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第三話  雨

十一月の雨は、どこか境界を曖昧にする。


音はあるのに、ないように聞こえ、景色は見えているのに、ひとつ薄い膜を隔てた向こう側のように感じられる。人の心もまた、その季節には少しだけ輪郭を失い、普段なら触れない場所に、ふと触れてしまうことがある。


この物語は、そんな雨の日に始まる、小さな出会いの話です。


特別な出来事は起こりません。大きな奇跡もありません。ただ、ひとつの命が誰かの手に渡り、そして誰かの中に残る――その静かな連なりを描いています。


冷たい季節の入り口で、人がもう一度、ぬくもりを引き受けるということ。そのためらいと、決意と、そしてほんのわずかな救いを、感じてもらえたなら嬉しいです。

十一月の雨には、音がない。


 いや、正しく言えば、軒を打つ音も、石畳を濡らす音も、たしかにそこにはあるのだが、それらは耳を打つというより、町の輪郭をひとまわり淡くしてしまうように降る。朝の商店街はまだ眠りの底にあり、半ばまで下ろされたシャッターの列も、濡れた舗道に映る街灯の色も、みな冷えた水の底で息をひそめているように見えた。


 マスターはいつものように、右の手に店の鍵を、左の手に小さな紙袋を提げて、通りの角をゆっくり曲がってきた。冬はまだ先だと暦は言うくせに、この時分の雨は容赦がない。襟もとから忍び込んでくる冷たさは、まるで人の油断を待ちかまえていたかのようである。


 喫茶店〈雨燕〉の前まで来たとき、彼はふと足を止めた。


 軒下の隅に、何か小さなものがあった。はじめは、濡れて丸まった紙屑かと思った。だが、その塊はかすかに身じろぎをし、次いで、糸のように細い声をひとつこぼした。


「……みゃあ」


 雨に洗われた空気のなかで、その声だけが、あまりにも頼りなく、あまりにも生きていた。


 マスターは目を細め、ゆっくりとしゃがみ込もうとした。だが途中で、「いてて」と小さく息を漏らした。腰に鈍い痛みが走ったのである。


 若い頃なら、こんな高さなど何でもなかった。けれど、このごろは朝いちばんの屈み仕事が少々こたえる。まして、十一月の冷たい雨で身体がこわばっている。


 彼は片手を膝に当て、少しずつ体を落とした。そうしてようやく、その小さな塊の正体を見た。


 子猫だった。まだ乳の匂いが残っていそうなほど小さい。白と茶の混じった毛はすっかり濡れそぼち、細い手足は寒さに耐えかねるように震えていた。そばには湿った段ボールの切れ端が落ちていたが、それは庇護のために置かれたものではなく、むしろ捨てた者の言い訳のように見えた。


 マスターはしばらく黙って見つめていたが、やがて、雨の気配を崩さぬような静かな声で言った。


「君も一人なのかい。寒かったろう。この時期の雨は冷える……」


 そう言って、そっと手を差し出した。


 子猫は濡れた目でじっとその手を見た。逃げようとする様子はない。だが安心したわけでもなかった。小さな身体の奥に残った力をかき集めるようにして、急に口を開いた。


「シャッ」


 弱々しい威嚇だった。それでも次の瞬間、差し出されたマスターの指先へ、かぷりと噛みついた。


「っ……おや」


 思ったよりもしっかりした歯だった。皮膚がうっすら裂け、赤いものがにじむ。


 けれどマスターは手を引っ込めなかった。ただ少しだけ眉を上げ、それから困ったように笑った。


「そうか。まだ怒る元気はあるんだね」


 子猫はすぐに口を離した。そしてまた、精いっぱい背を丸めようとした。だがその姿は威嚇というより、寒さと不安で身を縮めているようにしか見えなかった。


「すまない。怖いよね」


 マスターは、噛まれた指をコートの裾で軽くぬぐった。十一月の朝の冷たさのなかで、その小さな痛みは妙にはっきりしていた。だが、それ以上に胸に残ったのは、この子猫が最後の力で自分を守ろうとしていることへのやりきれなさだった。


「大丈夫。取って食べたりしないよ」


 そう言って、首に巻いていた古いマフラーをほどいた。直接手でつかまれるのが怖いのなら、せめて布越しにと思ったのである。


「ほら。怒っていてもいいから、ひとまず中へ入ろう」


 子猫はまた細く鳴いた。返事とも抗議ともつかない声だった。


 マスターは腰をかばいながら、慎重にその小さな体を包み込んだ。持ち上げた瞬間、その軽さに思わず息をのむ。掌に載るその重さは、重さというより、今にも消えてしまいそうな気配に近かった。


「軽いな……」


 子猫はなおも布のなかで身をこわばらせていたが、もう噛みつく力までは残っていないようだった。


「もう大丈夫だよ」


 そう言って立ち上がろうとしたとき、また腰がずきりと痛んだ。マスターは顔をしかめ、それでも子猫を揺らさぬよう、そろりと体を起こした。


「……君を拾うにも、こちらはなかなか大仕事だ」


 それは半分独り言で、半分は、腕の中の小さな生きものを安心させるための声だった。


「でも、放ってはおけないからね」


 そうして彼は、店の扉を開けた。




 店の中は、まだ朝になりきっていなかった。薄暗いカウンターの木目も、窓際のテーブルも、夜の名残を少しずつ手放しているところだった。マスターはまず暖房を入れ、それから子猫をレジ横の椅子へ寝かせた。乾いたタオルを何枚も持ってきて、濡れた毛を一筋ずつ拭いてやる。


 店に入って子猫を椅子へ寝かせたあと、マスターは濡れたタオルを取りに行く前に、噛まれた指先をちらと見た。赤い筋は細かったが、あの小さな顎に残っていた生への執着のようで、なぜか痛みよりもいじらしく思えた。


「ずいぶん冷えたね。……すぐに温まるから」


 けれど、タオルが身体に触れるたび、子猫は小さく喉を鳴らし、精いっぱいの威嚇を繰り返した。


「シャッ」


「うん」


「シャァ……」


「はいはい。気に入らないね」


 マスターはあやすでもなく、困るでもなく、ただ静かに相づちを打った。


「でも、濡れたままだともっと嫌なことになる」


 子猫は睨むように彼を見た。その濡れた目つきは頼りないくせに、妙に頑固だった。


「なかなか気が強い」


 と、マスターは小さく笑った。「それなら、たぶん生きていける」


 次に彼は、牛乳をほんの少しだけ鍋に移し、ごく弱い火にかけた。人の口に入る珈琲よりも慎重に温度を見て、小皿へ注ぎ、子猫の鼻先へ寄せる。


「慌てなくていい。ちゃんとあるから」


 子猫ははじめ匂いを嗅いでいただけだったが、やがて小さな舌を出して、途切れ途切れに飲み始めた。その必死な様子を見て、マスターは目もとをやわらげた。


「そうか、お腹がすいていたんだね」


 それでも皿を下げようと手を伸ばすと、子猫はまた小さく威嚇した。


「それは君のだよ。取らない」


 そう言われても信用しないらしい。子猫は皿の前に身を寄せ、まるで世界じゅうから食べものを守るようにして飲んでいた。その警戒の強さが、かえってマスターには痛ましかった。




 その日最初の客は、十時を少し回った頃にやって来た。


「あら、今日は遅かったのね」


 そう言ってドアベルを鳴らしたのは、近所に住む婦人だった。五十をいくらか過ぎた頃だろうか。灰色のコートをきちんと着こなし、雨の日には決まってブレンドを頼む人で、もう長いこと〈雨燕〉へ通っている常連でもあった。


 マスターが「少しね」と微笑んでカウンターに立つと、婦人は濡れた傘をたたみながら言った。


「この雨じゃ、洗濯物も乾かないし、外へ出るだけで仕事した気になるわ」


「もう十分働いていらっしゃるように見えますよ」


「口だけはいつも上手ね」


 そう言って婦人は笑い、それからレジ横の椅子に目を留めた。


「……まあ」


 声の調子が、すっと変わった。


「猫ちゃん?」


「ええ。今朝、店の前に」


 婦人はゆっくり近づいた。子猫は椅子の上のブランケットのなかで丸まっていたが、見知らぬ気配に気づくと、顔だけを上げた。


「まだ警戒してるんです。僕が近づくと、ずっと怒っていて」


「こんなに小さいのに?」


「ええ。なかなか」


 婦人は目を細めた。その目つきには、ただ可愛いと思うだけではない、古い記憶にふれるような色があった。


「そう……」


 彼女がそう言って、そっと指先を差し出すと、子猫はしばらくその匂いを嗅いだ。それから、不思議なほど素直に、その指へ鼻先を寄せた。


 マスターは思わず手を止めた。


「おや」


 婦人も少し驚いたようだった。


「どうしたのかしら」


「僕のときとは、ずいぶん違いますね」


「あなた、嫌われたの?」


「ええ。かなりはっきりと」


 婦人はくすりと笑った。「見る目があるのかもしれないわ」


「手厳しい」


 そう言うあいだにも、子猫は婦人の指に頬を寄せ、小さく喉を鳴らしはじめていた。店の中の空気が、ほんの少しだけ変わったように見えた。




 それからというもの、婦人が店へ来るたび、子猫は目に見えて様子を変えた。


 マスターがミルク皿を替えようと手を出せば、「シャッ」と威嚇する。寝床の布を整えようとしても、「シャァ……」と細く唸る。


「ずいぶん嫌われたものですね」


 と、ある日マスターが言うと、カウンター席にいた常連の男が笑った。


「猫にも好みはあるからなあ」


「そういうものですか」


「そういうものだよ。優しくするほど避けられたりする」


「人間みたいですね」


「人間より、よほど正直さ」


 だが婦人が入ってくると、話は別だった。ドアベルが鳴るや、子猫は眠っていても顔を上げ、危なげない足取りで椅子から降り、入口のほうへ寄っていく。


「あら、今日もいるの」


 婦人がしゃがむと、子猫はためらいもなくその膝へ前脚をかけた。


「ほら見ろ、やっぱりあの奥さんだけ特別なんだ」


「不思議なものねえ」


「前から知っていたみたい」


 客たちが口々に言う。マスターはミルを回しながら、その様子を見ていた。


「僕にはこんなこと、一度もしないんですけどね」


「あなた、拗ねてるの?」


「いいえ。少しだけ、驚いています」


 婦人は子猫を抱き上げた。子猫は彼女の腕のなかで丸くなり、もうそこが自分の居場所であるかのように、落ち着き払って目を細めていた。


「本当に、どうしたのかしらね」


「理由のないことって、ありますから」


「そうねえ」


 そう言いながら婦人は、どこか遠いものを見るような目をした。




 ある午後、雨は上がっていたが、空にはまだ薄い雲が広がっていた。店には他に客もなく、柱時計の音だけが静かに響いていた。婦人は窓際の席でブレンドを飲み、その膝には子猫がいた。喉を鳴らしながら、眠りかけている。


 マスターはカップを拭きながら言った。


「すっかり懐きましたね」


 婦人は子猫の背を撫でたまま、少し笑った。


「ええ。……困るくらいに」


「困りますか」


「困るわよ」


 その返事は、冗談のようでいて、どこか本気だった。


 しばらくしてから、彼女はぽつりと言った。


「昔、猫を飼っていたの」


 マスターは黙って耳を傾けた。


「もうずいぶん前。茶色の雑種でね、あまり愛想のいい子じゃなかったけど、夜になると必ず足もとへ来る子だったわ」


 子猫は彼女の膝の上で、わずかに耳を動かした。


「病気で死んだの。もう年だったから、仕方がないって、みんなそう言ったけど」


 彼女はそこで言葉を切った。窓の外を見たまま、続ける。


「仕方がないことと、寂しいことは、別なのよね」


 マスターは小さくうなずいた。


「ええ」


「そのあと、もう飼わないって決めたの。あんな思いをするなら、一人のほうがましだと思って」


 彼女はそこで苦く笑った。


「でも、人って勝手ね。いないことには慣れるくせに、ぬくもりのことだけは忘れられない」


 マスターはカップを置いた。すぐには何も言わなかった。言葉には、急ぐとかえって届かないときがある。


 やがて静かに言う。


「だから、この子に懐かれると困るんですね」


 婦人は少し驚いたように笑った。


「ええ。困るの」


「それでも、来るたびに抱いていらっしゃる」


「だって、この子のほうから来るんだもの」


「そうですね」


「ずるいでしょう」


「ええ、猫は案外そういうところがあります」


 婦人は笑った。けれどその笑いは、すぐにしんと静まった。


「また、いなくなったらと思うのよ」


 その声は小さかった。けれど、長いあいだ胸の底に沈めていたものほど、そういう声音で出てくる。


「今度こそ平気だなんて、言えないし。前より年もとったし、気力だってそんなにないし。ちゃんと面倒を見られるのかもわからない」


 マスターは、彼女の膝の上の子猫を見た。子猫は安心しきった顔で眠っていた。


「でも」


 と、彼は言った。


「この子は、あなたのところへ行きたがっているみたいです」


 婦人の指先が、ぴたりと止まった。




 その日の帰り際、婦人はいつもよりゆっくり立ち上がった。子猫は、彼女のコートの裾に前脚をかけて離れようとしない。


「あらあら、だめよ」


 そう言いながら抱き上げると、子猫はその腕のなかで、まるで最初から知っていた場所へ収まるように落ち着いた。


 マスターは、その光景を見ていた。


「……もし」


 婦人が言った。言いさして、少し黙る。


「もし、この子の行き先がまだ決まっていないなら」


 マスターは静かに答えた。


「ええ」


「私でも、いいのかしら」


 その問いは、許可を求めるようでもあり、確かめるようでもあった。マスターに向けた言葉でありながら、ほんとうは自分の心に向けた問いなのだとわかった。


 マスターはすぐには答えなかった。子猫は彼女の腕のなかで目を細めている。彼のほうを見れば相変わらず警戒した顔をするくせに、婦人に抱かれているあいだだけは、まるで別の生きもののようにおだやかだった。


「僕より、この子のほうが先に決めていたのかもしれません」


 婦人は、目を上げた。


「え?」


「ここへ来た日から、ずっと僕には怒ってばかりでしたから」


「そんな……」


「でも、あなたには違う」


 マスターは少しだけ笑った。「不思議なくらい、安心している」


 婦人の目が、ゆっくりと潤んだ。


「私、また飼ってもいいのかしらって……ずっと、思っていたの」


「いいかどうかを決めるのは、僕じゃありません」


 やわらかな声だった。だが、曖昧ではなかった。


「でも、怖がっているのは、軽い気持ちじゃないからでしょう」


 婦人は小さくうなずいた。


「ええ」


「忘れなかったからこそ、怖いんです」


 彼女の睫毛が震えた。


「はい……」


「それなら、その気持ちは、たぶん本物です」


 婦人は子猫を抱き直した。その腕つきは、ぎこちないようでいて、どこか昔を思い出している人のそれでもあった。


「この子が、うちへ来たいと思ってるなら」


 彼女は、子猫の頭をそっと撫でた。


「……今度は、ちゃんと最後まで一緒にいたい」


 その言葉を聞いて、マスターはごく静かに目を細めた。


「そうですか」


 そして、ほんの少しだけ肩の力を抜いて言った。


「じゃあ、よろしく頼みます」


 婦人は驚いたような顔をしたあと、泣き笑いのような表情になった。


「本当に?」


「ええ。僕が決めることではないけれど」


 彼は子猫を見た。


「君はもう決めているんだろう?」


 子猫は婦人の胸もとに顔を埋め、満足そうに喉を鳴らした。


「……返事は、はっきりしていますね」


 とマスターが言うと、婦人はとうとう声を立てずに笑い、目もとを指で押さえた。




 子猫を譲ると決まった夜、店を閉めたあとで、マスターは小さな段ボール箱をひとつ用意した。中には店で使っていたブランケットを敷き、ミルク皿と、子猫がよくじゃれていた布切れを入れる。つい数日のことなのに、そのどれにも、もうこの小さな生きものの気配がついている気がした。


 子猫は箱の中に入れようとすると、案の定、マスターの手に向かって小さく威嚇した。


「最後まで嫌われましたね」


 婦人は目を丸くしたあと、少し吹き出した。


「本当にねえ」


「でも、あなたが抱けば大丈夫でしょう」


 試しに婦人が抱き上げると、子猫はすぐにおとなしくなった。まるで、そうするのが当然であるかのように。


「ほら」


 とマスターは言った。「やっぱり、そうなる」


 婦人は子猫を胸に抱いたまま、何度も頭を下げた。


「ありがとうございます」


「礼なんていいんです」


「でも……」


「この子が決めたことですから」




 外へ出ると、雨は降っていなかった。けれど空気は冴え冴えと冷たく、吐く息は薄く白んだ。


 婦人は箱を胸に抱き、マスターを見た。


「ちゃんと幸せにします」


 その声には、誓いというより、もう一度生きものと暮らすことへの、静かな覚悟があった。


 マスターはうなずいた。


「焦らなくて大丈夫です」


「ええ」


「少しずつ、一緒に暮らしていけばいい」


 婦人は、はい、と答えた。その顔には、店へ来るたびに見せていた穏やかさとは別の、どこか昔の自分を取り戻していくようなやわらかさがあった。


 箱の中で、子猫が小さく鳴いた。マスターはその声に耳を傾け、ほんの少しだけ身をかがめた。


「元気でな」


 それから、少し間をおいて、


「……君は、僕には最後まで愛想がなかったけど」


 と言った。


 婦人が思わず笑う。「そんなこと言わないの」


「いいんです。嫌われるのも、役目ですから」


 そして、子猫を見て静かに続けた。


「でも、あたたかい場所は、見つかったみたいだ」


 婦人は深く一礼し、夜道を歩き出した。街灯の下を、段ボール箱を抱えたその背中が、ゆっくり、けれど迷いなく遠ざかっていく。


 マスターはしばらく、その後ろ姿を見送っていた。


 名をつけることは、とうとうしなかった。けれどそれでよかったのだと、彼は思った。呼び名より先に、帰る場所がある。懐かれなくても、渡してやれるぬくもりがある。


 どうか、あたたかい場所で眠れますように。どうか、今度こそ、さびしくありませんように。


 やがて彼は店に戻り、静かに扉を閉めた。珈琲の残り香が、夜の冷えた空気にまじって、ほのかに揺れた。十一月の雨はもう上がっていたが、軒先から落ちる雫が一つ、遅れて石畳に消えた。


子猫がその後どう育ったのか、婦人がどんな日々を過ごしたのか、マスターが何を思い続けたのか――それらは書かれていません。けれど、おそらくどれも、特別ではない日々の中に溶けていったのだと思います。


ただひとつ確かなのは、「選ばれること」と「手放すこと」が、同じ場所に静かに存在していたということです。


懐かれなかったマスターは、それでも最初に手を差し出した人でした。婦人は、もう失いたくないと知りながら、それでも受け取ることを選びました。そして子猫は、言葉を持たないまま、自分の居場所を決めました。


人はときどき、理由のつかないものに導かれます。それは運命と呼ぶほど大げさではなく、けれど偶然と片づけるには、少しだけ確かなものです。


十一月の雨が、すべてを曖昧にするように見えて、実は必要なものだけを静かに残していくように。


この小さな出会いもまた、誰かの心のどこかに、やわらかく残り続けるものであればと思います。

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