第四十章 なぜ生きるのか
美咲は紙を持ったまま、動けなかった。
なぜ存在し続けることを選ぶのか。
なぜ生きるのか。
それは、人間が人間に対して問うたことのある、最も古い問いだった。哲学者が問い、宗教者が問い、絶望した者が夜中に自分に問いかけてきた問い。
それを今、三万六千キロの彼方から、人間ではないものが問いかけてきている。
「全員に伝えます」美咲が言った。
「待て」篠原が制した。「この問いに対する答えを、**誰が、どう答えるか**。それを先に決めんと」
「決める時間はあるんですか」
篠原は信号を確認した。
「問いの後に、**応答待機時間**が指定されとう。地球時間に換算して――七十二時間。三日間」
三日間。
美咲は全拠点に通信を入れた。福岡。北九州。鹿児島。熊本。大阪。東京。短波ラジオで繋がる全ての拠点に。
「空の観測網から、最終接触が来ました。問いかけです。『なぜ存在し続けることを選ぶのか』。この問いに対する答えを、三日以内に送信する必要があります」
通信の向こうで、沈黙が広がった。
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三日間は、嵐のようだった。
福岡の拠点だけでも、意見は無数に割れた。
藤堂は言った。
「生存本能たい。理由はいらん。生き物は生きようとする。それ以上の答えは不要」
永田は言った。
「社会を再建するため。知識を次世代に伝えるため。文明の灯を消さないため」
黒木はラジオの向こうから言った。
「家族のため。仲間のため。一人じゃ生きる意味はなかけど、守りたい人間がおるけん生きる」
篠原は言った。
「知りたいけん。宇宙のこと。あいつらのこと。まだわからんことが多すぎる。死んだら、わからんまま終わる。それが嫌たい」
翔太は言った。
「先生の研究を引き継ぐため。誰かが始めたことを、誰かが続けないかん」
原口は言った。
「目の前の人を治したいけん。治せる手がある限り、その手を動かしたい」
佐々木は言った。
「壱岐で死んだ家族に、恥ずかしくない生き方をしたいけん。あいつらの分まで、とは言わん。ただ、俺が生きとうことを、あいつらが怒らんような生き方をしたい」
ユキは言った。
「だって、明日も美咲ねえちゃんと遊びたいもん」
美咲は全ての言葉を記録した。
大阪からも答えが来た。東京からも。鹿児島からも。何十もの、何百もの答えが、短波ラジオを通じて集まった。
どれも違っていた。一つとして同じ答えはなかった。
二日目の夜。
美咲は屋上に一人で座っていた。
全員の答えを読み返していた。ノートの頁をめくるたびに、別の声が聞こえた。
藤堂の低い声。永田の冷静な声。黒木の太い声。篠原の少しかすれた声。ユキの高い声。
全部、違う。全部、本当。
美咲は母の写真を出した。
「お母さん。なんで生きるんやろうね」
風が吹いた。写真が揺れた。
美咲は思った。母ならなんて答えるだろう。
母は難しいことを言う人ではなかった。哲学的な問いに、理路整然と答えるタイプではなかった。ただ、いつも笑っていた。参観日にお弁当を忘れても「まあ、たまにはよかやん」と笑う人だった。
母の答えは、たぶんこうだ。
「なんでって聞かれてもねえ。生きとうけん、生きとうとよ」
美咲は笑った。そして、泣いた。
それが答えだった。少なくとも、美咲にとっては。
理由なんかない。理由がないから生きている。理由がなくても生きていける。それが人間だ。
空の上のあいつらは「なぜ」と聞く。理由を求める。目的を求める。全ての行動に合理的な説明を求める。
だが、人間は違う。
理由のない行動をする。意味のない笑顔を浮かべる。合理的でない選択を繰り返す。
母は、死ぬ直前に「ごめんね」と笑った。死の間際に笑う合理的な理由はない。だが、母は笑った。それが母だった。それが人間だった。
美咲は立ち上がった。




