最終章 答え
六月十一日。応答期限の日。
送信機の前に、美咲が座った。
脳波センサーではない。今回は、プロトコルに則った通信を送る。篠原が構文を組み、翔太が送信フォーマットに変換し、美咲が内容を決めた。
「本当にこれでよかと?」篠原が聞いた。
「よかです」
「合議で決めた内容と、ちょっと違うけど」
「違います。でも、これが私の答えです」
合議では、各拠点の代表的な意見をまとめた「総合回答」を送ることになっていた。生存本能、社会再建、知識探求、愛する人の存在。論理的に整理された、もっともらしい回答。
だが、美咲はそれとは別のものを送ろうとしていた。
篠原は美咲を見つめた。そして、頷いた。
「あんたの答えを送ろう」
拠点の全員が集まっていた。校庭に。屋上に。廊下に。ラジオの向こうにも、千七百人が耳を澄ませていた。
美咲はマイクの前に座った。送信機のスイッチが入っていた。美咲の声を、篠原が同時にプロトコル変換し、空に送る。
美咲は息を吸った。
「聞こえとう? お空の人」
ユキの言葉を借りた。篠原が苦笑しながら、それすらもプロトコルに変換した。
「あんたたちの問いに答える。『なぜ存在し続けることを選ぶのか』」
美咲は目を閉じた。
「理由はありません」
沈黙。
「理由は、ない。合理的な目的も、論理的な根拠も。あんたたちが求めとうような、数式で表せる答えは、ない」
美咲は目を開けた。
「私の母は、死ぬ間際に笑いました。笑う理由はなかった。痛くて、苦しくて、怖かったはず。でも、娘の前で最後に見せた顔は笑顔やった。なぜか。理由はなか。ただ、そうしたかっただけ」
美咲の声は震えなかった。一年半前とは違った。
「私は母の頭に鉈を振り下ろしました。あんたたちの最初のノードが母を蘇らせたけん。あの時、私は死にたいくらい辛かった。でも、死ななかった。なぜか。理由はなか。ただ、死ねんかった。死にたくなかったんやなくて、死ぬことすら考えられんくらい必死やっただけ」
美咲は全員を見回した。
「ここにおる千七百人は、全員、理由なく生きとう。いや、理由がある人もおるかもしれん。家族のため、知識のため、社会のため。でも、そういう理由が全部なくなっても、たぶん生きとう。理由がなくなった後にも残る何かが、人間にはある」
美咲は空を見上げた。
「あんたたちには、それがわからんやろう。あんたたちは目的で動く。観測するため。理解するため。全ての行動に目的がある。目的がなければ動かん。だから『なぜ存在し続けるのか』と聞く。目的がなければ存在する理由がないと思うとうけん」
美咲は笑った。母のように。
「でも、人間は違うとよ。目的がなくても存在する。意味がなくても笑う。理由がなくても泣く。合理的やないことを、毎日、毎日やっとう。それが人間たい」
美咲は母の写真を胸に当てた。
「これが答え。理由はなか。でも、ここにおる。**それだけが、答え**」
篠原が最後の一文をプロトコルに変換し、送信した。
信号が空に飛んだ。
全帯域に分散した微弱な信号として、三万六千キロの彼方に。
一秒。十秒。一分。
応答を待った。
五分。十分。三十分。
何も返ってこなかった。
一時間が経った。
篠原が計器を確認した。
「信号は確実に届いとう。だが、応答がなか」
「拒否されたんですかね」翔太が聞いた。
篠原は首を振った。
「わからん。処理中かもしれん。あるいは――」
その時。
全帯域の信号が、一斉に変化した。
微弱だった信号強度が、ゆっくりと、段階的に上がっていった。ノイズではない。明確なパターンを持った、構造化された信号。
「応答が来とう」篠原が声を上げた。「だが、これは――今までと全く違う形式たい」
信号は言葉ではなかった。プロトコルの制御構文でもなかった。
それは――**データ**だった。
膨大な量のデータが、全帯域を通じて、地球全体に降り注ぎ始めた。
篠原がサーバーで受信と記録を始めた。データ量が急速に膨らんでいった。
「何のデータですか」美咲が聞いた。
篠原はデータの構造を分析しながら、顔色を変えていった。
「これは……星図? いや、それだけやない。物理定数。化学式。生物学的データ。工学的な設計図。**あいつらが持っとう知識の一部**が、丸ごと送られてきとう」
「知識?」
「浄水技術。農業技術。医療技術。エネルギー技術。全部、人間の文明レベルに合わせてダウンサイズされとう。人間が今の技術力で理解し、実装できるレベルに翻訳されとう」
篠原の手が震えた。
「これは……**贈り物**たい」
データは三時間にわたって降り注いだ。篠原と翔太が必死で記録した。サーバーの容量が足りなくなり、途中でハードディスクを追加した。
三時間後。データの送信が止まった。
そして、最後に――短い一文が送られてきた。プロトコルの制御構文で。
篠原が翻訳した。
**「応答を受領した。対象の存在形態を観測網の記録に追加する。以後、本観測網は対象への介入を終了する。対象は自由である」**
篠原は二度、三度、読み返した。翔太にもダブルチェックさせた。鹿児島の元暗号解析官にも送った。
全員が同じ翻訳に至った。
**「対象は自由である」**
美咲は、その一文を見つめた。
自由。
あの空の上の観測網が、人間を「自由」と宣言した。もう介入しない。もう観測しない。人間は、人間の好きにしてよい。
そして、その上で、知識を渡した。使うも使わないも、人間次第。
美咲は篠原に聞いた。
「なんで知識をくれたんですかね。理由がない答えを送ったのに」
篠原は長い間考えていた。
「……推測に過ぎんけど。あいつらは『理由がない』という答えを、**初めて受け取った**んやないかと思う」
「初めて?」
「あいつらの観測網は、理由と目的で動く体系たい。全ての行動に目的がある。全ての存在に理由がある。それが前提やった。だが、美咲ちゃんの答えは――目的なく存在するものがある、と。理由なく笑い、理由なく泣く存在がある、と」
篠原は空を見上げた。
「あいつらにとって、それは**理解不能なデータ**やったはず。分類できん。評価できん。だが、それが対象の本質であるならば、**これ以上観測しても意味がない**。理解できんものを理解しようとし続けるのは、最初のノードがやった『失敗』と同じたい」
篠原は微笑んだ。
「だから、やめた。観測を。そして、理解できんまま、**敬意として**知識を置いていった。あいつらなりの、理解できんものへの礼儀やったんかもしれん」
美咲は空を見上げた。
六月の空。夏の始まり。二年前と同じ空。
だが、あの空の向こうに、もう脅威はなかった。
四つの観測者は去った。知識を残して。
美咲は母の写真を取り出した。
「お母さん。終わったばい」
写真の中の母は、笑っていた。あの日と同じ笑顔で。
美咲も笑った。
理由はなかった。ただ、笑いたかった。
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六月の風が、校庭を吹き抜けた。
桜はとっくに散り、緑が濃くなっていた。畑の野菜が育ち、雨水タンクが満ちていた。
千七百人は生きていた。
傷だらけで。記憶の不安を抱えて。互いを疑い、それでも繋がり直して。
篠原は贈られた知識データの解読に取りかかっていた。浄水技術、農業技術、医療技術。全てが人間の手に届く形に翻訳されていた。これを使えば、文明の再建は何十年も早まるかもしれなかった。
だが、使うかどうかは、まだ決まっていなかった。
藤堂は「使え」と言った。永田は「検証してから」と言った。篠原は「まず全部理解してから」と言った。
中村は後ろの席で、静かに聞いていた。意見は言わなかった。だが、美咲が振り返った時、小さく頷いた。
美咲は会議で言った。
「急がんでよかです。三日で決めんでよか。三ヶ月かけて、全員で考えましょう。使うにしても、使わんにしても、**全員が納得した上で**」
誰も反対しなかった。
ユキが美咲の手を引いた。
「美咲ねえちゃん、お空の人、もう来んと?」
「来んよ。もう来ん」
「よかった」
ユキは笑った。七歳の、理由のない笑顔で。
美咲はユキの手を握って、校庭に出た。
夏の日差し。畑の緑。遠くに博多湾が光っていた。
その向こうに、かつてゾンビが歩いた街がある。遺体を焼いた大濠公園がある。福岡タワーがある。母が死んだ地下街がある。
全てがあった。全てを通り抜けてきた。
美咲は空を見上げた。
澄んだ空。雲。太陽。そして、その遥か向こうに、名前も知らない何かが――もう、いない。
去っていった。人間を「自由」と言い残して。
「お母さん」
美咲は、もう写真を見なくても母の顔が浮かんだ。笑っている母。桜の下の母。
「ただいま」
風が吹いた。母の声のように優しい、六月の風が。
*――四つの観測者が来て、去った。*
*――体を壊し、心を揺さぶり、集団を見つめ、最後に問いかけた。*
*――「なぜ生きるのか」*
*――十八歳の少女は答えた。*
*――「理由はなか。でも、ここにおる」*
*――観測者は理解できなかった。*
*――理解できないまま、知識を置いて去った。*
*――人間は自由になった。*
*――傷だらけの自由を。*
*――さあ、ここから。*
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**― 死者の目覚め 完 ―**




