最終章 四月八日
三月。
志賀島に、春が来た。
篠原の熱は二月に入ってようやく下がった。傷口は原口の献身的な手当てで、化膿することなく塞がった。抗生物質がない世界で、それはほとんど奇跡だった。
蘇生信号は、あの夜以来、一度も検出されていなかった。
世界中のゾンビは、あの瞬間に全て倒れたと推測された。確認する手段は限られていたが、二月に入って博多湾沿岸を双眼鏡で観察した限り、動く影は一つもなかった。
三月中旬、島の短波ラジオが、久しぶりに人の声を拾った。
――*こちら、鹿児島県桜島避難民キャンプ。受信可能な方は応答ください。繰り返します。こちら――*
中村がマイクを取った。
「こちら、福岡県志賀島。生存者三十三名。応答する」
ラジオの向こうで、誰かが泣く声が聞こえた。
その後、各地から断続的に通信が入った。長崎。熊本。大分。四国。そして東京。壊滅したと思われていた都市から、地下や山中で生き延びた人々の声が、少しずつ、少しずつ繋がっていった。
世界の人口がどれだけ残っているのか、正確な数字は誰にもわからなかった。だが、人類は滅んではいなかった。
篠原と翔太は、返答データの解読を続けていた。
第二ブロック、第三ブロックと進むにつれ、データの複雑さは増していった。だが、第一ブロックで掴んだ文法体系が道標になった。
三月末の時点で、全体の約一割が解読できていた。
その一割が示す内容は、篠原を震わせた。だが、篠原は全貌が見えるまで公表しないと決めていた。「断片だけで判断するのは危険たい」と。
ただ、一つだけ、篠原は美咲に教えた。
「第三ブロックに、面白い記述がある」
「何ですか」
「あいつが『問合コマンド』を受信した瞬間の記録。あいつ自身のログみたいなもんたい。それによると――」
篠原は紙を美咲に見せた。
「あいつは、こちらの『なぜ』を受け取った時、**初めて自分自身に同じ問いを投げた**らしか」
美咲は紙を見つめた。数式と記号の羅列。だが、篠原が赤ペンで訳した一文が添えてあった。
**『自己に対する初の問合実行:本行動の目的を再評価せよ』**
「あいつは、私たちの『なぜ』を受け取って、初めて自分に『なぜ』と聞いたんたい。なぜ自分はこんなことをしとうのか、と。それまで一度も、自分の行動を疑ったことがなかった」
美咲は長い間、その一文を見つめていた。
「……あいつも、わかっとらんかったんですね。自分が何をしとうか」
「かもしれん。あるいは、わかっとったけど、疑うことを知らんかっただけかもしれん。どっちにしても――私たちの問いかけが、あいつの中で何かを動かしたことは確かたい」
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四月八日。
あの日から、ちょうど一年。
志賀島の高台で、三十三人が集まっていた。
この一年で失った全ての人のために、黙祷を捧げるために。
美咲の母。鶴田。宮本のおじいちゃん。遠藤。吉田の妻。池田の息子。名前を知らない、数え切れない人たち。福岡の街で。日本で。世界で。
黙祷の後、美咲は島の北端に立った。
博多湾の向こうに、福岡の街が見えた。一年前と同じように、ビルが建ち、道路があり、信号機が傾いていた。だが、動く影はもうなかった。街は本当の意味で静かだった。死者が歩かない静けさだった。
ユキが美咲の隣に来た。七歳になっていた。
「美咲ねえちゃん」
「ん?」
「あっち行くと? あのまちに」
美咲は福岡の街を見た。
来月、最初の本土帰還が計画されていた。中村が指揮を執り、志賀島の三十三人と、短波ラジオで繋がった各地の生存者たちが、少しずつ、街を取り戻す。ゾンビのいない街を。ただし、崩壊したインフラと、一年分の荒廃と、数え切れない死体が横たわる街を。
「行くよ。みんなで」
「怖くなかと?」
美咲は考えた。
「怖いよ。でも、行く」
ユキは美咲の手を握った。
「ユキも行く」
風が吹いた。四月の風。桜はもう散っていた。島に桜の木は三本しかなかったが、今年もちゃんと咲いて、ちゃんと散った。人がいなくても、桜は咲く。ゾンビが歩いていても、春は来る。
美咲は空を見上げた。
青い空。雲。太陽。そしてその向こうに、三万六千キロの彼方に、あれはまだいる。沈黙したまま。こちらの「なぜ」に答えを返したまま。その答えの全容は、まだ誰にも読めていない。
「いつかわかるんかな。あいつのこと、全部」
美咲は誰にともなく呟いた。
後ろから、篠原の声が聞こえた。
「全部はわからんかもしれん。でも、問い続ける限り、少しずつは近づける。そういうもんたい。科学も。人間も」
篠原は美咲の隣に立った。左腕には薄い傷跡が残っていたが、もう包帯はなかった。
「山際先生が問いかけを始めて、私が引き継いで、美咲ちゃんが『なぜ』と叫んで、あいつが初めて自分に問いかけた。問いは人から人へ渡って、最後は人間じゃないものにまで届いた」
篠原は空を見上げた。
「次は、あいつの答えを読み解く番たい。そして、その答えにまた問いかける。その繰り返しが――たぶん、これからの人類の仕事になる」
美咲は母の写真を胸ポケットから出した。
写真の中の母は、笑っていた。入学式の日の笑顔。桜の花びらが、母の肩に一枚載っていた。
「お母さん」
美咲は写真に向かって、小さく笑った。
「一年かかったけど、ちょっとだけわかったばい。あいつは、お母さんを苦しめたかったわけやなかった。でも、だからって許せるわけやなか。許せんけど、わかりたい。わからんけど、問い続ける。――お母さんなら、きっとそう言うと思う」
風が写真を揺らした。
美咲はそれをポケットに戻し、南の海を見た。
福岡の街。帰る場所。壊れた故郷。これから、あの街を歩く。死体を弔い、瓦礫を片付け、水を引き、畑を作り、人を迎え、街を作り直す。百年かかるかもしれない。でも、一歩目は来月だ。
美咲は振り返った。
三十三人が、高台に立っていた。
中村。佐々木。原口。篠原。翔太。ユキ。そして、名前を知らなかった人たちが、今は名前を知っている人たちが。
「行こう」
美咲が言った。誰にともなく。全員に向かって。
高台を降りて、畑に向かう。今日も水を汲み、種を蒔き、魚を獲り、データを解読し、ラジオで各地と連絡を取り、見張りを立てる。死者のいない世界の、最初の一年を、生きる。
空の上の何かは、沈黙していた。
だが、それは終わりの沈黙ではなかった。
返答の九割は、まだ読まれていない。
あの六分十二秒の中に、何が書かれているのか。人類がそれを全て読み解いた時、世界は――そして空の上のあれとの関係は――もう一度、大きく変わるのかもしれない。
だが、それは今日の話ではない。
今日は、四月八日。
死者が目覚めた日から、一年。
そして、死者が眠りについた世界の、最初の春。
*――ある科学者は問い続けた。*
*――ある少女は叫んだ。「なぜ」と。*
*――三万六千キロの彼方で、何かが初めて自分自身に問いかけた。*
*――答えは、まだ途中だ。*
*――でも、問いは、もう止まらない。*
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**― 死者の目覚め 第一部 完 ―**




