第二十九章 美咲の言葉
拠点の校庭。
一月の寒風の中、二百八十人が集まった。北九州に戻った十五人を除いた、福岡拠点の全員。
ラジオを通じて、北九州の黒木のキャンプにも中継された。鹿児島にも。熊本にも。
美咲は校庭の朝礼台に立った。
十八歳。高校生の年齢。一年半前なら、この朝礼台から校長先生の話を聞く側だった。
美咲はマイクを握った。手が震えていた。
「えっと……田中美咲です。皆さんに話があります」
静まった。
「まず、正直に言います。私も怖いです。自分の頭が正常かどうかわからん。記憶が本物かどうかわからん。昨日の夕飯が何やったか思い出そうとして、思い出せん時、それがただの物忘れなのか、あいつの後遺症なのか、区別がつかん」
誰も声を出さなかった。
「皆さんも同じやと思います。隣の人の言葉が信じられん。自分の記憶が信じられん。それが今、ここで起きとうことたい」
美咲は息を吸った。
「篠原さんと永田さんが、データの解釈で意見が割れました。どっちが正しいか、私にはわかりません。藤堂さんが武装巡回を始めました。それが必要かどうかも、私にはわかりません。北九州の人たちが帰りました。それを止める権利は、私にはありません」
美咲は空を見上げた。
「でも、一つだけわかることがあります」
美咲は視線を戻した。二百八十の顔を、一つ一つ見た。
「一年半前。天神の交差点で、一人のサラリーマンが倒れて、全部が始まりました。私はあの時十七歳で、何もできんかった。お母さんが死んで、自分の手でお母さんを――」
声が詰まった。だが、止めなかった。
「自分の手で、ルールに従いました。それから島に渡って、篠原さんに出会って、送信機を作って、福岡タワーに行って、ゾンビと戦って。『なぜ』って叫んで、空のあいつを止めて。この夏は遺体を焼いて、名前を記録して、疫病と戦って。そして先月、自分の記憶を全部、あいつに見せました」
美咲は唇を噛んだ。
「その全部を、**一人でやったんやない**。篠原さんがおったけん。翔太くんがおったけん。中村さんがおったけん。佐々木さん、原口さん、鶴田さん。黒木さん、藤堂さん、永田さん。ここにおる皆さんがおったけん、できたとです」
美咲は声を張った。
「今、お互いを疑い始めとう。あの人の記憶はおかしいんやないか。あの人の判断は信用できんのやないか。それは仕方ない。あいつに脳をいじられた後やけん。でも――」
美咲は朝礼台の端まで歩いた。
「**疑うことと、見捨てることは違う**」
風が吹いた。美咲の髪が揺れた。
「篠原さんの解読が間違っとうかもしれん。それは疑えばよか。検証すればよか。永田さんが言った通り、データを共有して、複数の人間でチェックすればよか。藤堂さんの武装巡回が怖い。それは話し合えばよか。怖いと言えばよか。北九州の人たちが帰った。それは引き止めんでよか。ただ、**繋がりだけは切らんでほしい**」
美咲はマイクを握り直した。
「私たちは千五百人しかおらん。九州に。たぶん日本全体でも数千人。世界でも、もしかしたら数万人。その数万人が、お互いを疑って、バラバラになって、一人ずつ死んでいったら――空の上のあいつらの思う壺たい」
美咲はふと、ユキの言葉を思い出した。
「前に、七歳の女の子に言われました。『なんで怒っとうと?って聞いたらよかやん。理由がわかったら、怒らんでよくなるかもしれんやろ?』って」
美咲は小さく笑った。
「七歳の子供に教えられたとです。私たちは空のあいつに『なぜ』って聞くことはできた。でも、**隣にいる人間に『なぜ』って聞くこと**を忘れとった」
美咲は篠原を見た。
「篠原さん。なんで解読結果を一人で抱えとったんですか」
篠原は一瞬驚き、そして正直に答えた。
「……断片だけで判断されるのが怖かった。全容が見える前に、中途半端な情報でパニックが起きるのが怖かった」
美咲は永田を見た。
「永田さん。なんでデータの公開にこだわるんですか」
永田は眼鏡を直した。
「鹿児島で、リーダーが情報を独占して判断を誤った経験がある。三十人が死んだ。同じことを繰り返したくなか」
美咲は藤堂を見た。
「藤堂さん。なんで合議を飛ばして武装巡回を始めたんですか」
藤堂は腕を組んだまま、しばらく黙っていた。
「……去年の四月。部隊が壊滅した時、俺は合議を待っとったせいで部下を三人失った。判断が遅れた。あの時から、**待つことが怖い**」
三人の「なぜ」が、校庭に響いた。
篠原は情報を守りたかった。永田は情報を開きたかった。藤堂は速く動きたかった。三人とも、過去の痛みから来ていた。
美咲は言った。
「三人とも、正しかとです。正しいことが三つあって、ぶつかっとう。でも、それぞれの理由を聞いたら、どれも**もっともなこと**たい」
美咲は全員に向き直った。
「だから、提案します。データは公開する。篠原さんの解釈も、鹿児島の検証結果も、食い違いも含めて全部公開する。隠さん。その上で、解釈が割れた部分は、**両方の可能性を前提にして備える**。どっちが正しいか決めるんやなくて、どっちでも対応できるようにする」
「武装巡回は?」誰かが聞いた。
「続ける。ただし、藤堂さんの部隊だけやなくて、各班から一人ずつ出して、**合同巡回**にする。特定の誰かの私兵やなくて、全員の巡回にする」
藤堂が美咲を見た。
「……それは、俺の指揮権を薄めるっちゅうことか」
「そうです。でも、藤堂さんの経験は指導役として活かしてもらう。巡回の技術や判断は藤堂さんから学ぶ。ただし、巡回が誰のためのものかを、全員が知っとう状態にする」
藤堂は長い間、美咲を見つめていた。
「……十八歳にしちゃ、えげつない交渉をするな」
「鶴田さんと中村さんと篠原さんと藤堂さんと永田さんに鍛えられましたけん」
藤堂は、笑った。声を出して笑ったのは、美咲が知る限り初めてだった。
「いいだろう。受けよう」
永田が頷いた。篠原も頷いた。
黒木の声がラジオから聞こえた。
「こっちにも全部聞こえとった。田中さん、あんたの提案を北九州も受け入れる。帰った十五人にも伝える」
鹿児島のリーダーも同意した。熊本も。
美咲は朝礼台の上で、膝が震えていた。緊張が解けたのだ。
中村が朝礼台の下から、静かに言った。
「よくやった」
美咲は朝礼台を降りた。降りた瞬間、足がもつれて転びかけた。中村が支えた。
「……足が震えて止まらんです」
「当たり前たい。あれだけのことを言ったんやけん」
美咲はベンチに座って、しばらく動けなかった。
ユキが走ってきた。
「美咲ねえちゃん、すごかった!」
「すごくなんかなかよ。足ガクガクやし」
「でも、みんな聞いとったよ。ちゃんと」
ユキは美咲の手を握った。七歳の小さな手。温かかった。
美咲はその手を握り返した。
これで全てが解決したわけではない。疑いは消えていない。記憶の不安も消えていない。藤堂の巡回は形を変えて続くし、永田の検証も続く。篠原のデータ公開は新たな混乱を生むかもしれない。
でも、少なくとも今日、**「なぜ」を人間同士で交わした**。空のあいつに向けてやったことを、隣の人間にも向けた。
それだけで、何かが変わった気がした。
美咲は空を見上げた。
冬の空。高く、遠く、澄んでいた。
あの向こうに、まだ二体のノードが待っている。だが、今日の敵は空の上ではなかった。今日の敵は、人間の中にある疑いと恐れだった。
そして、それは――ノードよりも、手強いかもしれなかった。
*――ゾンビは鉈で倒せた。*
*――脳波干渉は記憶で退けた。*
*――だが、人間同士の疑いは、何で打ち消す?*
*――十八歳の少女は「なぜ」と聞いた。空にではなく、隣に。*
*――それは答えではなかった。始まりだった。*
*――人間が人間と向き合うための、長い長い始まり。*




