第1話:未来を守る探偵(1)
王都の片隅は、いつも湿った朝霧に包まれて始まる。石畳の隙間から立ち上る靄が、古い建物の輪郭をぼやかす頃、その香りは決まって霧よりも早く空気を満たしていく。
深く焙煎された豆が挽かれ、熱い湯を浴びて芳醇な蒸気を上げる香り。「カフェ・クレマ」の朝だ。
ここは単なる珈琲屋ではない。王立魔導学院の学者や、その高額な講義料を払えないながらも知への渇望だけは人一倍強い学生たちが、夜明け前から集う場所。くたびれたローブの袖をまくり、分厚い魔導書を広げ、カップひとつで議論に花を咲かせる、知的好奇心の交差点だった。
「だからね、リサ。マナ粒子を励起させた後の状態を安定させるには、やっぱり第三相からのエーテル干渉が必要だと思うんだ」
店内に響く、凛とした声。銀色の長髪を無造作にかきあげ、その仕草ひとつが舞台役者のように様になる。エルフの女性、ヘレン。細身の体に、学者というよりは貴公子然とした装束をまとった彼女は、この店の常連の中でもひときわ目を引く存在だった。
その向かいで、小さなカップを両手で包み込むように持った少女が、不安げに眉を寄せている。リサ。柔らかな茶色の髪の間から、獣人の特徴であるふわりとした耳が覗いている。
「え、でもヘレン…それって、古典派の理論だと明確に禁忌とされてるんじゃなかった? エーテル流の衝突は、最悪の場合、術式そのものを崩壊させるって…」
「フフ、だからこそさ」
ヘレンは、挑戦的な光を宿した翠の瞳で、悪戯っぽく笑った。
「禁忌を破らずして、新しい魔法にはたどり着けないよ。既存の理論の枠内でちまちまと改良を重ねるなんて、あの退屈な教授たちに任せておけばいい。ボクたちは、誰も見たことのない景色を見るんだ」
その自信に満ちた横顔は、リサの目には眩しく映った。ヘレンはいつもそうだ。常識という名の壁を、いとも容易く飛び越えようとする。
「今日中にこの術式を完成させる。そして明日のボクの誕生日会で、みんなに披露するんだ。世界が変わる瞬間を、最初に見せてあげるよ」
「ヘレン…」
リサが頬を染め、尊敬の眼差しを向けた、その時だった。ヘレンの視線が、ふと窓際の席に向けられた。
(…また、あの女か)
そこにはいつも決まって、一人の女が座っている。陽光が差し込まない窓際の隅。まるで自ら影を選んでいるかのように。
日に焼けた褐色の肌。短く切り揃えられた銀髪は、ヘレンの絹のような輝きとは対照的に、無造作で硬質に見えた。そして何より異様なのが、珈琲屋には不似合いな、よれよれの白衣。胸元が大きくはだけ、その豊かな膨らみがだらしない白衣の上からでもはっきりと見て取れた。
女は、まるで今しがたヘレンたちの会話に気づいたとでもいうように、わざとらしくカップをソーサーに置いた。カチャリ、と乾いた音が響く。
そして、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。深い知性を宿す瞳が、品定めをするように二人を射抜いている。
「フム…なかなか興味深い議論をしているね」
低く、少し掠れたハスキーな声。
ヘレンは咄嗟に、リサを庇うように一歩前に出た。本能的な警戒だった。
「何か用ですか」
「用、というほどでもないがね」
白衣の女――エラーラ・ヴェリタスは、大げさな身振りで手を振った。
「君たちの理論、根本的な部分で見落としがある。致命的な、と言ってもいい」
「なっ…!」
「いいかね? 第三相の干渉は、確かに瞬間的な高出力を生むだろう。だが、その反動が術者の魂にどれだけの負荷をかけるか、計算に入っているかね?」
エラーラは、ヘレンが反論する隙も与えず、虚空に指を走らせた。指先に集った魔力光が、複雑な術式を空間に描き出す。それは、ヘレンが今朝、リサに見せていた術式そのものだった。
「君たちの理論では、エーテルの安定性がまったく確保できない。励起したマナは行き場を失い、術者本人に逆流する。つまり……こうじゃないか?」
エラーラが示した術式は、ヘレンがここ数週間、寝る間も惜しんで悩んでいた安定化の隘路を、いとも容易く解決するものだった。
「なっ…これは…!?」
「安定化させるなら、冷却のプロセスを組み込むんだ。反発する属性を同時に制御する。難易度は跳ね上がるが、不可能じゃない。まあ、君たちにはまだ早いかもしれんがね」
エラーラは高笑いし、興味を失ったように自分の席に戻っていく。
「……」
ヘレンは唇を強く噛んだ。指先が屈辱に震える。
圧倒的な知識。自分たちが積み上げてきた理論を、子供の遊びのようにあしらわれた。
だが、それ以上に許せないことがあった。
(今、リサは…)
隣に立つリサの、獣人の耳がぴんと立ち、その瞳が、エラーラが去っていく背中を、憧憬にも似た輝きで見つめていた。
自分よりリサが、あの女の知性に惹かれているように見えたのが、たまらなく嫌だった。
「行こう、リサ。こんなところ、もういたくない」
「え、あ、うん…。でも、さっきの術式…」
「いいから!」
ヘレンはリサの細い手を乱暴に掴むと、代金も払わず店を飛び出した。
残された二つのカップを、エラーラは興味深そうに眺めていた。
その頃、王都中央警察署の薄暗い一室で、カレル警部がこめかみを押さえていた。
机の上には、惨たらしい現場写真が添付された報告書が山積みになっている。
「またか…今月に入って、もう五件目だ…」
広域強盗事件。それだけなら、この荒んだ王都では珍しくもない。問題は、その手口だった。被害者は皆、過剰な魔力攻撃によって、原型を留めないほどに破壊されていた。
「魔法の無軌道な使用…」
カレルは吐き捨てるように呟いた。
「魔導具の低価格化で、誰もが手軽に強大な力を得られるようになった。その分、人の命が恐ろしく軽くなっている。嘆かわしいことだ」
部下の若い警官が、恐る恐る報告書を差し出した。
「警部、今回の犯人も、おそらく魔法殺人を軽く考えていたフシが…。被害者を殺害した後、その場で食事をした形跡が…」
「そうだろう!」
カレルは机を叩いた。
「力に酔い、痛みを想像できなくなった愚か者どもだ。魔法が、人を人でないものに変えてしまった…!」
その頃、王都の安アパートの一室。リサの自宅で、二人はまだ議論を続けていた。いや、議論とは名ばかりの一方的な主張だった。
「今度こそ上手くやるさ、リサ!見ててくれ、この新しい増幅呪文を…!」
ヘレンは、カフェでの屈辱を振り払うかのように、改造した魔導具を前に興奮していた。その目には焦りの色が浮かんでいる。
「ヘ、ヘレン…でも、その術式、やっぱりエラーラさんが言ってたみたいに、不安定かも…。励起と冷却の同時制御、少しだけでも試してみない?」
リサが不安げに獣人の耳を揺らす。
「あの女の話はするな!」
ヘレンは苛立ちを隠さず叫んだ。
「あの女はボクたちを馬鹿にしてるんだ!ボクの理論は間違ってない!あの女のやり方なんて借りなくても、ボクはボクのやり方で成功できる!大丈夫だって!ボクを信じて!」
「う、うん…ヘレンがそう言うなら…」
リサは、親友の剣幕に押され、それ以上何も言えなかった。
ヘレンが魔力を注ぎ込む。術式が眩い光を放つ。カフェでエラーラに指摘された、不安定な励起プロセスだ。
「いけっ!」
だが、その瞬間。
魔導具が、耳を劈くような甲高い音を立てた。制御を失った魔力が、嵐のように逆巻き、暴走を始めた。
「きゃあああっ!」
「しまっ…!?」
迸る魔力光が、ヘレンを直撃しようとした。
それを、リサが突き飛ばした。
「……え?」
リサの小さな体が、ヘレンを庇うようにして、暴走した魔力の奔流に飲み込まれた。
閃光が部屋を焼き尽くす。
そして、静寂が訪れた。
糸が切れた人形のように、リサがゆっくりと床に倒れた。焦げた服から、細い煙が上がっている。
「リサ…?」
ヘレンは、何が起こったのか理解できなかった。
「リサ!おい、冗談だろ…?リサ!」
揺さぶっても、リサは動かない。
震える手で鼻先に触れる。呼吸がない。
胸に耳を当てる。心臓の音がしない。
魔力の波動を探る。何も感じられない。
冷たい。
「あ…あ……」
ヘレンの頭が真っ白になる。
(ボクが…リサを…?殺した…?)
自分の手が、親友の命を奪った。
カレル警部が嘆いていた、無軌道な魔法の使い方。力に酔った愚か者。それは、自分自身のことだった。
「殺人犯…ボクが…?」
王都の法律が脳裏をよぎる。
魔法による殺人は、たとえ過失であっても重罪だ。
「し…死刑…?」
パニックが全身を支配した。
逃げなければ。
捕まるわけにはいかない。
こんな、こんな馬鹿げたことで、人生を終わらせるわけにはいかない。
明日は、誕生日なのに。
(でも、お金が…一文無しだ…)
魔導具の改造に、けちな小遣いはすべて使い果たしていた。
その時、視界の隅に、リサがいつも大切にしていた、がま口の財布が入った。彼女が毎日のように倹約して、貯金していると言っていたものだ。
(ダメだ…ダメだ、リサのお金だ…)
親友を殺した上、そのなけなしのお金まで奪うのか。
そこまで落ちぶれるのか。
(でも…でも、これで逃げないと、ボクは捕まる…死刑になる…!)
葛藤は一瞬だった。
ヘレンは、まるで熱い鉄塊でも掴むかのように財布をひったくると、部屋を飛び出した。
「ごめん、リサ…ごめん…!ボクは…!」
涙で前が見えない。
アパートの軋む階段を駆け下りると、ちょうど買い物から帰宅したリサの母親と鉢合わせた。
「あら、ヘレンちゃん。そんなに慌ててどこへ…リサは?」
「あ…あ……」
ヘレンは言葉を失い、ただ首を横に振ることしかできなかった。
リサの母親の優しい笑顔が、罪悪感となって突き刺さる。
「…っ!本当に、ごめんなさい!」
母親を押しのけるようにして、ヘレンは外へ飛び出した。
いつの間にか降り始めた冷たい雨が、王都の雑踏を濡らしていた。ヘレンは、その人波の中へと消えていった。
その頃、王都中央警察署のロビーは、別の意味で騒然としていた。
「だから!何度言えばわかるんだね!」
白衣を翻し、エラーラ・ヴェリタスが大げさな身振り手振りで叫んでいた。彼女の前には、若い警官が困り果てた顔で立っている。
「これは『高出力魔力発生装置を備え付けたハムスターの籠』だ!車輪がない以上、車両法には抵触せんと言っているだろう!」
「エラーラさん、車輪がなくとも、許可なく走行用の魔力推進器を搭載させた時点で、王都条例違反です!」
「走行用ではなくて飛行用だと言っている!そもそもこれは『ハムスター飛行理論』の実証実験を兼ねた、画期的な発明なんだよ!」
「どちらにせよ定格以上の魔力出力は違反です!罰金を払ってください!」
「支払わん!私の研究の価値がわからんのかね、この石頭!」
エラーラが警官の胸倉を掴まんばかりに詰め寄った、その時だった。
「違うんです!お願いです、信じてください!」
ロビーに、悲痛な声が響いた。
リサの母親が、カレル警部に必死に食い下がっていた。
「ヘレンちゃんはそんな子じゃありません!あの子は、リサを守ってくれて…!あの子は、逃げる時、私に…私に、『ごめんなさい』って…謝ってたんです!誕生日の前日にリサを殺すなんて、ヘレンちゃんはそんなこと…!」
カレルは疲れたように首を振った。
「奥さん、お気持ちは分かります。ですが、証拠が全てを物語っている。被害者の魂は離脱。つまり法律上は死亡。財布は盗まれ、加害者は逃走。目撃者である貴方の証言とも一致する。故意であろうとなかろうと、結果は変わらん…。これは、強盗殺人事件として処理する」
「フム…?」
口論を中断していたエラーラが、その奇妙なやり取りに興味を引かれた。
(被害者遺族が、加害者を庇う…?これは実に興味深い心理サンプルだ)
エラーラは面倒くさそうに財布を取り出すと、金貨を数枚、窓口に叩きつけた。
「これでいいだろう?」
「え!?こ、こんなに多すぎます!罰金は銅貨で…」
「フン、次回の前払いだ!どうせまた、私の画期的な発明にケチをつけて呼び出すんだろう!?取っておきたまえ!」
エラーラはそうまくし立てると、カレルと母親の間に割って入った。
「失礼。カレル君、その事件、少々引っかかるね」
「エラーラ…!…今は取り込み中だ」
カレルが露骨に嫌な顔をする。この女は、いつも面倒事ばかり持ち込んでくる。
「まあそう邪険にするな。私もその二人、ヘレン君とリサ君だったかな?珈琲屋でよく見かけるよ。今朝も会ったが、特に仲が悪いようには見えなかったがね?」
「それは主観だ。事実は、リサ嬢が亡くなり、ヘレンが財布を持って逃げた。強盗殺人だ。」
カレルの態度は頑なだ。
「フーン…」
エラーラは顎に手を当て、リサの母親に向き直った。
「ところで奥さん。差し出がましいことを聞くが、そのヘレン君だがね。歳はいくつだったかね?」
母親は戸惑いながらも、娘の友人を庇う一心で答えた。
「え?…ああ、リサと同学年ですから…14歳ですけど…」
「な…?」
その瞬間、エラーラの顔から全ての表情が消えた。
そして、次の瞬間、彼女はカレルの胸倉を掴み上げていた。その力は、白衣の学者とは思えないほど強かった。
「カレルッ!!……君はまだ!この事件の『本当の重大さ』が分かっていないのかッ!?」
エラーラの顔は、褐色の肌の上からでも分かるほどに青ざめていた。彼女は大げさに頭を抱え、銀髪をかきむしり、そして雷に打たれたように叫んだ。
「いいか!今すぐ全力でヘレン君を確保しろ!今すぐにだ!」
「はあ!?何を言って…」
「私も追う!私に特例逮捕権を今すぐ寄越したまえ!」
「また無茶を!民間人にそんなもの…」
「ああもう!」
エラーラはカレルの耳元で叫んだ。
「先に確保したのが私だったら、最高級の珈琲を貰い受けるからな!」
カレルは一瞬戸惑ったが、エラーラの切羽詰まった表情に、ある可能性を察知した。そして、彼もまた顔色を変えた。
「……まさか!」
「そうだ!そのまさかだ!急げ!」
エラーラはカレルの返事も待たず、白衣を翻し、警察署を飛び出していった。




