第十九章 静かな浸食
十二月四日から、症状は広がった。
最初は数人だった。名前を忘れる。作業の手順を間違える。会話の途中で言葉が出なくなる。全て、一時的で、本人もすぐに回復する。
だが、日を追うごとに頻度が増した。
十二月七日。拠点の三百人のうち、約四十人が何らかの認知症状を報告した。物忘れ。集中力の低下。同じ夢を見る。
夢の内容は共通していた。**赤い光**。まばゆい赤い光の中に立っている夢。光の中から、何かが自分を見ている感覚。
「脳波に干渉しとう」篠原が言った。「0.5ヘルツの信号が、人間の脳のデルタ波帯域に**共鳴**を起こしとう。デルタ波は深い睡眠時に優勢になる脳波たい。つまり、あいつは**眠っている間の脳に**アクセスしようとしとう」
「止められんと?」藤堂が聞いた。
「0.5ヘルツの電磁波は波長が六十万キロ。地球の直径の五十倍。遮蔽は物理的に不可能。建物の壁も、地下も、水中も関係なく透過する。前回の14.7ギガヘルツとは根本的に違う」
「じゃあ逃げ場はなかっちゅうことか」
篠原は答えなかった。答えられなかったからだ。
十二月十日。
美咲に、初めて症状が出た。
朝、目覚めた時。母の顔が思い出せなかった。
写真を見れば思い出す。だが、写真なしで、記憶だけで母の顔を浮かべようとした時、そこにあるはずの像がぼやけていた。輪郭が曖昧で、目や口の位置がずれて、まるで水の中に沈んだ絵のように揺らいでいた。
美咲は胸ポケットから写真を取り出した。母の笑顔。入学式の日。
見た瞬間、記憶が戻った。ああ、この顔だ。この目だ。この笑顔だ。
だが、写真をしまった瞬間、もう像がぼやけ始めていた。
美咲は恐怖した。ゾンビに追われた時とは違う恐怖。自分の内側が、静かに溶けていくような恐怖。
「篠原さん」
篠原のところに行った。篠原は三日間サーバーの前から離れていなかった。
「お母さんの顔が思い出せんくなりました」
篠原は美咲を見た。篠原の目にも、疲労以外の何かがあった。
「私もたい。山際先生の顔が、朝からぼやけとう」
「篠原さんにも来とう?」
「来とう。全員に来とう。0.5ヘルツの信号は地球全体に届いとう。おそらく、この星にいる全ての人間が――程度の差はあれ――影響を受けとう」
美咲は座り込んだ。
「何が起きとうんですか」
篠原はゆっくりと説明した。
「第二ノードの特性は『認知活動の観測』。あいつは人間の認知――記憶、思考、感情――を観測したいんたい。そのために、脳波に共鳴する信号を送って、脳の活動を外から**読み取ろう**としとう」
「読み取るだけ? なら、なんで記憶がぼやけると?」
篠原の顔が曇った。
「読み取りの過程で、記憶の神経回路に干渉が起きとう。本を読むために頁をめくるようなもんたい。めくること自体が、紙を傷める。あいつに悪意はなかかもしれん。ただ、観測の方法が**また間違っとう**」
最初のノードと同じだった。理解しようとして、対象を壊す。蘇生で肉体を、今度は観測で精神を。
「止められんと?」
篠原は長い間、黙っていた。
「前回と同じ方法――問合コマンドで『なぜ』を送ることはできる。送信機はまだ動く。だが――」
篠原は首を振った。
「正直に言う。同じ手が通じる保証はなか。前回は、最初のノードが『なぜ』という問いかけを受けて、初めて自己問合を実行した。だが第二ノードは、その経緯を知っとう。最初のノードの報告を受けとうけん。『なぜ』が来ることを**予測しとう可能性**がある」
「予測しとったら?」
「分析対象にするやろうな。『なぜ』という問いかけ自体を、人間の認知活動のサンプルとして観測する。止まるんやなくて、**もっと深く読みに来る**」
美咲の血の気が引いた。
問いかけが武器にならない。むしろ、問いかけること自体が餌になる。
「じゃあ……どうするとですか」
篠原は答えなかった。




