第四章 北九州
五月二十日。
中村、佐々木、美咲の三人は、国道三号線を北へ向かった。
福岡から北九州まで約七十キロ。車は使えなかった。一年間放置されたガソリンは劣化していたし、道路は放棄された車で塞がれていた。自転車を調達し、車の間を縫って進んだ。
途中の光景は、福岡と同じだった。あるいは、もっと酷かった。
古賀、宗像、遠賀。小さな町を通過するたびに、同じ風景が繰り返された。崩れかけた家屋。雑草に覆われた道路。そして、あらゆる場所に横たわる遺体。
夏の足音が聞こえていた。気温が上がるにつれ、腐敗の速度が加速していた。蠅の数が目に見えて増えていた。
美咲はマスク越しに息をしながら、ペダルを漕いだ。
「中村さん。この国道沿いだけで、何体あると思います?」
「数えるな」
「数えんでもわかります。何万体も。これを全部――」
「数えるな、言うたろう」
中村の声は厳しかった。だが、その目は美咲と同じものを見ていた。
道路の上に、歩道に、民家の庭に、田んぼの中に。どこまでも、どこまでも死体があった。一年前のゾンビたちが倒れた姿のまま、腐敗して、溶けて、それでも消えずにそこにある。
生きている人間は消えた。死んだ人間だけが、どこにでもいた。
八幡に着いたのは夕方だった。
旧製鉄所の巨大な工場跡地に、テントと仮設の小屋が並んでいた。煙が上がっていた。炊き出しの煙。人の声が聞こえた。子供の笑い声も。
門の前に、武装した四人の男が立っていた。手には鉄パイプと猟銃。
「止まれ。どこから来た」
中村が手を挙げた。
「福岡から。黒木さんと連絡を取り合っとう、中村たい」
男たちの一人が無線機で連絡を取った。しばらくして、奥からがっしりした体格の男が歩いてきた。五十代半ば。日焼けした顔。元消防署長の黒木だった。
「中村さんか。よう来た。遠かったやろう」
握手。黒木の手は大きく、分厚かった。
「まず飯を食え。話はそれからたい」
黒木はキャンプの中を案内した。
約二百人。思ったより組織的だった。炊事班、農作業班、見張り班、医療班に分かれて動いていた。元消防の黒木を中心に、規律が保たれていた。
だが、美咲はいくつかのことに気づいた。
門の見張りが持っていた猟銃。キャンプの中にも武装した人間が数人いた。誰に対する武装なのか。ゾンビはもういない。
食事は質素だったが温かかった。米は備蓄米。おかずは缶詰と、畑で採れた小さな大根の漬物。
食後、黒木がテントの中で三人と向き合った。
「状況を話す。うちは二百三人。元々は八幡の消防署に立てこもっとった三十人から始まった。その後、周辺の避難民を受け入れて膨らんだ。一月にゾンビが止まってからは、もっと増えた。山の中に隠れとった人たちが降りてきた」
「組織的やね」中村が言った。
「消防の経験が活きた。指揮系統と班分けは得意たい」黒木は笑った。だが、すぐに表情が曇った。
「ただ、問題がある。食料が足りん。二百人分の飯を賄うには、今の畑では全然足りん。備蓄米もあと二ヶ月で切れる。それと――」
黒木は声を低くした。
「人が増えると、揉め事も増える。特に、最近合流した連中の中に、気になるグループがおる」
「どんな?」
「元自衛隊を名乗る十五人ほどの集団。リーダーは**藤堂**っちゅう男。元陸自の二等陸佐やったらしい。統率は取れとうが――あの男は、やり方が合わん」
「やり方?」
黒木は少し間を置いた。
「藤堂は、遺体処理を**最優先**すべきやと主張しとう。それも、弔いなんか無駄やと。全部焼却処分。効率優先。それ自体は一つの考え方やろう。だが、あの男の本当の目的は処理やない」
黒木は中村の目を見た。
「藤堂は、**この混乱に乗じて北九州一帯の指揮権を握ろうとしとう**。遺体処理を名目に人を集め、武器を確保し、実質的な軍を作っとう。あいつの言い分はこうたい。『民主主義はもう機能しない。緊急時に必要なのは強いリーダーシップだ』」
美咲の背筋が冷たくなった。
ゾンビがいなくなって、まだ四ヶ月。もう人間同士の権力争いが始まっていた。
中村は黙って聞いていた。そして、一つだけ聞いた。
「黒木さんは、どう思っとう」
黒木はゆっくりと答えた。
「俺は消防の人間たい。人を助けるのが仕事やった。命令で人を動かすんやなくて、人が自分で動ける状況を作るのが仕事やった。藤堂のやり方は、それと真逆たい」
黒木は手を組んだ。
「でも、あの男の言うことにも一理ある。二百人がバラバラに動いとったら、夏は越せん。遺体処理も、食料確保も、大人数で組織的にやらんと間に合わん。問題は、その組織を**誰が、どう動かすか**たい」
テントの外で、夕陽が製鉄所の煙突を赤く染めていた。
美咲は思った。
ゾンビと戦っていた頃は、少なくとも敵がはっきりしていた。灰色の目をした、動く死体。それを倒せばよかった。
でも今の敵は――敵という言い方が正しいかすらわからない。同じ人間。同じ生存者。同じように地獄を生き延びてきた者たち。ただ、**生き延びた後の世界をどう作るか**で、もう意見が割れている。
美咲は空を見上げた。
あの空の上の何かは、まだ黙っている。返答の九割は、まだ解読されていない。
でも今、美咲の目の前にある問題は、三万六千キロ先の話ではなかった。
この地上の、この人間たちの間にある問題だった。
*――死者は眠りについた。*
*――だが、生者の戦いは終わっていなかった。*
*――敵はもう、灰色の目をしていない。*




