第十一章 夏
七月から八月。
焼却作業と並行して、福岡の再建が少しずつ進んだ。
藤堂の部隊が市街地の安全確認と遺体収集を担い、黒木の人員が生活インフラの復旧に取り組んだ。志賀島の篠原チームは返答データの解読と通信網の維持を続けた。
三つの柱は、思ったよりもうまく回った。完璧ではなかったが、少なくとも一人の独裁よりはましだった。
だが、夏は容赦なかった。
七月中旬、気温が三十五度を超えた日。遺体の腐敗が爆発的に加速した。
大濠公園の焼却地点だけでは追いつかなくなった。天神、博多、中洲。繁華街の遺体密度は想像以上で、収集が焼却を上回り、未処理の遺体が焼却場の周囲に山積みになった。
蠅の数が凄まじかった。黒い雲のように焼却場の上空を覆い、風向き次第では拠点にまで飛んできた。
そして、七月二十三日。
焼却班の一人が倒れた。
四十度の高熱。激しい嘔吐。下痢。
原口が診察した。顔色が変わった。
「隔離して。今すぐ」
コレラだった。
正確には、コレラかどうかを確定する検査手段がなかった。だが、症状は典型的だった。そして、汚染源は明白だった。地下水。遺体から流れ出した体液が、地下水脈に浸透していたのだ。
三日間で、さらに五人が同じ症状を示した。
原口は隔離テントを設営し、経口補水液を手作りで調合した。塩と砂糖と水。それだけが治療の全てだった。抗生物質はなかった。
二人目の患者が死んだ。
送信機はもう動いていない。蘇生信号も止まっている。死んだ人間は、ただ死ぬだけだった。それが普通のことだったはずなのに、美咲はどこかで安堵している自分に気づいた。蘇らないことへの安堵。それが、この世界の「正常」だった。
「水源を変えないかん」黒木が宣言した。「地下水は全面使用禁止。雨水の貯留に切り替える」
「雨水だけじゃ足りん」藤堂が言った。「煮沸用の薪も要る。そして――遺体処理を加速させる以外にない。汚染源を断つには、遺体を全部焼くしかなか」
藤堂は正しかった。だが、そのために必要な人手は、今の体制では足りなかった。
「鹿児島と連絡を取る」中村が言った。「応援を頼む。その代わり、こっちの物資を分ける。あと――」
中村は地図を見た。
「熊本にも呼びかける。九州全体で組まんと、この夏は越せん」
八月。
鹿児島から五十人、熊本から三十人の応援が来た。
九州各地の生存者が初めて一堂に会した。総勢三百人以上。それぞれの地獄を生き延びてきた人々。
合流は喜びだけではなかった。
鹿児島のグループのリーダーは、元県庁職員の**永田**という女性だった。五十代。眼鏡の奥の目は鋭く、事務的な物言いをする人物だった。
永田は到着早々、問題を指摘した。
「遺体焼却のやり方が非効率です。個別焼却では間に合わん。まとめて一箇所に集約して、大規模焼却を複数回実施すべき」
「それは美咲さんの記録班とバッティングするやろ」黒木が言った。
「記録?」永田は眉を上げた。「遺体の記録に人手を割いとうんですか。この状況で?」
美咲は口を開いた。
「名前がわかった遺体だけでも記録しとうんです。将来、遺族が探す時のために」
「将来?」永田は美咲を見た。同情ではなく、困惑の目だった。「田中さん。今、この瞬間に人が死んどうんです。疫病で。その原因は処理されとらん遺体。将来の遺族のために今の生存者を犠牲にするんですか」
美咲は言い返せなかった。
永田は続けた。
「感情的な話をしとるんやなか。数の話をしとう。記録班三人を焼却班に回せば、一日の処理能力が一割上がる。その一割が、次の感染者を一人減らすかもしれん」
藤堂が美咲を見た。その目に同情はなかったが、敵意もなかった。
「田中さん。俺もあの時、お前さんの記録班は意味があると思った。だが、永田さんの言うことも正しか。どっちを取る」
美咲は拳を握った。
記録を続けたかった。名前を残したかった。あの人たちがただの「処理対象」ではなく、かつて生きていた人間だったことを。
だが、目の前で人が死んでいる。
「……記録班は、焼却の合間にやります。専任は置きません」
美咲がそう言った時、自分の中の何かが少し折れた音がした。




