第1話RE:連行される不審な科学者!
エラーラ編はこの章で完結です(早い)
チリン、と乾いた音が風に乗って響いた。
獣病院の二階、本来は書斎であったはずの部屋は、今や異様な熱気に満ちていた。
分厚い遮光カーテンが外界の光を拒絶し、室内を照らすのは、天井から吊り下げられた魔導灯と、フラスコやビーカーが並ぶ実験台の上で明滅する、色とりどりの不安定な魔力の光だけだ。空気はよどみ、焦げた薬草の匂いと、動物の体臭、そしてオゾンの刺激臭が混じり合って、およそ「病院」とはかけ離れた異臭を放っている。
その混沌の中心に、一人の女がいた。
白衣をまとった、褐色の肌。
豊満すぎる胸のせいで黒いインナーが悲鳴を上げており、着こなしは酷くぞんざいだ。白銀の髪は、邪魔だと言わんばかりに無造作にかき上げられ、その顔には目の下に濃い隈が浮かんでいる。
しかし、その倦怠感とは裏腹に、彼女の瞳は、目の前の小さな存在に釘付けになっていた。
「ふむ……実に興味深いデータだ。投与開始から三十分。脳内の魔力循環速度が平常時の……3倍に加速している!」
その女、エラーラ・ヴェリタス。
彼女が覗き込むガラスケースの中では、一匹のゴールデンハムスターが、小さな回し車を猛烈な勢いで回していた。
ただ回しているのではない。
その動きは明らかに一定のリズムを刻み、時折、前足で複雑なタップダンスのような動作を差し挟んでいる。
「いいぞ!被験体13号!実にいい!君のその小さな頭脳が、やがては大陸全土の魔導演算ネットワークを凌駕するのだ!その第一歩として、まずは円周率の暗唱から……いや、それはまだ早いか……」
エラーラは、この獣病院の本来の持ち主である友人、獣医師ケンジ・クライフォルトとその妻アリアから「実験室が完成するまで」という、曖昧すぎる約束でこの部屋を借り受け……つまり、事実上占拠してから、すでに、半年が経過していた。
彼女は表向き「医師」もしくは「探偵」、あるいは「騎士」を名乗っているが、その実態は、既存の魔導理論の枠を遥かに超えた、危険で怪しげな実験に明け暮れるマッドサイエンティストであった……!
その褐色の肌と、モデル顔負けの整った容姿、そして何よりアンバランスなまでの豊満な肉体は、彼女の意志とは無関係に、街の女性たちの熱い視線を集めていた。
エラーラ本人は「外見に惹かれるとは、実に愚かしい」と一蹴しているが、彼女が稀に街へ買い出しに出るたび、婦人服店やカフェの店員たちが色めき立つのは、王都では有名な光景だった。
だが、今!
彼女の興味は、ただひたすらに、ハムスターの知能強化サプリメントの開発に注がれていた……!
彼女はピンセットを手に取り、神経を集中させ、天秤にかけられた極小の魔力結晶を調整しようとした!
繊細な魔力制御が要求される、実験の最終段階だ。
鼻先に汗が滲む!
息を詰めた、その瞬間だった!
バンッッ!!!
鼓膜を突き破るような轟音と共に、実験室のドアが、文字通り蝶番から吹き飛んだ!
木片と埃が舞い上がる中、エラーラは驚愕に肩を跳ね上がらせた!
「なっ!?」
その一瞬の動揺が、命取りだった!
ピンセットが掴んでいた魔力結晶が臨界点を超える!
次の瞬間、ビーカーの中で調合されていたサプリメントの原液が、まばゆい紫電をほとばしらせた!
「しまった……!退避だ!ハムスター君!」
エラーラが咄嗟にハムスターのケージを抱えて床に伏せた、次の瞬間!
ドゥゴォォォォォンッ!!!
凄まじい爆発が、獣病院の二階を揺るがした!
爆風がカーテンを引きちぎり、割れた窓ガラスと共に、実験器具の破片や、焼け焦げた書類、そして謎の粘液が部屋中に撒き散らされる!
実験室は一瞬にして、まるで、竜の火炎が直撃したかのような惨状を呈した……!
「ゲホッ、ゴホッ……!き、貴様……!また貴様か……!」
黒煙が立ち込める中、エラーラは咳き込みながら顔を上げた。
その視線の先、吹き飛んだドアの残骸の向こうに、一人の男が立っていた。
使い古したトレンチコート。
数日は剃っていないであろう無精髭。
その疲れた顔には、今の爆発に対する驚きも、謝罪の色も一切ない。
「よ。エラーラ、生きてるか。……まあ相変わらず、派手な出迎えだなァ」
カレル警部。
王都警察の古株であり、エラーラに毎度毎度、厄介な事件の捜査協力を、半ば強制的に依頼してくる、彼女にとっての「疫病神」である。
エラーラは、抱えていたケージの中を覗き込み、ハムスターが無事なのを確認すると、安堵の息を漏らすと同時に、怒りを爆発させた。
「貴様!いったい、なんてことをしてくれた!私の、私の……私のハムスター用サプリが!……完成間近だったというのに!これで研究はまた一からやり……」
「ああそうか。そりゃ、悪かったな」
カレルは、舞い散る灰を手で払いながら、エラーラの絶叫を遮った。
「それよりエラーラ。事件だ。お前のその頭脳が必要になった」
「断る!断る断る断る断る!断ッ固として断る!私は今、人類……いや、げっ歯類の未来を左右する重大な局面に立っているのだぞ?貴様たちのくだらん謎解きに付き合っている暇は、1ミクロンたりとも、ない!」
エラーラは立ち上がり、カレルを鋭く睨みつけた。
爆発のせいで乱れた髪が、彼女の興奮を物語っている。
「まあまあ、そう言うなよ。今回はな、本当にヤバいんだ。こっちはもう三日も寝てない」
「知ったことか!貴様が寝ていようが起きていようが、それは私の研究には何の関係もない!帰れ!そして二度と、私の研究室のドアを破壊するな!……あ。……修理費はケンジに請求しておくのだぞ?」
「まあ、そう言わずにさ」
カレルは、爆風でひっくり返った椅子を元に戻すと、図々しくもそこに腰を下ろした。
「お前の好きな『不可解な謎』だぞ?どうしても解けないんだ」
「興味ないねえ!」
エラーラは鼻を鳴らし、散乱した実験器具の残骸を拾い集め始めた。その姿は、まるでお気に入りの玩具を壊された子供のようだ。
「どうせまた、『密室で盗まれたパンの犯人は、壁をすり抜けた幽霊でした』みたいな、貴様らの早とちりだろう」
「今回は違う!」
カレルが声を荒らげた。
「……頼むよ、エラーラ。このとーりだ!」
カレルは、その場に勢いよく土下座した。
「この通りだ!頼む!一番いいコーヒー豆を買ってくるから!お前の好きなやつをさ!ほら、俺の今月の給料全部はたいて買ってくる!だから、力を貸してくれ!」
床に額をこすりつけるカレルの姿に、エラーラは一瞬、言葉を失った。この男が、ここまで頭を下げるのは珍しい。
つまり、よほど切羽詰まった事件であることは、確かだ。
だが、エラーラは冷静さを取り戻し、腕を組んだ。
「……生憎だが、土下座で私の知性が動くとでも思ったかね?甘いな、甘すぎるぞカレル警部。私の時間は、王都の金貨をすべて積まれても足りないほど貴重なのだ!」
彼女はそう言い放つと、カレルに背を向け、実験室の隅にある小さな棚へと向かった。
そこは、爆発の被害を奇跡的に免れた、彼女だけの聖域だった。
棚には、年代物のサイフォンと、黒く艶やかな光を放つ豆が詰められた、厳重に封印されたガラス瓶が鎮座している。
彼女は、この研究に行き詰まった時、頭脳をリフレッシュさせるために、この豆を挽いて飲むのが唯一の習慣であり、贅沢だった。
「さあて……頭脳の冷却が必要だ。君も少し、休憩したまえ」
エラーラが、ガラス瓶に手を伸ばそうとした、その時。
床に突っ伏していたはずのカレルが、ゆっくりと顔を上げた。その疲れた瞳の奥に、狡猾な光が宿る。
「……そうか。ダメか。なら、仕方ないな……」
カレルは、むくりと立ち上がった。
その動きは、先ほどの懇願が嘘のように素早い。
そして彼は、エラーラが背を向けている隙に、彼女の聖域……コーヒー豆の棚に、音もなく近づいていた。
「……エラーラ。お前が協力しないというのなら、こちらも多少、強引な手を打たねばならん」
「……?」
エラーラは、カレルの不穏な口ぶりに眉をひそめた。
「いや、なに」
カレルはニヤリと笑うと、エラーラが何よりも大切にしているそのガラス瓶を、ひょいと掴み取った。
「これは……南都の森の奥地でしか収穫されないとかいう、例の高級コーヒー豆だな?ふむふむ、実に興味深い。今回の事件の『参考資料』として、署まで持って行くぞ」
「なっ!?」
エラーラの表情が凍りついた!
カレルがやろうとしていることを、彼女の明晰すぎる頭脳が一瞬で理解した!
この男は、この貴重な珈琲豆を、警察署の、泥水のような湯で煮出して飲む気だ!
「ま、待て貴様!それはいかん!それだけは……!」
エラーラは、研究者としての冷静さを完全にかなぐり捨て、獣のような速さで振り返った。
そして、豆の瓶を持ち去ろうとするカレルの手首を、渾身の力で掴み取った。
「それに触れるなァ!」
その瞬間、カレルの口元が、勝利を確信した笑みに歪んだ。
「……公務執行妨害」
「……は?」
エラーラは、カレルの手首を掴んだまま、動きを止めた。
カレルは、掴まれた腕をゆっくりと持ち上げ、エラーラの指が食い込んでいるのを見せつけるように言った。
「現行犯逮捕だ。ま、とりあえず、署まで来てくれ!」
「き、貴様……!は、謀ったなああああ!?」
エラーラは怒りに打ち震えた!
この男は、最初からこれが目的だったのだ!
自分の、珈琲への執着を知り抜いた上での……作戦だったのだ!
「謀った?人聞きの悪いことを言うなよ。俺はただ、事件の参考資料を押収しようとしただけだ。それを力ずくで妨害したのは……君だろう?」
「これは不可抗力だ!貴様が私の精神的支柱を人質に取ったからであって……!」
「問答無用。さ、行くぞ」
カレルは、空いている方の手で、懐から古びた魔導手錠を取り出した。
「離せ!私は行かんぞ!私は今、世紀の大発見の途中で……!」
エラーラが必死に抵抗し、カレルが「大人しくしろ!」と応酬する、その騒々しいやり取りの最中。
破壊されたドアの向こうから、呆れ果てたような二つの声が響いた。
「あーあ……。エラーラさん、また派手にやらかしてますね」
「今度はとうとう、逮捕ですか。……カレル警部?」
そこに立っていたのは、この獣病院の本来の持ち主である、ケンジとアリアの夫妻だった。
カレルは、エラーラの手首を掴んだまま、二人に敬礼した。
「ああ、ケンジ先生、アリアさん。お騒がせしてます。ええ、今回はちょっと、公務執行妨害の容疑でして」
「そっちですか」
アリアは大きなため息をついた。
「てっきり、また違法な魔導薬の密造か、病院の無許可改築あたりかと思いましたけど」
「アリア!ケンジ!違うんだ!私は嵌められた!この男が、この男が、私の珈琲豆を……!」
「はいはい、わかりましたから。エラーラ、あんまりカレル警部を困らせちゃダメですよ」
ケンジが、なだめるように言う。
「どうせ、また警部さんの捜査を手伝えば、すぐに釈放されるんでしょう?」
「そういう問題ではない!私のプライドと、研究の進捗の問題だ!」
「ああもう、いいから。観念しろ」
カレルは、抵抗するエラーラの腰を抱え、半ば強引に引きずり始めた。
「署に着いたら、それこそコーヒーくらいは淹れてやるから」
「貴様の淹れる泥水など誰が飲むか!離せ!離さんかーっ!」
獣病院の二階から、王都の青空に向かって、稀代の天才研究者の絶叫が響き渡った。




