上着を脱いでください!
事の発端は、一人の女性、セナが私の研究室に血相を変えて駆け込んできたことだった。
「お願いします、エラーラ様!街の人が、時々……消えちゃうんです!」
聞けば、失踪した人々は全員が、失踪直前に同じビアバーを訪れ、かつ「入店して上着を脱がなかった」という、なんとも奇妙な共通点があるという。
「フム?……衣服の着脱という行為が、空間転移のトリガーになっている、と?どういうことだ……?いや……実に興味深いじゃないか!」
私は、そのあまりにくだらないルールに知的好奇心を刺激され、セナと共にそのビアバーへと向かった。
その店は、アンティーク調の、実に雰囲気の良い店だった。扉を開けると、すぐ脇にクロークがあった。
「エラーラ様、まずは上着を…!」
セナは、教訓に従い、大急ぎで自分のカーディガンを脱ぐと、クロークのフックに掛けた。そして、私を振り返り、懇願するような目で見てくる。
しかし、私は、自らのトレードマークである白衣を脱ごうとはしない。
「エラーラ様!その白衣を!それは上着です!エラーラ様も消されてしまいます!」
セナが、私の袖を引く。
「いやいや、これは白衣だ。私のアイデンティティであり、研究者の制服だ。断じて『上着』などではないよ?」
「でも、外で羽織っていたものは、全部上着です!脱いでください!」
「面白いこじつけだ。では、君に問おう。『上着』とは、一体なんだね?素材かね?それとも形状かね?着用する状況によって、その定義は変化するのかい?これは、実に興味深い哲学的命題だ」
「て、哲学?……哲学はどうでもいいんです!とにかく脱いでください!エラーラ様も、怪異に消されちゃいますから!」
私が白衣を着たまま席に着くと、店の空気が、すっと冷たくなった。そして、どこからともなく、老紳士のような、丁寧だが、切羽詰まったような囁き声が聞こえ始めた。
『お客様……その……お召し物をお脱ぎにならないと……消されてしまう、という、ルールでして……』
なんと、怪異自身が、私の身を案じて警告してきたのだ。
「ほら!怪異もこう言ってます!エラーラ様、死んじゃうかもしれないんですよ!?」
セナが、悲鳴のような声を上げる。
私は、そんな彼女を、心底つまらなそうに一瞥した。
「なるほど?ならば、死とはなんだね?生命活動の不可逆的な停止かね?それとも、魂という情報集合体のエントロピーが増大し、そして拡散した状態──を、指すのかねぇ?君ね、定義が曖昧だよ」
「ああもう!なんなのこの人!話が通じない!」
『お客様!どうか、お聞き入れください…!』
セナが頭を抱え、怪異が嘆願の声を響かせる。
しかし、私は完全に彼らを無視。
ビールを注文し、魔導観測器で適当に店内の空間の歪みを計測し始めた。
業を煮やしたセナが、ついに涙目で私に問い詰めた。
「エラーラ様の天才的な頭脳は、私なんかには理解できません!でも、これだけは教えてください!どうしてそんなに、その白衣にこだわるんですか!?何か、特別な理由があるんですよね!?」
私は観測器から顔を上げると、きょとんとした顔で、彼女を見つめ返した。
「理由はないぞ?」
「はあ?」
「なんとなく、だ!」
セナは、そのあまりに理不尽な答えに、とうとう泣き崩れてしまった。怪異もまた、絶望の声を漏らしている。
観測を終えた私は、満足げに席を立つ。
もちろん、白衣は着たままだ。
セナは顔を覆い、怪異もパニック寸前の声を上げる。
私が出口に向かって一歩を踏み出した瞬間、周囲の空間が歪み、私を異次元へ引きずり込もうとする。
だが、私は出口ではなく、踵を返すと、一直線に古びたクロークへと向かった。そこには、半透明になった、礼儀正しい老紳士の亡霊が、泣きそうな顔で立っていた。
「ですから、申しましたのに…」
私は、亡霊に自らの白衣を預けるそぶりすら見せない。
代わりにポケットから、丁寧に折り畳まれた、指先ほどの大きさしかない、人形用の小さなコートを取り出した。
そして、それを亡霊の前に差し出した。
「クローク係君。君の店のルールは、『客の上着を預かる』ことなんだろう?」
呆然とする亡霊に、私は不敵な笑みを浮かべて続ける。
「フフフ!……ならばこれを預かりたまえ。これもまた、私がこの店に持ち込んだ『上着』だろう?私の白衣が上着かどうかという議論は実に不毛で非効率だ。だが!これもまた、『上着』だ!さあ、仕事の時間だよ!客のもてなしが、最優先じゃないのかねぇ?」
「上着を預かる」という絶対的なルールに縛られた亡霊は、目の前に差し出された「完璧な上着」を、無視することができなかった。
彼は震える手で、その人形のコートを丁重に受け取ると、クロークチケットを具現化して私に渡した。そして、その小さなコートを、大切に、大切に守り始めた。
怪異は、無力化された。
私は鼻で笑うと、今度こそ堂々と、白衣を着たまま店の外へ出た。
空間が歪むことは、もうない。
研究日誌に、私は書き記す。
「結論。『ルール』に依存する怪異は、そのルールを肯定しつつ、実行不可能な、あるいは、矛盾したタスクを与えることで、その行動原理を無力化できる。フム……実に、くだらないが、実に美しい解決策だったじゃあないか!」
消された人々も、やがて異次元クロークから解放され、街の片隅に帰ってくることだろう。
私は、自らの「どうでもいいこだわり」を貫き通し、怪異すら心配させるという、極めて有意義なデータを取得できたことに、満足げな笑みを浮かべるのだった。




