四話 恐怖の後の
母さんが苗字を言うなと言った理由、そして『二ノ宮』と言ったのに俺の事が分かった事。その二点が頭の中から離れずにいた。
帰り道はまだ住宅街。いつもは嫌というほど耳に入る周りの声が一切聞こえなかった。
「おい港人! おいっ! 聞いてんの?」
朔臣はまだ足が痛む市華ちゃんをおんぶしている。
「あ、悪い、何?」
「早見先生、なんて言ってたっけ? あの人の言葉難しくて覚えられなかった」
「俺も覚えてない」
市華ちゃんは不安な顔を浮かべ「ねーねー、安静にってどういう意味?」と俺に問いかけた。
「大人しくして過ごしてって意味だよ」
俺はせめて、と思い頑張って笑顔を作った。そして彼女の頭に手を伸ばして撫でる。膝の青あざは見ているだけで痛々しい。
でももう片方の足をしきりにブラブラさせているから、朔臣がムッとしている。
「おい市華。 足っ、動かすんじゃねーよ。 さっきから当たって痛いんだけど」
「えー、やだー」
「怪我した方だって大した事ねーんじゃねーの? お前こんくらいの怪我ならいつもしてんだろ」
「いつもこんな怪我しないもん。 本当に痛いんだもん」
朔臣が苛立ち始めても、市華ちゃんは気にも留めない。自分の兄に向ける彼女のワガママは、簡単には切れない絆で結ばれた兄妹だと感じる時がある。
会話の間に入りたくて、わざと二人の視界に入るように歩くと朔臣と目が合った。
「なー、港人ー、こいつどうにかしてくれよー。 俺の言う事、全然聞かねーんだけど」
「じゃあ俺がおんぶするよ。 朔臣だって疲れただろ」
朔臣より先に嬉しそうな声で返事をした市華ちゃん。その顔を見ると、さっきまでの心のモヤが消え、俺の心を明るく照らしてくれる。
市華ちゃんを下ろした朔臣は、清々したとばかりに伸びをし、友達の家に遊びに行くと言って走って消えた。市華ちゃんは俺がかがむ途中で背中に飛びついてきた。
(……絶対痛くないじゃん)
顔が見えなくて良かった。自分でも分かるくらい口元が上がっている自信がある。ふぅと一息吐き、表情を締める。
「港人くん、今日はありがとう。 皆んなと一緒に体験出来て嬉しかった」
一瞬だけ歩くペースが下がった。すぐに元の歩幅に戻したけど、自分が参加させたばかりに怪我をしたのだから謝ろうと思っていたから。
「そ、そう。 なら良かった」
「港人くんかっこよかったなー。 怖がってたお兄ちゃんとは大違い。 今日は倒せなかったけど、次の時は絶対倒すんだから」
そう意気込む声に、謝罪をしようという考えなど何処かへ消えた。
辺りは荒地が広がってきて、建物は遠くに見える光環タワーくらい。ここはもう、俺らだけの世界だ。
「ねぇ市華ちゃん。 早見先生、怖くなかった?」
「怖かったー。 港人くんも怖かったの?」
「うん。 六年生の先生より怖いって話した、塾の先生いるだろ? その先生より怖かった」
「あの貧乏ゆすりして答え急かす先生よりー?」
「そう。 俺はさ、ああいう怖そうな人慣れてるけど、それでもなんか無理」
「私早見先生にはもう会いたくなーい」
俺はハハッと笑い「市華ちゃんの弱虫ー」とからかった。内心、こうして怖かった事に共感できたことを安心しながら。
「今日さ、習い事全部ないんだ。 朔臣いないけど、俺の家で遊ぼ?」
「それお兄ちゃんがいる時に言ってよー! お兄ちゃん、港人くんと二人で遊ぶと怒るんだからー!」
怒った口調の市華ちゃんは、足をバタつかせることもない。俺は笑って、ごめんと返事をする。二人で遊ぶの好きな癖に、なんて口が裂けても言えないけど。
市華ちゃんは家の側に着くと、ケロリとした様子で降ろしてと言ってきた。降ろした後も小走りで自分の家に荷物を置いてきたし。でも安心した。この様子なら、足は絶対に痛くない。
「お母さんが二人で食べなさいだってー!」と綻ぶような顔でポップコーンを抱えてやってきた。
遠目で市華ちゃんの母・一葉さんの姿が見えたので頭を深く下げる。
俺の家で遊ぶ時の恒例は、ソファーに座って録画したBP発電の試合を見ること。いつのがいい?と相談して見る試合を決めるけど、主導権は俺。
「この日は面白かったよ!」と平日に母さんが出ていた日を提案し、一応頷いたのを確認して再生した。
平日に行われる試合は毎回が名勝負じゃないから、その間は一葉さんが作ってくれたポップコーンを食べる。
映画館のやつより味はしないのに、手が止まらなくなるのが不思議だ。
たまにポップコーンを取る手がぶつかり合って、その度にクスクスッと笑い合う。なんで笑ってるのかわからないけど。
誰かの足音がして外を見た。外が夕焼け模様になっていた事なんて、まるで気が付かなかった。本当に、二人で遊んでいると時間を忘れる。
バタバタと力強い足音の主は朔臣で、窓をドンドンと叩いた。
「おーいー! 市華ずるいぞー!」
窓を開けると、靴は乱暴に脱いだけど足の裏だけはパタパタとはたいて部屋に転がり込んだ。
一人増えただけで、この部屋の雰囲気が夏祭りのような活気に変わった。
観戦していた戦闘もトリが近づいてきて、見応えも十分。三人で心のままに大きな声を出して応援した。
やっときた母さんの戦闘。この時のやつはもう何度も観たけど、何度見ても初めて見た時のように熱中してしまう。
ジリジリと相手との間合いを取る緊張感。重くて長い戦闘になるかと思ったら、突風のように攻撃をしかけた。
雄叫びの声をあげながら強打を打ち、相手をどんどん追い詰める。この緩急がかっこよくて仕方がない。
俺たちも「おー! いけーー!」と大声をあげる。
そして勝利を掴み取った時には、三人でハイタッチしたり、体をぶつけてふざけ合ったり。
観戦が終わったら、いつも朔臣と戦闘ごっこをする。腕を剣に見立てて、切るというよりただぶつかり合う。
こんな事、学校じゃ絶対にやらない。だから楽しい。周りの奴らを気にする必要がないこの楽しさは、なにものにも代えられれない。
俺の事ばっか応援してた市華ちゃんが「私もやるー」と言ってきた。
不安そうに安静の意味を聞いたことなんて、彼女にとって過去の話なのだろう。
朔臣は手加減なんか出来ないだろと、俺が相手を名乗り出た。
「といやー!」という変な掛け声と共にぶつかってきた時。意外にも力が強くて、一歩だけ後ろに下がってしまった。
うん、足の心配をする必要はなさそうだ。
遠慮なく押し返すとムキになってくる市華ちゃん。
妹をあおり続ける朔臣。
ずっとゲラゲラと笑う声が響いていた俺の家は、チャイムの音により楽しい時間が強制終了してしまった。
時計は夕飯にしては遅い時間を指している。何時間も遊んでいたのに、体感時間はほんの数秒だ。
一葉さんが朔臣と市華ちゃんを連れて帰ると、俺の家はまるで他人の家みたいな静寂に包まれた。
ついさっきまで騒いで遊んでいたから余計にそう感じる。
ゴミ箱に入っているお菓子のゴミは、さっきまで二人がいた余韻を表してるみたい。虚しくなるから見ないようにした。
テレビをつけたけど正直面白くない。
クイズ番組は見てて疲れるし、ニュース番組は暗い気分になる。だからって勉強もしたくない、ピアノも弾きたくない。
あまりの寂しさにお菓子を引っ張り出した。大好きなチョコレートのお菓子は、口の中でカリッと音を立てて蕩ける。まるで俺の心を柔らかくしてくれるみたいで、いくつもいくつも口に入れた。
「あーあ。 勉強しねーと、父さん怒るんだよなー」
と、照明を見上げる。
この電気は母さんたちが発電したやつだ。俺は母さんみたいに強くなりたいから頑張る。こうして、心にやる気という名の電気を通して自分を動かす。
本棚から塾の教科書を取り出した。学校から出された夏休みの宿題はとっくに終わってるから、明日の予習をする。たまに本文を声に出しながら、同時にシャーペンも動かす。
何かに集中して、頭の中に浮かんでくる余計な言葉をとにかく消す。
そんな俺の集中力を途切れさせたのは車の音。この音は父さんだと察して、すぐさま玄関に走った。
足音は…………二人だ!!
「母さんっ!」
玄関のドアが開いて、飛びつくように抱きついた。話したい事も聞きたい事も、そんなのどっかへ飛んでいった。
外から帰った匂いのする母さんは、俺の事をぎゅーっと抱きしめる。
「みなくん、ただいま」
「おかえりっ! 母さんっ!」
玄関なのに、靴も履いてないのに、こうしてしがみついている時は、まるで焚き火に当たっているみたいに幸せで心が落ち着く。
母さんは抱きしめている体をたまに揺らして、髪にキスしてくる。俺も気がついてないフリをする。
いつも俺の気が済むまでこうしてくれる、幸せな時間。




