第11話:貴族の酒場!
私の名はエラーラ。私の全ての行動原理は、ただ一つ。「知的好奇心」。未知の現象、未知の法則、そして、未知なる人間の狂気。それらは全て、私にとって最高の研究対象に他ならない。
その夜、私は、街で唯一深夜まで営業している格式高いバーの片隅で、古代遺物から採取したデータの整理を行っていた。静かで、実に研究に集中できる環境だ。だが、その静寂は、甲高いヒールの音と、わざとらしい香水の匂いによって、無遠慮に破られた。
「あら、ごきげんよう。場末の研究室がお似合いの、天才先生?」
声の主は、イザベラ。この街に居座る、没落貴族の女だ。家名という過去の遺物だけをプライドの拠り所にし、私のような実力でのし上がった人間を、蛇蝎の如く嫌っている。実に、いけすかない女だ。
彼女は私を無視するように、カウンターの一番奥、私と対角線上の席に座った。そして、火花が散るような、侮蔑の視線を一度だけこちらに向ける。その瞬間、私は、バー全体の空気が、魔力によって微かに、しかし確実に歪むのを観測した。
(フム…始まったか)
暗黙の勝負…「沈黙の決闘」。先に根負けして席を立った者は、精神的な敗北を喫し、自尊心という名のエネルギーを勝者に吸い取られる、くだらない呪い(怪異)。
私の口元に、笑みが浮かぶ。
(くだらない。実にくだらないじゃないか。人間の自尊心という、かくも脆弱で、非論理的なプログラムが、こんな因果律干渉フィールドを形成するとは。だが、まあ…)
私は内心、深く深く呆れながらも、ペンを走らせる手を止めなかった。
(この女のプライドが、どんな面白いデータを提供してくれるのか。観測の価値は、あるかねぇ)
深夜0時を回り、1時、2時…。客は全て帰り、店には、私とイザベラ、そして、この世の終わりのような顔をしたバーテンダーの三人だけが残された。膠着状態。イザベラが、動いた。
彼女は、わざとらしく大きなため息をつくと、バーテンダーを指先で呼んだ。
「ねえ、バーテンダー。あの『星屑の谷』で百年前に一度だけ醸造されたという幻の酒精…まだ残っているかしら?埃っぽい論文の匂いしか知らない方には、到底価値のわからない代物でしょうけれど」
私への当てこすり。そして、自らの財力と「格」を見せつける、実に浅はかな牽制だ。バーテンダーが、震える手で、店の奥から埃をかぶったボトルを運んでくる。
数分後、今度は私がバーテンダーを呼んだ。
「バーテンダー君。コーヒーを。ああ、それから」
私は、鞄から取り出した、青白く明滅する魔導結晶をカウンターに置く。
「この結晶を、マイナス50度で安定して冷却できる機材は、この店にあるかねぇ?なければ、今から王都の研究所にいくつか取り寄せさせようと思うんだが。すぐそこの道に、転移陣を開けばいいだろう」
バーテンダーの顔が、恐怖にひきつった。イザベラの眉が、ぴくりと動く。彼女の財力が「過去の遺物」であるなら、私の力は「未来を創造する」ためのものだ。格が違うんだよ。
夜明けが近づいた頃、私は満足げに研究日誌を閉じた。データは、全て取れた。これ以上、この無意味な時間に付き合うのは、非効率だ。
「ついに根負けしたのね、哀れな科学者さん」
私が静かに立ち上がるのを見て、イザベラが勝利を確信した笑みを浮かべた。
だが、私は出口には向かわない。おもむろに、青ざめたバーテンダーの元へ歩み寄る。
そして、カウンターに、ずしりと重い金貨の袋を置いた。それは、このバーを丸ごと買い取っても、お釣りが来るほどの、常軌を逸した金額だった。
「バーテンダー君。面白いデータが取れた。実に有意義な夜だったよ。この店、私が買った。今、この瞬間から、ここは私の『第二研究室』だ」
そして、私は、呆然とするイザベラを振り返り、悪魔のように、最高の笑顔で微笑んだ。
「さて、イザベラ君。閉店時間だ。私の研究室から、出て行ってもらおうか?それとも、不法侵入者として、私の次の実験に、その身体で協力していくかねぇ?」
イザベラの、完璧に化粧された顔が、みるみるうちに青ざめ、怒りと屈辱に歪んでいく。
このまま店に残れば、私の「研究室」に居座る「侵入者」となり、私の軍門に降ることになる。店を出れば、「先に店を出た」ことになり、元々の勝負にも敗北する。しかも、私に「追い出された」という、最大の屈辱付きで。
彼女の、硝子細工のようなプライドが、音を立てて砕け散った。
イザベラは、わなわなと震えながら、何も言わずに立ち上がると、人生最大の屈辱を刻みつけた顔で、ヒールを鳴らし、逃げるように「私の研究室」から出て行った。
私は、その無様な背中を一瞥すると、研究日誌に最後の結論を書き込んだ。
「結論。限定空間における耐久性を競う怪異は、その空間の所有権を掌握し、ルールの前提そのものを書き換えることで、より上位の概念的勝利を得ることが可能である、と。フム…」
私は、満足げに頷くと、金貨袋には目もくれず、自分自身の意志で、朝日が差し込み始めた街へと堂々と出ていく。
ああ、くだらない実験だったが、まあ、新しい研究室が手に入ったじゃないか。
これも、あながち無駄ではなかった、と。そう思うことにしようじゃないか。




