複雑な、畏敬とも諦めともつかない表情だった。


「止めた者がいる。」


俺は身を乗り出す。ジンの存在を遥かに超える、とんでもない話だ。いったいどんな英雄が、どんな神の力を借りて、その災害を止めたというのか。


「…一人の、少女だ」


「は?」


あまりに予想外の答えに、俺は間の抜けた声を出した。ドミトリーは続ける。


「褐色の肌に、場違いな白衣を一枚羽織っただけのな。彼女の名は、エラーラ・ヴェリタス。そう、戦いにもならなかった。彼女がジンの前に立ち、彼に何かを少し話した。ほんの数秒だ。ほんの数秒だ……次の瞬間、あの絶対的な力の化身は…砂のように崩れ落ちて消えた」


頭が理解を拒む。愕然とした。なんだ、それは。武勇伝ですらない。魔法か? 神の奇跡か? 俺が必死に言葉を探していると、応接室のドアがノックされた。


「ドミトリー。頼まれていた『触媒』の解析、終わったぞ」


入ってきた人物を見て、俺は息を呑んだ。

褐色の肌。計測機器でも仕込んでいるのか、不可思議な光を放つゴーグルを額に上げ、真っ白な衣を身にまとった少女。ドミトリーが語った、その姿のままだった。


「おお、エラーラか。早いな。助かる」


ドミトリーは、先程までの恐怖に満ちた顔が嘘のように、気の置けない友人に笑いかけた。少女は部屋の中央まで歩いてくると、俺を一瞥いちべつした。


「ふぅん? 新しい実験体か、ドミトリー」


「はは、違う。こいつは記者のギデオン君だ。俺の武勇伝を聞きに来てな。…ちょうど、君の話をしていたところだ」


ドミトリーが俺をエラーラに紹介する。エラーラと呼ばれた少女は、値踏みするように俺の頭からつま先まで視線を走らせると、すぐに興味を失ったようだった。俺は、この千載一遇の機会を逃すわけにはいかなかった。混乱した頭で、必死に言葉を紡ぎ出す。


「あんたが…あんたがエラーラ・ヴェリタスか。単刀直入に聞く。あんたにとって、あんたにとって……『強さ』、とはなんだ? どうやって、あの、ジン、を…」


エラーラは心底面倒くさそうに、俺の言葉を遮った。


「強さ? そんな不確定で、定義の曖昧なものに興味はないな。私が知りたいのは、この世界の理…法則、システム、その設計図だけだ。あの現象…君たちがジンと呼んでいた個体は、システムの想定を超えたエラーに過ぎん。私はただ、そのバグの発生原因を特定し、デリートするコマンドを口頭で入力した。それだけのことだ」


まるで、道端の石ころを蹴飛ばしたかのような口調だった。彼女にとって、世界の危機を救ったことなど、研究の過程で起きた些細な出来事でしかないのだ。


エラーラはドミトリーに向き直ると、一枚の羊皮紙を差し出した。


「これが今回の依頼料の請求書。例の古代遺跡から出土したオーパーツの解析費用も上乗せしておいた。支払いはいつも通り、私の研究所の口座に頼む」


「ああ、分かっている」


ドミトリーは苦笑しながら請求書を受け取ると、懐から金貨の入った袋をいくつか取り出し、彼女に渡した。前金か何かだろう。

エラーラはそれを受け取ると、もう俺たちには一瞥もくれず、踵を返した。


「では、私は次の実験がある。じゃあな、ドミトリー。記者君も、せいぜい有益なサンプルでいることだ」


扉が閉まり、廊下を遠ざかっていく足音だけがやけにクリアに響いた。

最強が恐怖した、絶対的な破壊の化身。

その化身を、数秒で、言葉だけで消し去った少女。

俺は、自分が追い求めていた「本物」という言葉の、あまりの陳腐さに眩暈がした。インクと煙草の匂いが染みついたこの身で、追いつける相手じゃない。だが、だからこそ、書かなければならない。

俺は椅子に深く座り直し、新しい煙草に火をつけた。雨は、まだ止みそうになかった。

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