第2話:消えた文豪(2)
王都から南へ魔導列車で丸一日。エラーラが降り立った場所は、灼熱地獄と呼ぶにふさわしい、『アル=カラハド砂漠』の入り口だった。
小説にあった『肌を刺すように冷たい砂嵐』など、どこにも吹いていない。大気は茹だり、陽光は物理的な重さを持って肌を焼いた。
「フム。環境データ、小説の記述と著しく矛盾。だが、検証はこれからだ」
彼女は、小説に『英雄の故郷』として記されていた、砂漠の端の小さな村落へと向かった。
村は、日干しレンガの低い家々が寄り添う、貧しいが穏やかな場所だった。
エラーラは、唯一の日陰を提供している集会場で、村の長老らしき男に面会した。
「私は王都の論理解析士だ。シルヴァヌス・レクス氏の著書、『太陽を掴んだ男』について調査している」
エラーラがその本を見せると、長老は深いシワの刻まれた目で、それを奇妙なもののように眺めた。
「…シルヴァヌス? 知らない名だ。アル=カラハド…ああ、それは我らが古い言葉で『太陽を喰らう大蛇』を指す、砂嵐の呼び名だ。場所ではない」
「何だと? では、この本に書かれている、この村に伝わる『太陽を呑む者の民話』とは?」
「民話? フン。そんなものは無い。我らに伝わるのは、砂漠を敬い、静かに生きるという『理』だけだ。第一…」
長老は、本の装飾的な表紙を、節くれだった指で叩いた。
「我々は、文字を持たん」
エラーラの思考が、一瞬停止した。
「…文字を、持たない?」
「我らは『砂の民』。我らの歴史は、歌と記憶によってのみ受け継がれる。そもそも、この『本』というものに、我らの真実が書かれていることなど、あり得ない」
エラーラは立ち上がった。
「…フム。なるほど。データは揃った。感謝する」
決定的な証拠だった。
小説の舞台とされる場所は、名前の誤用。
小説の根幹とされる『民話』は、存在しない。
そして何より、その民話を記録したとされる『古代文字』自体が、この地には存在しなかった。
小説は、根も葉もない、完全な『嘘』。
エラーラは、この非合理な虚像を構築した男への、冷たい怒りにも似た好奇心を覚えながら、王都へと戻った。
彼女が王都のターミナルに降り立った時、街の空気は、彼女が出発した時とは一変していた。
熱狂が、冷めている。
いや、別の種類の、冷たい興奮に置き換わっていた。
街の全ての巨大スクリーンが、あのアナウンサーの切迫した顔を映していた。
『…衝撃の事実が判明しました! シルヴァヌス・レクス氏の経歴は、その全てが、完全な『捏造』であったことが発覚したのです!』
「何だと?」
エラーラの足が止まる。
(私の解析結果が、既にリークされた? いや、タイミングが早すぎる)
スクリーンは、エラーラの掴んだ証拠など、霞んでしまうほどの『真実』を叩きつけていた。
『シルヴァヌス・レクス氏は、貧民街の生まれではありません! 彼は、王都有数の金融財閥、『ノースウィンド・コンツェルン』の御曹司であることが判明しました!』
どよめく街の雑踏。
『さらに! 彼の小説の舞台となった『アル=カラハド砂漠』ですが、彼は生涯、砂漠どころか王都の南へ出たことすらなかったのです! 彼の故郷は、北の最も寒い辺境、『白の寒村』でした!』
エラーラは、スクリーンを凝視していた。
(貧民ではなく、富豪。灼熱の砂漠ではなく、雪の寒村。これは…)
『そして、極めつけは、彼の象徴であった『蒼珠名誉勲章』です! これもまた、完全な偽物でした!』
『十年前、彼は魔導車両による重大な死亡事故を起こしており、その事実を、財閥の力と金で揉み消していたのです!』
エラーラの脳が、高速で回転する。
(名誉ではなく、重犯罪。…これは、単なる『嘘』ではない。全てのデータが、真実と『あべこべ』だ。まるで、現実を反転させたかのような、完璧な『創作』)
そして、アナウンサーが、信じられない、という表情で、最後の決定打を読み上げた。
『さらに、我々の取材で、最も非現実的な事実が判明しました。シルヴァヌス・レクス氏は…文字の認識が、一切できなかったというのです』
『……すなわち、彼は、文盲でした』
雑踏が、完全に静まり返った。
エラーラの思考も、コンマ数秒、停止した。
(文盲…だと?)
あり得ない。
論理が、破綻している。
小説の内容が嘘であることは、エラーラも突き止めた。
だが、『文盲』の人間が、どうやって『作家』を名乗る?
どうやって、あの文章を書いた?
いや、それ以前に、王都を熱狂させた、あの『現象』の起点が、文字すら読めない人間だった?
「フハハ…! フハハハハ!」
恐怖でも、怒りでもない。
純粋な、最高の『謎』に直面した、科学者の歓喜だった。
(これは、単なる詐欺事件ではない。これは、論理の根幹を揺るがす『パラドックス』だ!)
(私の好奇心が、沸騰する!)
エラーラは、いてもたってもいられず、その場から駆け出していた。
スクリーンに映し出された、レクス氏の『本当の』邸宅、ノースウィンド財閥の別邸へと、全速力で向かった。
この目で、この非合理な存在の『実物』を解析しなければ、気が狂いそうだった。
邸宅は、王都の北、雪の寒村を、皮肉にも模した、静かな高級住宅街にあった。
だが、エラーラが辿り着いた時、そこは静まり返っていた。
あれほどのスキャンダルにもかかわらず、マスコミの一台もいない。
重い鉄の門には、鍵もかかっていなかった。
「…逃げた後か」
エラーラは、警戒しながら屋敷に足を踏み入れた。
埃っぽい。人が長い間、住んでいた形跡がない。
家具には、全て白い布がかけられている。
(メディアが報じた『邸宅』すら、嘘?)
エラーラは、二階の書斎と呼ばれるべき部屋のドアを開けた。
そこだけが、奇妙な生活感を残していた。
壁一面の本棚には、分厚い本が、それこそ『太陽を掴んだ男』と同じ装丁の本が、何百冊も並んでいた。
だが、その全てが、新品同然だった。開かれた形跡がない。
そして、部屋の中央、豪華なマホガニーのデスクの上に、一冊だけ、本が置かれていた。
あの、金の箔押しの、革表紙の本が。
エラーラは、デスクに近づいた。
だが、そこに作家はいなかった。
椅子は引かれたままだ。まるで、ついさっきまで誰かが座っていて、そして、ふっ、と消えてしまったかのように。
埃の上には、足跡一つ残っていない。
(…非合理だ)
エラーラは、デスクの上の本に手を伸ばした。
(何かがおかしい。この部屋の空気の密度が、異常だ。まるで、この部屋そのものが、現実から遊離している)
彼女は、本を開いた。
そのページは、白紙だった。
一枚めくっても、白紙。
次も、白紙。
最後のページまで、インクの染み一つない、完璧な『白紙の本』だった。
エラーラは、その本を持ったまま、呆然と立ち尽くした。
彼女の脳が、ついに結論を導き出した。
(…作家など、最初からいなかった……?)
シルヴァヌス・レクスという『存在』そのものが、この王都の集団的な『願望』が生み出した、怪異だったのだ。
『貧民から英雄へ』という、非合理で陳腐な物語を、人々が求めすぎた。
その『願望』が、この空っぽの屋敷に、『シルヴァヌス・レクス』という名の虚像を一時的に顕現させた。
そして、『文盲だった』という最後の『あべこべ』の真実が暴かれた瞬間、その存在矛盾に耐えきれなくなった『怪異』は、泡のように消滅した。
人々が熱狂した『本』は、元から白紙だった。
人々は、白紙のページに、自分たちの見たい『物語』を、勝手に映し出して読んでいたに過ぎない。
エラーラは、その空っぽの建屋を、ゆっくりと後にした。
冷たい秋の風が、彼女の白衣を揺らした。
彼女は、自分が何を追い求めていたのか、忘れていた。
詐欺の証拠か?
社会の病理か?
それとも、文盲の作家というパラドックスの解か?
その全てが、意味を失った。
全てが『無』だったのだから。
エラーラは、王都の雑踏の中に立ち止まる。
彼女の手には、一冊の、重い『白紙の本』が握られていた。
彼女は、その真っ白なページを、ただ、見つめていた。




