部屋が暗くてこわいよ!
その日、私の研究室の扉を叩いたのは、実に小さな依頼人だった。母親の後ろに隠れるようにして立っている、大きな瞳の少年。名をルカというらしい。
「エラーラ様。この子が、夜……どうしても眠れないと申しますの。あかりを消すと、部屋に誰かがいるようで、怖いのだと……」
母親が、困り果てたように説明する。
私は最初、その子供らしい訴えを、心底、心底どうでもいいものとして聞き流していた。
「暗所恐怖症ねぇ。私の専門外だよ。それは、脳の扁桃体が、過剰に活性化しているに過ぎん。それこそ、専門の医者にでも見せたまえ」
私が冷たく言い放ち、追い返そうとしたその時。
それまで黙っていた少年が、私の白衣の裾を、きゅっと掴んだ。
「ちがうんです!」
彼は、母親の背後から顔を出し、真剣な瞳で私を見上げていた。
「絶対に『いる』んです!ベッドの下で、僕が眠るのを、じっと……待ってる……!」
その、あまりに真に迫った言葉。
その、恐怖に歪みながらも、しかし、自らの観測結果を正確に伝えようとする、純粋な瞳。
それが、私の記憶の奥底にある何かを、予期せず刺激した。
私はふと、自分の研究室の、暗い机の下に目をやる。
「………なるほど!?」
ほんの一瞬、私の表情から、いつもの不遜な笑みが消えた。
(確かに……!確かに……この感覚。何十年も前に、私の脳が完全に論理で構築される前に感じた、幼少期の……あの原始的な……フフフ、面白いじゃあないか!)
私の口元に、いつもの笑みが戻る。
だが、その色は、先程までとは全く異なっていた。
「よろしい!君のその『病』、この私が直々に観測してやろうじゃないか!」
私は、しゃがみこんでルカと視線を合わせると、にやりと笑った。
「いいかいルカ君。君を、私の観測サンプルに任命する。光栄に思うんだね!」
その夜、私は様々な魔導観測器を携え、ルカの子供部屋を訪れた。部屋は、おもちゃや絵本で溢れた、ごく普通の子供部屋だ。だが、あかりを消した瞬間に、この部屋は私の「実験室」となる。
「さあて!これから君にはいくつかの実験に協力してもらう。君の報告するデータが、この研究の成否を分ける。いいかい?」
「は、はい…!」
怯えるルカを最高の「生体センサー」と位置付け、私は早速、実験を開始した。
「第一フェーズ。照明を消す。さあ、感覚の変化を、詳細に報告したまえ」
私が壁のスイッチを切ると、部屋は完全な闇に包まれた。ルカの息を飲む音が、やけに大きく聞こえる。
「……います。ベッドのすぐ下に。空気が冷たくて……重いです。僕を見てる……息をしてるみたいに、くらやみが、動いてる……」
「フム!素晴らしい!」
私は、暗闇の中で観測器のパネルを見ながら、歓喜の声を上げた。
「精神エネルギーの局所的な低下と、エントロピーの揺らぎを観測!実に素直な反応だねぇ、君は!フフフフフ!」
「え、エラーラさんも……こわいです…!」
「恐怖で震えるなよ?その振動が、センサーにノイズを与える。さあて、次はクローゼットだ。中に『いる』と感じるかねぇ?」
私は、怖がるルカの手を引いて、部屋の中を歩き回らせた。彼の恐怖に呼応するように、観測器の数値は、面白いように揺れ動く。だが、物理的な実体はどこにも存在しない。仮説は……確信へと変わった。
「なるほどなあ、少年」
私はあかりをつけると、ベッドの縁に腰掛け、震えるルカに告げた。
「怪異は、ベッドの下に『いる』のではない。君と、そして私の『脳の中』にいるのだよ。暗闇という、情報が欠落した空間を、我々の脳が、本能的な恐怖で埋めようとする。その精神エネルギーを、この怪異は餌にしているわけだ」
「の、脳の中…?」
「ああ。そして、その仮説を証明する、最終実験の時間だ」
私は鞄から、自ら開発した試作品……一対のゴーグルを取り出した。
「これは、『全領域観測鏡』。暗闇を照らす道具ではない。暗闇そのものを『見る』ための、私の最高傑作だよ」
私は、そのゴーグルをルカの顔に、少し乱暴に装着させた。
「さあ、観測を開始したまえ。君自身の目で、その『未知』を『既知』へと書き換えるんだ」
ルカは、おそるおそる、再び消されたあかりの中、ベッドの下の暗闇を覗き込んだ。
「あっ……!?」
彼の口から、驚きの声が漏れる。
彼の目には、おぞましい怪物ではなく、床下に流れる微弱な地熱の模様が、川のように見えた。昼間に転がったビー玉の、微かな残留魔力が、星のように瞬いて見えた。窓の隙間から流れ込む空気の対流が、オーロラのように揺らめいて見えた。
「誰かがいる」と感じていた気配の正体は、彼の脳が、これらの無数の情報を、一つの「未知の存在」として誤認識していただけだった。
暗闇が「定義」されたことで、怪異の存在基盤である「未知」が消滅する。
私の観測器が捉えていた精神エネルギーの揺らぎは、嘘のように、ぴたりと停止した。
「エラーラさん!もう、いないよ!もう、怖くない!」
ルカはゴーグルを外すと、満面の笑みで私に抱きついてきた。
だが、私は彼の感謝など意にも介さず、観測器の完璧なデータを見ながら、恍惚とした表情で研究日誌にペンを走らせていた。
「結論。認識依存型の怪異は、観測領域の情報を、定義し、可視化することで、その存在基盤である『未知』を消去し、無力化できる」
そして、私は、珍しく、個人的な追記を書き加えた。
「追記:被検体ルカの証言をトリガーに、私自身の脳内に残存していた、幼少期の残滓データ(おもいで)を採取することに成功。人間の精神形成における『未知への畏怖』という脆弱性について、新しい仮説が立てられそうだ……」
私は一人の少年を救ったことよりも、自らの内に眠っていた「幼少期」という、最高の研究サンプルを手に入れたことに、心からの喜びを感じているのだった。




