第1話:消えた文豪(1)
「ああ、非効率だ。実に非効率の極みだ」
エラーラ・ヴェリタスは、こめかみを押さえた。
研究所近くのキオスクでの高濃度カフェインの購入。その合理的な行動が、非合理な障害によって阻害されたからだ。
キオスクの隣、王都で最も大きい「王立書店」の前に、黒山の人だかりができていた。
「なんだいあれは。新種の菌類の培養でも始まったのかね?」
エラーラは渋々、その人だかりに近づいた。耳障りな興奮が、大気を振動させている。
「 ついに手に入れたぞ!」
「あの『シルヴァヌス・レクス様』の、御本だ!」
「貧民街の泥の中から、あの『蒼珠名誉勲章』を掴み取った、王都の英雄!」
「フン」
エラーラは、即座に興味を失った。
彼女は人混みをかき分け、目的のカフェインを手に入れると、足早に自分の「研究所」へと戻った。
だが、その『現象』は、エラーラの合理的な日常を侵食し始めた。
翌日、王都の全ての魔導スクリーンが、その男の顔を映し出した。
『今、王都が最も誇るべき人物、シルヴァヌス・レクス氏です!』
貧しさで土に汚れた少年時代の想像図。嵐の砂漠をたった一人で踏破した功績。そして、胸に『蒼珠名誉勲章』を輝かせ、国王に謁見する姿。
「ほう。大したプロパガンダだ」
エラーラは、解析作業の片手間に、そのニュースを眺めた。
『彼の著書、『太陽を掴んだ男』は、我々に勇気と希望を与えてくれます!』
インタビュアーが、興奮してアナウンサーに問いかける。
『特に、どの部分に感銘を受けられましたか?』
『え? ああ…それはやはり、彼が『蒼珠名誉勲章』の保持者である、という点ですね』
『…ええと、小説の内容について、ですが…』
『内容? 素晴らしいですよ。なんと言っても、あの『名誉勲章の英雄』がお書きになったのですから!』
「…………」
エラーラは、カチリ、とスクリーンを消した。
「非合理だ。会話が成立していない。」
現象は、加速した。
『太陽を掴んだ男』は、瞬く間に王都のバイブルとなった。
人々は、その分厚い本を持つこと自体をステータスとし始めた。
「読んだー?」
「いや、まだ。でも持っているよ。なんつっても『名誉勲章』作家の御本だからな!」
そんな会話が、エラーラの立ち寄るカフェのあちこちで聞こえる。
一月もしないうちに、小説は舞台化され、映画化された。
舞台も映画も、観客は熱狂した。
「感動した!」
「どのシーン?」
「シルヴァヌス・レクス様の『蒼珠名誉勲章』を胸につけるシーンだ! あそこで私は泣いた!」
内容は、誰も語らない。
そしてついに、王都議会は、その本を『王都推薦図書』に認定した。
『全ての市民の精神的支柱として、本書の携帯を義務づける』
「…フム」
エラーラの事務所にも、その『義務』の通知と、分厚い本が届いた。
革の表紙には、金の箔押しで、太陽と勲章のマークが描かれている。
「ついに私の合理的な空間にまで、この非合理な紙の束が侵入してきたか」
エラーラは、不快感を露わに、ゴム手袋をはめると、その本を摘み上げた。
「これほどの集団ヒステリー。単なる心理現象とは考えにくい」
彼女の科学者としての好奇心が、不快感を上回った。
「仮説その1。本書には、読んだ者の思考を画一化する、高度な『魔術的作用』が施されている」
エラーラは、本をスキャナーにセットした。
魔力残滓の検出。精神干渉波の測定。古代ルーンの不可視インクの分析。
エラーラはコンソールの前で腕を組んだ。
「…検出結果。全てゼロだ」
結果は『シロ』。
本には、一切の魔力も、特殊な仕掛けもない。
ただの、粗悪な紙と、安物のインクで刷られた、物理的な『本』だった。
「…フム。となると、仮説その2。人間は、私の想定を遥かに超えるレベルで『非合理』である、という実験結果か」
エラーラは、今度は素手で本を開いた。
彼女自身、これまでこの本の内容に一切興味がなかった。王都の全ての人間がそうであるように。
「…仕方がない。この非合理な現象を突き止めるには、このゴミのようなデータを、私の脳で、一度処理するしかないか」
彼女は読み始めた。
そして、数ページで、眉間に深いシワを刻んだ。
「…なんだ、これは……」
『灼熱の砂漠アル=カラハド。そこへ吹き荒れる砂嵐は、まるで肌を刺すように冷たかった』
「待て。データが矛盾している。『灼熱』の砂漠で、なぜ嵐が『冷たい』? 非合理的だ。比喩としても稚拙すぎる」
彼女はページをめくる。
『英雄は、三日三晩、水も飲まずに歩き続け、ついに雪に覆われたオアシスを発見した』
「雪だと? 灼熱の砂漠に? オアシスが凍っているなら、それはオアシスとは呼ばん。この著者は、基本的な語彙すら理解していないのか?」
小説の記述は、全編にわたって、あやふやな点ばかりだった。
地理は破綻し、登場人物の言動は一貫せず、物語の根幹であるはずの『民話』の部分にいたっては、『それは、すごく、大切な話だった』としか書かれておらず、肝心の内容が一切書かれていなかった。
「…くだらない。実にくだらない」
エラーラは、本を閉じた。
「これは、小説ですらない。人々は、『名誉勲章の英雄が書いた素晴らしい本』という『概念』を消費しているに過ぎない」
その時だった。
つけっぱなしになっていた魔導スクリーンが、再び緊急ニュースを映し出した。
エラーラは「またあの非合理な顔か」と舌打ちしたが、アナウンサーの言葉に、わずかに眉をピクリと動かした。
『速報です! あのシルヴァヌス・レクス氏に、不祥事が発覚しました!』
「ほう。ついに『鍍金』が剥がれたか」
エラーラは、少しだけ興味を持って、画面を見た。
『関係者によりますと、シルヴァヌス・レクス氏は、慈善団体の資金を、個人の邸宅の購入に流用していた疑いがあるとのことです!』
画面には『衝撃! 英雄に汚職疑惑!』というテロップが躍る。
だが、エラーラは、そのスキャンダラスな内容ではなく、別の点に、強烈な違和感を覚えていた。
アナウンサーと、スタジオに呼ばれたコメンテーターの会話。
『信じられません! あの『蒼珠名誉勲章』の保持者であるレクス氏が、このような…!』
『まだ疑惑ですから。しかし、もし事実なら、『蒼珠名誉勲章』そのものへの冒涜ですよ!』
「…………」
エラーラは、無表情でスクリーンを見つめていた。
『『汚職』そのものの是非でもなく、『小説の内容』でもなく、彼らの論点は、依然として『名誉勲章の保持者が』という一点にのみ、固定されている』
エラーラは、呆れていた。
この王都の全ての人間は、まるで壊れた機械人形のようだ。
『名誉勲章』というキーワードが入力されると、『素晴らしい』『英雄』という決まったアウトプットしか出せない。
『不祥事』というノイズが入力されても、出力は『名誉勲章なのに、なぜ』という、エラー処理にすらなっていないバグを起こすだけ。
「…フム。実に、実に興味深い」
エラーラは、立ち上がった。
彼女は、壁に掛けてあったコートを羽織ると、例の分厚い本をカバンにねじ込んだ。
彼女の行動に、正義や義憤など微塵もない。
ただ、目の前にある『解けないパズル』を解きたいという、純粋な好奇心だけが、彼女を動かしていた。
エラーラは、事務所のドアを開け、非合理な熱狂に包まれた王都の雑踏へと、一人足を踏み出した。




