第三十章 静寂
音が変わった。
発電機の唸りが一段高くなり、増幅ユニットが低い振動音を発した。アンテナが微かに震え、そこから――目に見えない波が、全方位に放射された。
最初の変化は、すぐに現れた。
南側で中村に掴みかかっていたゾンビが、止まった。
腕を伸ばしたまま。指を開いたまま。中村の胸の五センチ手前で、凍りついたように。
濁った灰色の目が、焦点を失った。呻き声が途切れた。
そして――崩れ落ちた。
糸が切れたように。立っていた力そのものが消えたように。その場にくず折れ、動かなくなった。
同時だった。
東側のゾンビも。西側のゾンビも。北から突破してきた者たちも。高台に向かっていた全てのゾンビが、一斉に動きを止め、倒れた。
そして――海上でも。
浅瀬を歩いていた影たちが、波間に沈んでいった。頭が消え、肩が消え、最後に伸ばされた腕が水面下に吸い込まれた。
島全体が、静まり返った。
呻き声が消えた。足を引きずる音が消えた。風と波の音だけが残った。
誰も声を出せなかった。
中村は、五センチ先で止まったゾンビの腕を見つめていた。佐々木は膝をついていた。美咲は足元に倒れた漁師のゾンビを見下ろしていた。
最初に声を出したのは、ユキだった。
翔太の背中から顔を出して、きょろきょろと周囲を見回し、言った。
「……静かになった」
その一言で、何かが弾けた。
誰かが泣き始めた。声を上げて。つられるように、もう一人。また一人。三十三人の高台で、あちこちから嗚咽が漏れた。
中村は泣かなかった。ただ、鉈を持つ手を下ろし、空を見上げた。
篠原は装置の前に座ったまま、計器を確認していた。
「送信出力、安定。14.7ギガヘルツ、増幅倍率一二〇倍。有効範囲――推定半径八キロ」
篠原の声は淡々としていた。だが、計器を持つ右手が、小刻みに震えていた。
「……効いた。既存の蘇生体にも、効いた」
翔太が篠原の隣に座り込んだ。
「先生。やりましたね」
篠原は小さく頷いた。そして、ゆっくりと、倒れるように横になった。
「先生!?」
「大丈夫。ちょっと……休む」
篠原は目を閉じた。三日間の睡眠不足と、熱と、傷と、緊張が、一気に体に降りてきていた。
原口が駆け寄って脈を取った。
「脈はある。熱が高いだけ。寝かせてやって」
美咲は篠原の寝顔を見た。この人がいなければ、ここまで来れなかった。山際の遺志を継ぎ、信号の正体を突き止め、送信機を作り、増幅装置を完成させた。全て、この人の頭と、折れなかった意志があったから。
美咲は島の南を見た。
浜辺に、動かなくなったゾンビたちが転がっていた。海藻を纏った者。制服の者。パジャマの者。彼らはもう動かない。少なくとも、この送信機が稼働している限りは。
中村が美咲の隣に来た。
「……勝ったんですかね」
中村は首を振った。
「島は守った。でも、これは半径八キロの話たい。この外では、何も変わっとらん」
美咲は空を見上げた。
雲の向こう、三万六千キロの彼方に、あれはまだいる。蘇生信号は今も地球全体に降り注いでいる。増幅装置はその信号を島の周囲でだけ上書きしているに過ぎない。
「でも」と美咲は言った。「八キロの中では、人が死んでも蘇らん。ゾンビも止まる。ここは――生きていける場所になったとやないですか」
中村は美咲を見た。
「……そうやな。ここは、生きていける」
中村は三十三人を見回した。泣いている者。笑っている者。ただ座り込んでいる者。
「全員聞け」
中村の声が戻っていた。あの、地下街の頃の声。
「島は守った。送信機が動く限り、ここは安全たい。だが」
中村は南の海の向こう、福岡の街並みを見つめた。
「あの街にはまだ百万の死者がおる。九州全体には、もっとおる。日本には。世界には。この送信機一台じゃあ、全部は救えん」
中村は美咲を見た。篠原を見た。翔太を見た。
「でも、一台で八キロ守れるなら。十台あれば。百台あれば」
翔太が顔を上げた。
「……同じ装置を増産して、各地に設置する」
「そうたい。福岡タワーの機械室には、まだ装置が残っとったろう」
翔太は頷いた。
「三台分はありました」
「なら、また取りに行く。そして動かす。八キロを、十六キロに。三十二キロに。少しずつ、人間の陣地を広げる」
誰かが立ち上がった。また一人。また一人。
三十三人が立っていた。
高台の上で。動かなくなったゾンビたちの間で。発電機の音と、風の音と、波の音の中で。
美咲は思った。
これは終わりじゃない。始まりですらないかもしれない。でも、初めて――初めて、人間の側から世界を取り戻す手がかりを掴んだ。
空の上の何かは、まだそこにいる。まだ信号を送り続けている。まだ、問いには答えていない。
でも、こちらはもう黙っていない。
送信機は唸り続けていた。14.7ギガヘルツの波が、島から広がり、海を越え、空に届いていた。
だが。
その日の夕方。篠原が目を覚ました後、観測データを確認した時。
篠原の顔から、血の気が引いた。
「……信号パターンが変わっとう」
翔太が画面を覗き込んだ。
空からの14.7ギガヘルツの蘇生信号。そのベースラインが、起動後から微妙に変化していた。周波数が――ずれ始めていた。
「14.7から……14.72。いや、まだ動いとう。14.75……」
篠原が唇を噛んだ。
「あいつ、周波数を変えようとしとう」
美咲が意味を理解するのに、数秒かかった。
「変えたら……どうなると?」
「うちの送信が、効かんくなる。今は同じ14.7ギガヘルツで上書きしとうけん効いとう。でも、相手が周波数を変えたら、上書きできん。島のゾンビが、また動き出す」
「対応できんと!?」
「できる。こっちも周波数を合わせ直せばよか。でも、相手がまた変えたら、また合わせないかん。そしてあっちの方が、圧倒的に速く動ける。いたちごっこたい。そしていつか――追いつけんくなる」
三十三人の歓喜が、ゆっくりと沈黙に変わっていった。
勝ったと思った。だが、相手は機械でも自然現象でもなかった。こちらの手を見て、自分の手を変えてくる。知性があった。
中村が言った。
「……どれくらい持つ」
篠原は計算した。
「周波数の変化速度から推定して……三日。三日以内に、今の上書きは無効化される」
また三日。また三日しかなかった。
美咲は空を見上げた。
雲の切れ間に、冬の青空が覗いていた。その向こうに、名前のない何かがいる。こちらの動きを見て、学んで、適応してくる何かが。
「三日間で、何ができると?」
美咲の問いに、誰も答えなかった。
――人間は、八キロの世界を取り戻した。
――空の上の何かは、三日の猶予をくれた。
――それが慈悲なのか、それとも単なる処理速度の限界なのか。
――誰にも、わからなかった。




