第三十五章 一端
美咲が高台に来た時、篠原は岩に凭れ掛かっていた。顔色は悪かったが、目だけは澄んでいた。
中村も来た。佐々木も。原口も。いつの間にか、三十三人の多くが高台に集まっていた。
篠原は紙を膝の上に広げた。
「返答信号の全容は、まだ読めん。読めるようになるまでに何ヶ月もかかるやろう。ただ、第一ブロック――返答の冒頭部分だけは、解読できた」
全員が静まった。
「あいつのプロトコルで、最初のブロックは『要旨』に相当する。論文で言えばアブストラクト。全体の要約たい」
篠原はゆっくりと、一語ずつ選ぶように語った。
「要旨の構造は三つの要素で構成されとう。第一要素は『主体識別子』。あいつが自分自身を定義する部分。第二要素は『行動記述子』。何をしたかの説明。第三要素は『目的記述子』。なぜそれをしたか」
篠原は第一要素を指差した。
「主体識別子。あいつは自分自身を、ある数学的構造で定義しとう。その構造は――人間の言葉に無理やり翻訳すれば――**『観測者』**」
「観測者?」美咲が繰り返した。
「そう。主体の属性として記述されとうのは、『観測する機能を持つ存在』。それ以上の情報は第一ブロックにはなか。どこから来たのか、誰が作ったのか、いつからそこにいるのかは、たぶん後続のブロックに書かれとう」
篠原は第二要素に移った。
「行動記述子。あいつが何をしたか。これは比較的単純やった。蘇生信号の構造と同じ記法で書かれとったけん。**『対象の機能停止を検知し、機能を復元した』**」
「機能停止……死ぬことを、そう捉えとったんですか」翔太が言った。
「そうたい。あいつにとって、死は『機能停止』。蘇生は『機能復元』。壊れたものを直した。それだけのことやった」
沈黙が落ちた。
美咲が口を開いた。
「……それだけのこと?」
「あいつにとっては、そうやったんやろう。パソコンがフリーズしたら再起動する。電球が切れたら取り替える。それと同じ感覚で――死んだ人間を、動くようにした」
「でも、蘇った人たちは――人を襲った。人を殺した。あれが『直した』ことになると?」
篠原は首を振った。
「ならん。少なくとも人間にとっては。でも、あいつにとっては――たぶん、そこが**わからんかった**んたい」
篠原は第三要素を指差した。
「目的記述子。なぜそれをしたか。ここが一番重要で――そして一番、解釈が難しい」
篠原はペンで数式の一部を丸で囲んだ。
「あいつの言語で書かれた目的は、直訳すると――**『停止した対象から情報を収集し、理解を完成させるため』**」
誰も動かなかった。
「つまり……」中村が低い声で言った。「あいつは、人間を理解しようとしとった?」
「そこまではわからん。『対象』が人間だけを指すのか、全ての生物を指すのか、もっと広い何かを指すのかは、第一ブロックだけじゃ判別できん。ただ――」
篠原は美咲を見た。
「『理解を完成させるため』に、死んだ者を動かした。そして、動かした結果何が起きたか――人間が苦しみ、殺し合い、文明が崩壊したこと――を、あいつは**理解できていなかった**。少なくとも、私たちが『なぜ』と問いかけるまでは」
美咲は黙って聞いていた。
「『なぜ』と問いかけた時、あいつは初めて止まった。そして返答を返した。命令には怒ったのに、問いかけには応じた。それはたぶん――あいつにとっても、**問いかけられたのが初めて**やったけんやないかと、私は思う」
篠原は空を見上げた。曇り空。あの向こうに、あれはまだいる。
「あいつは観測者やった。観測し、理解しようとしていた。でも、観測の方法が壊滅的に間違っとった。死んだものを動かして、それを観察することが『理解』やと思っとった。私たちにとってそれがどれほど残酷なことかを、あいつは知らんかった」
「知らんかったで済む話じゃなかろう」
佐々木の声は低く、怒りを含んでいた。当然だった。何十億もの命が奪われた。文明が崩壊した。佐々木自身、壱岐島で家族を全て失っていた。
「済まん。絶対に済まん」篠原は頷いた。「でも、あいつに悪意はなかった。これは慰めやなか。事実として、データがそう示しとう。悪意どころか、あいつには**善悪の概念がない**可能性すらある。ただ『理解したい』という、それだけで動いとった」
長い沈黙が続いた。
波の音だけが響いていた。
美咲が、静かに口を開いた。
「……お母さんを蘇らせたのは、お母さんを理解したかったから?」
篠原は答えなかった。答えられなかった。
「お母さんが苦しんだのも、私がお母さんの頭を――あんなことせないかんかったのも、全部、あいつが**理解したかったから**?」
美咲の声は震えていなかった。涙も出なかった。ただ、とても静かだった。
「……それなら、あいつは、理解できたと? お母さんを蘇らせて、私に殺させて――それで、何を理解したと?」
誰も答えなかった。
篠原が、長い沈黙の後、言った。
「それは――残りのデータに書いてあるかもしれん。あるいは、書いてないかもしれん。でも、もしあいつが本当に『理解したい』存在なら、私たちにはやるべきことがある」
篠原は美咲の目を見た。
「教えてやるたい。あんたたちがやったことで、どれだけの人が死んで、どれだけの人が泣いて、どれだけの世界が壊れたか。あんたたちの『理解』がどれほど的外れやったか。そしてそれでも、私たちはあんたに向かって『なぜ』と問いかけることをやめんかったということを」
篠原は咳き込んだ。原口が水を差し出した。一口飲んで、続けた。
「返答の残りを全て読み解く。あいつが何者で、どこから来て、何を理解しようとしていたのか。全部、明らかにする。そして――こっちからも送る。あいつの言語で。人間とは何か。死とは何か。蘇りがどれほどの苦しみを生んだか。全部、教える」
篠原は笑った。熱に浮かされた、だが穏やかな笑みだった。
「それが――山際先生が最後まで問い続けた『なぜ』の、その先にある仕事たい」




