第三十三章 四十八時間
一月二十日、午後一時。残り四十七時間。
篠原と翔太は高台の送信機の横に陣取った。ノートパソコン一台。紙と鉛筆。それが全てだった。
篠原はヘッダーの数学構造を紙の上に展開し始めた。波形データを数式に変換し、対称性を探り、再帰パターンを分離する。左腕は包帯で吊られたままだったが、右手のペンは止まらなかった。
翔太はノートパソコンに向かい、外挿アルゴリズムを組んでいた。篠原が導き出す骨格データを元に、欠落部分を推測で埋めるプログラム。
残りの三十一人は、二人が計算している間、島を守った。
中村が防衛の全指揮を取った。周波数のずれが加速する中、篠原が時折手を止めて送信周波数を手動調整した。そのたびに計算が中断され、貴重な数分が失われた。
「私がやる。やり方を教えてください。」
美咲が言った。
篠原は驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。
「この計器の数字を見ろ。空からの信号の周波数がここに表示される。この数字が動いたら、こっちのダイヤルを回して合わせる。誤差はプラスマイナス0.005以内に収めろ。それ以上ずれたら、島の端のゾンビが動き出す」
美咲は送信機の前に座った。計器を見つめた。数字が微かに動いた。ダイヤルを回した。合った。
「……できるやないか」篠原が言った。
「やります。先生は計算に集中して」
篠原は美咲の肩を叩き、紙の上に戻った。
一月二十日、午後十時。残り三十六時間。
篠原がヘッダーの骨格構造の六割を解読した。
「再帰のネストが深い……。思っとった以上に複雑な構造たい。でも規則性はある。あいつが使っとう数学は、人間の数学と根本は同じ。対称性、群論、フーリエ変換。ただ、次元が違う。三次元やない。**高次元の空間で定義された波動関数**を、三次元に射影した形になっとう」
翔太はその都度、解読されたデータをプログラムに入力した。画面にはプログレスバーが表示されていた。
完了予測:残り推定三十九時間。
間に合わない。
翔太は外挿の精度を下げて計算速度を上げるか、精度を維持して間に合わないリスクを取るか、の選択を迫られた。
「精度を下げます。八割外挿。誤差は大きくなるけど――」
「やれ」篠原が即答した。
完了予測が更新された。残り推定二十八時間。
まだ足りない。
一月二十一日、午前四時。残り二十六時間。
美咲は送信機の前に座り続けていた。計器の数字が動くたびにダイヤルを回す。その間隔が短くなっていた。三十分に一回だったのが、二十分に一回になり、十分に一回になっていた。
周波数シフトが加速していた。
「篠原さん! 変化速度が上がっとうです!」
篠原が計器を確認した。
「0.05刻みになっとう……。予想より早い。残り時間の見積もりを修正せないかん」
篠原は紙の上で計算した。
「……上書きが効かんくなるのは、明日の午前中。残り約三十時間やと思っとったけど、加速を考慮すると――**二十時間**。もたんかもしれん」
二十時間。計算の完了予測は二十八時間。
**八時間足りない。**
翔太が頭を抱えた。
「先生、外挿精度をさらに落とせば――」
「これ以上落としたら、逆信号の精度が五割を切る。コイン投げと変わらんくなる」
「でも時間が――」
篠原は黙って天井を見上げた。星は見えなかった。曇り空だった。
「……制御構文の方に賭ける」
翔太が顔を上げた。
「逆信号の完全な計算は間に合わん。でも制御構文――停止コマンドの構築は、逆信号ほどの計算量は要らん。ヘッダーの骨格構造さえわかれば、コマンド体系は推測できる。こっちに集中する」
「でも先生、制御構文の解読が正しいかどうか――」
「わからん。でも、七割の逆信号と、解読が正しいかどうかわからん停止コマンド。両方を中途半端にやるよりは、片方に全力を注いだ方がよか」
篠原は翔太の目を見た。
「いや――違う。両方やる。ただし、分担を変える。翔太、お前は逆信号の計算を続けろ。精度が五割でもよか。やれるところまでやれ。私は停止コマンドに全力を注ぐ。どっちかが当たればよか」
「先生、体が――」
「体のことは言うな」
篠原の目は充血し、肌は蒼白で、額には脂汗が浮いていた。左腕の傷は原口が毎日手当てしていたが、微熱は三十九度を超えていた。
だが、ペンを握る右手だけは、揺るがなかった。
一月二十一日、午後二時。残り十時間。
篠原が叫んだ。
「見えた」
紙の上に、膨大な数式と図形が広がっていた。三日間の全てがそこに凝縮されていた。
「制御構文の体系が見えた。あいつのプロトコルは――**階層構造**になっとう。最上位に『モード指定』。その下に『対象範囲』。その下に『動作パラメータ』。蘇生信号は『モード:蘇生』『対象:地球全域』『パラメータ:死亡検知後応答』というコマンドの連続実行たい」
「じゃあ、停止コマンドは?」
「『モード:停止』を最上位に指定すればよかはず。構文は――」
篠原は新しい紙にコマンドのビット列を書き出した。
「これが正しければ、あいつに直接『止まれ』と命じることになる。あいつが従うかどうかは別として、少なくとも**あいつの言語で、あいつに話しかける**ことになる」
美咲が送信機の前から振り返った。
「あいつの言語で」
「そう。今までは素数列やった。『こちらは知性体です』というメッセージ。でも今度は違う。あいつ自身が使っとうプロトコルで、あいつに命令を送る。それは――」
篠原は美咲を見た。
「美咲ちゃんが言うたこと、覚えとう? 『聞きたい、なんでこげなことしようとか』って」
美咲は頷いた。
「今回送るのは、問いかけやない。**命令**たい。『やめろ』と。それが通じるかどうかは、神のみぞ知る」
翔太がノートパソコンの画面を見た。逆信号の計算、進捗七十二パーセント。完了予測は残り十二時間。間に合わない。
「先生。逆信号は間に合いません」
「わかっとう。停止コマンドが本命。逆信号は進捗したところまでで使え。不完全でも、ノイズにはなる。停止コマンドの補助にはなるやろう」
篠原は停止コマンドのビット列をノートパソコンに入力した。翔太が送信信号のフォーマットに変換した。
午後六時。残り四時間。
美咲は送信機のダイヤルを回し続けていた。周波数のずれが三分間隔になっていた。もう限界が近かった。
「篠原さん、もう追いつけんくなりそうです」
「あと少し。あと少しだけ持たせて」
午後八時。残り二時間。
翔太が逆信号の計算を打ち切った。進捗七十八パーセント。不完全な逆信号。だが、やれるところまではやった。
篠原が停止コマンドの最終確認を終えた。
「できた」
その一言は静かだった。だが、高台にいた全員に届いた。
篠原はノートパソコンの画面を見つめた。停止コマンドのビット列が並んでいた。あの空の上の何かに向かって、その何かの言語で「やめろ」と告げる命令文。
正しいかどうかは、わからない。あいつが従うかどうかも、わからない。そもそも、こちらが解読した制御構文が正しい保証は何もない。
だが、これが今の人類にできる全てだった。
午後九時。残り一時間。
美咲がダイヤルから手を離した。
「……もう追いつけません。ずれが大きすぎる」
計器の数字が加速度的にずれていく。上書きが効かなくなるまで、あと数十分。そのあとは――島のゾンビが再び動き出す。海から新しいゾンビが来る。全てが元に戻る。
「送るなら、今たい」中村が言った。
篠原は頷いた。
送信機の入力を、上書き信号から切り替える。停止コマンドと、不完全な逆信号。両方を重畳させた信号を、増幅ユニットの全出力で、空に向かって叩きつける。
「全員に聞いてほしか」篠原が言った。
三十三人が高台に集まった。また、あの浜辺の夜のように。あの起動の朝のように。
「今から送る信号が効くかどうか、私にもわからん。効かんかったら、数分以内にゾンビが動き出す。その時は――」
篠原は中村を見た。
「中村さんの指示に従ってくれ。私が言えるのはここまでたい」
中村は頷いた。
篠原は美咲を見た。
「美咲ちゃん」
「はい」
「あんたが『聞きたい』って言ってくれたけん、ここまで来れた。送信を始めようと思えたのも、制御構文に辿り着けたのも、全部あの一言からたい」
美咲は何も言えなかった。
篠原は送信機に向き直った。
「翔太。送信準備」
「準備完了」
篠原は深呼吸した。一つ。二つ。三つ。
「送信」
翔太がエンターキーを押した。
増幅ユニットが唸った。アンテナが震えた。14.7ギガヘルツの電波が――今度はただの上書き信号ではない――あの空の上の何かの言語で紡がれた命令が、島から空に向かって放たれた。
三万六千キロの距離を電波が往復するのに、約〇・二四秒。
一秒。
二秒。
三秒。
何も起きなかった。
五秒。十秒。三十秒。
篠原が計器を見つめていた。空からの蘇生信号は、変わらず降り注いでいた。周波数のシフトも止まっていなかった。
一分。
「……効かんかったか」翔太が呟いた。
篠原の肩が落ちた。
二分。
美咲はダイヤルに手を伸ばした。もう一度、上書きに戻さないと。もう一度、追いかけっこを――
その時。
計器の針が、**跳ねた**。
あの十二月の夜と同じように。だが、あの時とは比較にならない振幅で。
針が振り切れた。
ノートパソコンの画面が、エラー表示で埋まった。受信レベルが計測上限を超えていた。
空から降り注ぐ信号が、**爆発的に増大していた**。
「何が――」翔太が叫んだ。
島の南側で、倒れていたゾンビが痙攣した。
全員が凍りついた。
ゾンビの目が開いた。灰色の目が。一体だけではなかった。浜辺に転がっていた全てのゾンビが、同時に目を開いた。
「まずい、まずいまずいまずい!」翔太が叫んだ。「信号強度が百倍になっとう! 上書きが吹き飛ばされた!」
**怒らせた。**
美咲の頭にその言葉が浮かんだ。あの空の上の何かを。こちらの言語で命令を送ったことで。「やめろ」と言ったことで。
怒らせた。
ゾンビたちが立ち上がった。いや、**跳ね起きた**。今までのような緩慢な動きではなかった。信号強度の増大が、動きを変えていた。速かった。
「防衛配置!」中村が叫んだ。
だが、遅かった。ゾンビたちは走っていた。走れなかったはずの彼らが。
「全員、送信機の周りに!」中村が鉈を抜いた。
高台に向かって、四方から灰色の影が駆け上がってくる。十体。二十体。島に残っていた全てのゾンビが、一斉に。
中村が最前列に立った。佐々木が横に並んだ。美咲は送信機の傍で鉈を握った。
篠原は送信機にしがみついていた。
「もう一回送る。もう一回――」
「先生! もう効かんです!」翔太が叫んだ。
「効くか効かんかじゃなか!」
篠原の目が光った。熱に浮かされた、だが正気の光。
「さっきのは命令やった。『やめろ』と。だからあいつは怒った。命令されることを拒絶した。なら――**命令じゃなく、問いかける**」
篠原の指がキーボードを叩いた。停止コマンドの構文を書き換えていた。『モード:停止』を削除し、代わりに――
「制御構文の中に『モード:問合』があった。解読が正しければ、これは『応答要求』――つまり**質問**のコマンドたい」
篠原はビット列を書き換えた。
最初のゾンビが防衛線に達した。中村の鉈が閃き、一体を倒した。だが次が来た。速かった。
「篠原さん!」美咲が叫んだ。
「あと十秒!」
佐々木がハリガン・バーで二体を薙ぎ払った。三体目が佐々木の脇をすり抜け、送信機に向かった。美咲が立ちはだかった。鉈を振った。当たった。倒れた。だがすぐ後ろから別の一体が――
「送信!」
篠原がエンターキーを押した。
今度の信号は命令ではなかった。
あいつの言語で、あいつに問いかけた。
**「なぜ」**
たった一語。構文としては最小の問合コマンド。対象指定なし。パラメータなし。ただ、「なぜ」。
美咲が叫んだ言葉と同じ。篠原が生涯をかけて問い続けた言葉と同じ。山際が最後まで手放さなかった言葉と同じ。
なぜ、死者を蘇らせるのか。
なぜ、こんなことをするのか。
なぜ。
信号が空に飛んだ。
〇・二四秒後――
空からの蘇生信号が、**止まった**。
完全に。一瞬で。
島に駆け上がっていたゾンビたちが、走る姿勢のまま凍りついた。
そして、ゆっくりと、倒れた。
今度は――前とは違った。倒れた体から、何かが抜けていくのが見えるようだった。灰色だった肌の色が、わずかに変わった。ふやけていた海の死者の顔が、少しだけ――ほんの少しだけ――生前の面影を取り戻したように見えた。
そして、空から――14.7ギガヘルツではない、全く別の周波数で――**信号が返ってきた**。
篠原の観測装置が、それを捉えた。
長い。複雑な。だが、篠原が解読した制御構文と同じ体系に則った、**返答**。
「……来た」篠原が呟いた。「返事が――来た」
篠原は震える手でデータを記録した。
「『モード:応答』『対象:送信元』……」
篠原は続きを読み解こうとした。だが、信号は長く、複雑で、すぐには読めなかった。
ただ、一つだけ、すぐにわかった部分があった。
蘇生信号は、止まっていた。島だけではない。観測できる範囲全てで。空からの14.7ギガヘルツは、完全に沈黙していた。
「先生……これ、島だけやないですよね」翔太が画面を見つめていた。「14.7ギガヘルツの信号が、**全く検出されん**。ゼロです。あいつが――止めた?」
篠原は答えなかった。画面を見つめたまま、静かに涙を流していた。
美咲は空を見上げた。
冬の夜空に、星が瞬いていた。あの光点は見えなかった。でも、三万六千キロの彼方に、あれはまだいる。今度は黙って。そして初めて――こちらの「なぜ」に答えようとしている。
中村が鉈を下ろした。
「……終わったんか」
篠原が涙を拭いて、首を振った。
「終わっとらん。始まったばかりたい。あいつが返事を寄越した。これから――あの返事を読み解かないかん。あいつがなぜこんなことをしたのか。答えが、あの信号の中にあるかもしれん」
美咲は膝から力が抜けて、その場に座り込んだ。
終わっていない。でも、死者はもう蘇らない。少なくとも今は。
美咲は母の写真を取り出した。
「お母さん。聞こえた。あいつに、聞こえたばい」
*――命令は拒絶された。*
*――問いかけは、受け入れられた。*
*――三万六千キロの向こうから、初めて、返事が来た。*
*――死者の目覚めは、終わった。*
*――だが、本当の物語は、ここから始まる。*




