十話 この時間
光環区では桜が咲いているそうだが、青柳村の三月は梅さえ咲いていない。一山むこうにある、それだけなのに違う国で生きているような感覚を覚える。
同じなのは、今シーズンのBP発電のMVPは誰が取るのか……その話題だけは共通なんだろう。
休み時間。教室には人が沢山いた方が温かいけど、母さんの話をする人が沢山いるから耳をふさぎたくなる。
けどそんな事をしているのはかっこ悪い。だから自分の机に向かって読書に集中する。
まぁ、そんな事で周りの声が聞こえなくなったら、どんなに幸せだろう。
「細井大地と一凪、どっち勝つかなー! お前はどっち予想ー?」
と各々が主張する話はまだ聞ける。俺だって対戦相手が母さんじゃなければ朔臣と話すし。戦闘タイプの話だって、テレビで予想を立てる人たちよりも語れる自信がある。
「細井大地、かっこよすぎない? 出待ちしてたファン、一人一人にサイン書いて、握手して、おまけにツーショットでの写真も撮ったんだってー!」
キャーと甲高い声が耳にキンとくるこの話と……
「凪さんってー、クールでー、美人でー。 あー、でもぉ。 インタビューの対応とかは那瑠的にマイナスかなー」
分かるーと周りにいる女子が頷き、「まぁそれが許されるのが一凪って感じじゃない? ほんと那瑠の憧れー」
この、自分はこの人の魅力を全て知っています。と言わんばかりの口調で述べるのなんて、気が狂いそうになる。
はぁと息を吐き、首を回そうとして横に傾けた。すると関節がポキっと、いや、バキッと鳴った。
その音は近くにいる女子にも聞こえていたようで「一くん、今首からすごい音したねー」と話しかけられた。
「その位置で聞こえたの?」
「結構だったよ」
「そっか」
俺はその子の顔を殆ど見ずに答えた。
そして周りの人が見えないよう、本におおいかぶさるように視線を落とした。だってその先の言葉も、その子の視線が俺から離れていない事くらい分かるから。
この熟読姿勢は周りをまくのには最適で、俺を見る視線の矢は消えた。
代わりに首が疲れるけど……ああ、髪を抑えている感じで耳を塞いだらいいのか。
と新しい発見もあった。
授業は塾に通っているせいで退屈で、外に出られる長い休み時間が待ち遠しくて、そして何より。
(早く帰りたい)
真っ暗の中、習い事を終えて家の周りに着くと荒地ばかりの物騒な景色なのに安心する。
俺の家はリビングに明かりがついていて、あと父さんと母さんの部屋が少し明るい。多分、母さんがいる。俺の足がピタッとこの場に止まった。
「辞めたい。 ピアノだけでいいから」
と心の声が出た。
母さんは大事な試合前だ、言える訳がない。それに習い事は訓練生になるまで辞めないと約束した。約束は守らないとダメ。
ため息をつきながら家に入った。
「あっ! 港人くんお帰りー!」
「あれ? 市華ちゃん! なんでいんの?」
玄関に入った時からいつもより温かかったけど、市華ちゃんが迎えてくれるなんて思いもしなかった。
ローテーブルに目をやると、絵が描いてある画用紙が何枚も散らばっている。
俺の方を向いていつも以上にニコニコと笑っている市華ちゃんは、顔にクレヨンで落書きされている。ほっぺにハートや、動物のヒゲみたいなのも描いてあって……。
リビングにはいないけど、母さんと遊んでいたんだと分かった。だって父さんは音楽雑誌をながめているから。
「ねーねー港人くんっ! 私と結婚して!」
そう元気一杯に放った言葉に「へっ!?」と間抜けな声が出た。
いつもより何オクターブも上の声は、男じゃないみたいだ。市華ちゃんにかっこ悪い所を見せてしまった。
必死にいつもの俺を取り戻そうと思ったけど、足はソワソワするし、手だっていつもはどうしていたか分からなくなった。
市華ちゃんの顔を見るのも恥ずかしい。
とりあえず、それっぽいポーズを頭の中から見つけ出して、そのポーズを取ってみた。首に手を当てて、ちょっと斜め上を向いたポーズ。
俺、全然驚いてないし、慣れてるしって雰囲気を出して。
「はい、指切り。 市華ちゃんは俺のお嫁さんね」
市華ちゃんはガシッと小指を絡めて、握手みたいな指切りをしてくれた。母さんとする、お互いの力加減が分かった指切りとは程遠く。行為の裏にいつも感じる心細さなんて少しも感じない。
俺はやっと市華ちゃんを見れた。オデコにもハートマークが描いてあって、鼻先がピンク色に塗ってある。ああ、加えて動物のヒゲは……。
「市華ちゃん、猫みたいで可愛いね」と口ごもりながら言う俺の声は、
市華ちゃんの
「ねーねー凪さんっ! 港人くん、いいよだって!」
という声に上書きされた。
母さんが足をふらつかせながらリビングに入ってきて、「えー、ちょっとー、私がいる時に言ってよー。 もう一回っ!」
と両手を合わせながら、ソファーにくたっと座った。
もう一回言ってくれたら、今度はもっとかっこいい返事が出来るはずだ。でも市華ちゃんは恥ずかしそうにしているし、俺も恥ずかしくなってきて、ごまかすように母さんの所へ行った。
母さんの隣に座ると同時に、「凪、もう少し寝てたらどうだ?」と父さんが間に入ってきた。
「平気平気。 ブースに入れば治る、いつものやつだから」
と言って母さんはこめかみを押さえている。
市華ちゃんが母さんの膝の上に乗っかり、頭をよしよしとなで始めた。その手の動きに胸が締め付けられ、俺がこの場にいないみたいな気がしてくる。
「凪さん大丈夫ー? 早くよくなってね」
「ありがとー市華ちゃん」
無性にムカムカしてきて、市華ちゃんの手を引っ張って母さんの膝の上から下ろした。
「市華ちゃんは俺の隣っ! 俺と結婚するんだろ! 母さんの隣じゃなくここ!」
父さんに後ろからコラっと頭をたたかれたが、そんなの無視した。
市華ちゃんはしゅんとしながら、「ごめんね港人くん」と謝ってきた。いつもより離れて座って。
母さんも母さんだ。
「ほらみなくん、市華ちゃんに優しくしないとダメでしょ」と覇気のない声で、わざわざ今言わなくても良いことを言ってきた。
「ねーそれよりさー母さん」
今のこの家に流れる重苦しい空気が嫌で、それをどうにかしたくて、この一週間の出来事を話した。
学校の授業がつまらない話、塾の小テストでうっかり100点を逃した話、スイミングスクールのクラスが荒れてて合わない話、ピアノの先生がめんどくさい熱血指導をしてくる話。
楽しい出来事もあったはずなのに、口からは嫌だった事しか出てこない。母さんの顔色もさっきより悪くなっている。
俺の口が突然止まって、これまで話したことの全てを消したくなった。
この家がシーンと静まり返った時、チャイムが重々しく鳴った。
「おーい! いちかー!」と市華の父・朔市さんが大きな声で呼んでいる。
父さんが「市華ちゃん、そろそろ帰ろうか」と彼女の手を取った。引きずられるように連れていかれる姿は、今にも泣き出しそうな顔をしている。
俺と目が合った時、『帰りたくない』と訴えかけているような表情が目にこびりついた。
俺はただ、口を開けて見送るしか出来なかった。
玄関で市華ちゃんと朔市さんが口喧嘩をし始め、やっと我に返った。
「ねーねーかあさんっ。 市華ちゃん帰らなくてもいいじゃん。 俺の家にいればいいじゃん」
母さんの肩をゆすり、
「母さんも市華ちゃんが家にいると楽しいって言ってたじゃん」
「ねーなんでなんで、俺ら結婚するんだろっ」
と頭に浮かぶ限りの主張をした。
対する玄関では、俺らの比じゃないくらい口論の激しさが増していく。
玄関から朔市さんの怒鳴る声がし、市華ちゃんが激しく声をあげて泣いた。朔市さんの普段の姿からは想像出来ない声に、俺は固まってしまった。どうしたらいいんだろう――
けれど母さんは玄関に走って行った。
ビックリして動けない俺。
母さんがしている話も全く耳に入ってこなかった。
母さんがふぅと胸を撫で下ろしながらリビングに入ってきて、父さんはスタスタとお風呂のお湯を沸かしにいった。父さんは冷たい程いつも通りだけど、母さんは目をいつもより細めて笑い、俺の前で両膝をついた。
「市華ちゃんに、みなくんの事お願いねって約束してきた。 これで二人は将来お婿さんとお嫁さんだね」
と明るく話す様は、母さんが俺らのことを後押ししているように感じて、嬉しくて。
「うん。 俺、絶対に市華ちゃんをお嫁さんにする! お母さんより強い選手になって、母さんと市華ちゃんと一緒に暮らすんだ!」
真っ直ぐ母さんの顔を見て、俺は誓った。
目を細めた朗らかな顔で笑った母さんは、俺のことを優しく優しく抱きしめ、頬にキスをした。
「ねー、それもうやめろって……」
「今日ね、またやっちゃったの。 市華ちゃんと遊んでたら泣かせちゃってさ。 帰らせることも忘れて、いつまでも子供みたいに遊んで……。
お母さんなのに何やってんのって話だよね。 あーあ、選手は一般常識に乏しいって、あの人に言われても仕方ないよね」
母さんの語る胸の内に、どっと不安が押し寄せる。
「母さん……何? あの人って?」
「なんでもないよ、忘れて」
人って、『忘れて』って伝えると、相手は反発心が生まれるから逆に忘れられないんだって――そう言葉を返したかったが、言葉が喉に詰まる。
抱きしめた体が離された。俺の事を見る目が、さっきの顔ともいつもの顔とも違う。優しいけれど物悲しい目。
母さんが「みなくん。 今日はお父さんとお母さんと一緒に寝よう?」と、願い事をするように言った。
俺はうんと頷く。
母さんは俺の顔に手を添えて、親指で頬をなぞっている。
俺が「なに?」と言うと、目元を細め、口角を上げて笑った。
「さーて、お風呂お風呂。 あっ、みなくん、一緒に入る?」
そう話す母さんは、いつもと変わらない様子に見える。
思わず頷きそうになりながら、「入らねーよ」と返事をした。
夜、大きなベッドで三人、俺は母さんにしがみつき、父さんはその後ろから俺らを抱きしめる。
母さんは何度も「総ちゃんとみなくんはお母さんの宝物だよ」と呟いて……。
今日みたいな日は、全てを奪い去ってしまいそうな強い風の音も気にならない。まぶたが重くなり、心の底から温まる、和やかな微睡みがやってくる。
――この時間が永遠に続いて欲しい――




