第四話「月明かりの約束」
夕暮れが、エルネシアの森を黄金色に染めていた。
木々の葉が風に揺れ、枝に吊るされた魔法灯が一つ、また一つと淡い光を灯し始める。
村の人々は一日の仕事を終え、それぞれの家へと帰っていく。
子どもたちの笑い声が森に響き、広場では年配のエルフたちが今日の出来事を語り合っていた。
その光景を見ながら、春人は静かに呟く。
「……平和なんだな。」
地球では、毎日時間に追われていた。
仕事、通勤、人混み。
気が付けば季節が変わり、一日が終わる。
こんな穏やかな時間を過ごした記憶は、ほとんどなかった。
「春人さん。」
後ろから声がする。
振り返ると、白いワンピース姿のエリシアが立っていた。
昼間の巫女装束とは違い、肩まで伸びた銀髪をそのまま下ろしている。
柔らかな月明かりを受けたその姿は、まるで物語に出てくる妖精のようだった。
「散歩ですか?」
「はい。」
春人は少し照れながら答える。
「眠れそうになくて。」
エリシアは小さく笑う。
「実は私もなんです。」
「え?」
「今日は……あなたが来た日ですから。」
二人は並んで歩き始めた。
---
森の奥へ進むと、小さな湖が現れた。
水面には月が映り、風が吹くたびに銀色の波紋が広がる。
「綺麗ですね……。」
春人が思わず見とれる。
「ここは『月鏡の湖』です。」
「昔から、迷った人の心を映す湖と言われています。」
「心を?」
「はい。」
エリシアは湖を見つめたまま続ける。
「心が悲しい時は曇り、嬉しい時は星が映るそうです。」
春人も湖をのぞき込む。
そこには、満天の星空が揺れていた。
「今日は……星が見えますね。」
エリシアは嬉しそうに微笑んだ。
「あなたが少し安心できた証拠かもしれません。」
---
しばらく沈黙が流れる。
その静けさは、不思議と気まずくなかった。
やがて春人が口を開く。
「僕……ずっと、自分には何もないと思っていました。」
エリシアは黙って耳を傾ける。
「恋人もいないし、仕事も普通だし、特別な才能もない。」
「だから、自分が誰かに必要とされることなんてないと思っていました。」
少し笑いながら言う。
「情けない話ですよね。」
エリシアは首を横に振った。
「そんなことはありません。」
その声は優しかった。
「春人さん。」
「はい。」
「あなたは昨日、森でリーファに弓を向けられても、怒りませんでした。」
「……。」
「今日も村のみんなに丁寧に挨拶をしてくださいました。」
「それは普通じゃ……。」
「普通ではありません。」
エリシアは真っ直ぐ春人を見る。
「優しさは、才能です。」
春人は言葉を失う。
そんなことを言われたのは、生まれて初めてだった。
---
「実は……。」
エリシアが少し照れたように笑う。
「私も最初は怖かったんです。」
「僕が?」
「人間という存在を見たことがありませんでしたから。」
「でも。」
彼女は少しだけ春人に近づく。
「あなたと話していると、不思議と安心するんです。」
春人の胸が高鳴る。
「ありがとうございます。」
それしか言えなかった。
---
帰り道。
森は静まり返り、虫の音だけが聞こえる。
突然、春人は小さな石につまずいた。
「うわっ!」
体勢を崩した瞬間。
エリシアがとっさに腕をつかんだ。
「大丈夫ですか?」
「は、はい!」
二人の距離が、一気に近づく。
春人は顔を真っ赤にした。
エリシアも少し頬を染めながら、ゆっくり手を離す。
「す、すみません。」
「いえ……助かりました。」
しばらく二人とも照れてしまい、思わず笑い合った。
その笑顔は、出会ったばかりとは思えないほど自然だった。
---
宿の前に着くと、エリシアが立ち止まる。
「春人さん。」
「はい。」
「焦らなくていいんです。」
「?」
「帰る方法も、この世界のことも、一人で抱え込まないでください。」
彼女は胸に手を当て、穏やかに微笑む。
「私たちがいます。」
その一言が、春人の心に深く染み渡った。
「……ありがとうございます。」
心からそう思えた。
この世界へ来てまだ数日。
それでも、孤独だった心に少しずつ温もりが灯り始めていた。
しかしその頃、世界樹の根元では、誰にも知られぬまま古代の封印がわずかに揺らぎ始めていた。
それは、世界の秘密が静かに目覚め始めた兆しだった。
---
第四話 終




