第四話 砂糖三つ
路地の奥に、小さな喫茶店があります。
カウンターだけの、古い店です。マスターはあまり喋りません。コーヒーを淹れて、グラスを拭いて、話を聞くくらいです。
そこに、色々な人が来ます。帰りたくない夜に、まっすぐ帰れない事情がある人たちが。
大した話じゃないんですけど、なんか書きたくなって四話まで書きました。よかったら読んでいってください。
十二月の雨は、冷たいというより、重い。
傘を打つ音は変わらなくても、身体に触れてくる湿気の質が違う。夏の雨は通り過ぎていくが、冬の雨は居座る。外套の繊維の奥まで染みて、なかなか抜けない。
マスターがその子を最初に見たのは、閉店一時間ほど前のことだった。
店の前の軒下に、誰かが立っていた。黒いダウンジャケットのフードを被り、壁に背を預けて、細くなった煙草の煙を吐き出している。足元に、くたびれた小さなリュックサックが置いてあった。
マスターはカウンターを拭きながら、ガラス越しにその姿を眺めた。
背は高くない。フードから覗く髪は、毛先だけ明るく染まっていた。耳にはいくつかピアスが光っている。夜にしては薄い化粧。煙草を持つ手が、ときどき雨に濡れた。それでも動こうとしなかった。行き先があるような立ち方では、なかった。
この通りを、マスターは長いこと見ている。夜のこの時間、この路地に立つ子の事情は、だいたい決まっている。雨の夜は客が来ない。だから、軒下で時間を潰している。そういうことだろうと、思った。
だからといって、どうするというわけでもなかった。ただ、雨が強くなっていた。
マスターは暖簾を少し上げて、扉を開けた。
「よかったら、中でどうぞ」
フードの下から、目が覗いた。切れ長の、値踏みするような目だった。
この人、何が欲しいんだろう、とみくは思った。見知らぬ店の人間が声をかけてくるとき、たいていは何かを求めている。経験から、そう学んでいた。
「……煙草、吸ってますけど」
「中で吸ってもらって大丈夫ですよ。この季節の雨は冷えますから」
みくは少し間を置いた。追加の条件を待った。でも、それだけだった。
この人、何も求めてこないのか。
「……わかりました」
短く返して、扉を開けた。
ドアベルが鳴った。
フードを下ろすと、染めた毛先がよく見えた。根元は黒く、毛先だけが落ち着いた茶色に抜けている。左耳に三つ、右耳に二つ、ピアスがあった。顔立ちは整っていて、目つきだけが少し尖っていた。十七か、十八か、そのあたりだろうと思った。リュックを膝の上に置いて、カウンターの端の席に腰を下ろした。
腰を下ろしながら、一瞬だけ、マスターの指輪のない左手を見た。癖だった。男を見るとき、まず左手を確かめる。それだけでわかることが、いくつかある。
「何にしますか」
「……ホットコーヒーって、いくらですか」
「四百円です」
少しだけ間があった。財布を出す前の、残高を確かめるような間だった。
「じゃあ、それで」
マスターは何も言わずに、コーヒーを淹れた。カップを置くと、彼女は両手でそれを包んで、一口も飲まないまましばらく温めていた。手が、かなり冷えていた。
客は彼女のほかに、カウンターの端に一人いるだけだった。レコードが静かに流れている。
「……雨、なかなか止みませんね」
彼女のほうから、ぽつりと言った。
「そうですね。今夜は長そうです」
「困るんですよね、雨だと」
さらりと言った。それ以上は言わなかった。マスターも聞かなかった。
「傘は、お持ちですか」
「持ってないんで」
「そうですか。帰るときまだ降っていたら、よかったら使ってください」
そう言って、カウンターの端に立てかけてある古い傘を、少し目で示した。借りていいとも、持っていっていいとも、言わなかった。ただそこにある、と言っただけだった。
みくは少し間を置いて、それから前を向いた。肩の力が、少し抜けていた。
「このお店、入ったことなかったです。路地の奥にあるじゃないですか。気づかなかった」
「通らない道は、なかなか気づかないものですから」
「確かに。この辺、毎日いるのに」
毎日いる、という言葉が、さらりと出た。彼女は特に気にした様子もなかった。マスターも、特に拾わなかった。
コーヒーを一口飲んで、彼女は小さく目を見開いた。
「……苦い」
「ブラックですからね」
「砂糖、もらえますか」
「どうぞ」
マスターが小さな器を出すと、彼女は二つ入れた。それから一口飲んで、また一つ足した。
「多いですね」
「苦いのが苦手で。なんか、雰囲気で頼んでしまった」
「それなら最初から言ってくれればよかった。カフェオレにもできましたよ」
「あ、……すみません、言えばよかった」
「謝らなくていいです。次に来たときに言ってください」
次に来たとき、という言い方が自然に出た。みくは少し驚いたように目を上げた。それから、またカップに視線を落とした。
「次、来るかわからないですけど」
「そうですか」
「いや、来るかもしれないですけど」
「どちらでも」
どちらでも、という言葉が、妙に軽かった。求めていない、という感じがした。みくはその軽さを、少し確かめるようにもう一口飲んだ。
しばらく、レコードの音だけが流れていた。
端の客が席を立ち、ドアベルを鳴らして出ていった。店の中は、マスターと彼女だけになった。
二人きりになった瞬間、みくの目がわずかに動いた。扉までの距離と、マスターとの位置関係を、素早く確かめる。逃げられるか。叫べば聞こえるか。そういう計算が、考えるより先に動く。もう癖になっていた。
マスターはカウンターの向こうで、グラスを拭いていた。こちらを見ていなかった。
少し、肩の力が抜けた。
「このレコード、何ですか」
「ビル・エヴァンスです。ジャズのピアニストで、もう亡くなっていますが。お好きですか」
「なんか、雨に合いすぎてて、逆に暗くなりそう」
「そうですか」
「嫌いじゃないですけど。ずっと聴いてると、落ち着いてくる感じはある」
「それが、ジャズのいいところだと思っています」
「マスターって、他にどんなの聴くんですか」
「色々ですよ。クラシックもかけますし、古いフォークもある」
「演歌は」
「演歌は、あまり」
「なんで」
「お客さんに合わせると、少し違う気がして」
「お客さんに合わせてるんだ。じゃあ今、私に合わせてこれかけてるんですか」
「今夜の雨に合わせています」
「なんか、うまいこと言いますね」
マスターは答えなかった。代わりに、カップが空になっていることに気づいて、「おかわり、どうですか」と言った。
おかわり。サービスで。
みくの頭の中で、また一瞬、何かが走った。タダで出してくる理由。この後、何か求めてくるんだろうか。それとも、ただそういう人なのか。
「……あ、いくらですか」
「サービスで」
「いいんですか」
「たまに、そういうこともあります」
たまに、そういうこともある。理由がなかった。みくはその答えを、少し考えた。
「じゃあ、カフェオレにしてもいいですか」
「最初からそう言えばよかったですね」
「だから、すみませんって」
カフェオレを受け取って、一口飲んだ。ほっとしたような顔になった。
「全然違う」
「ブラックとは、だいぶ違いますね」
「こっちの方が好きです」
「大人っぽく見せたかったですか、ブラックで」
「……ちょっとだけ」
マスターは、声を立てずに笑った。みくもつられて、少し笑った。
「やっぱりわかるか」
「なんとなく」
「恥ずかしいな」
「コーヒーは、苦くなくていいんですよ。甘くして飲む人も、ミルクを入れる人も、それぞれです」
「マスターは、どっちで飲むんですか」
「ブラックです」
「苦くないんですか」
「苦いです」
「それでも飲むんですか」
「慣れました」
「私も慣れますかね」
「どうでしょう。慣れる人もいれば、一生苦手な人もいます。無理に慣れなくてもいいと思いますが」
「なんか、それも、コーヒーの話だけしてないですよね」
マスターは少し間を置いた。
「どうでしょうね」
みくはカフェオレを一口飲んで、それからカウンターに頬杖をついた。
しばらくして、みくが口を開いた。
「マスターって、結婚してるんですか」
「していません」
「一人なんですか」
「そうです」
「へえ」
少し間があった。
「夜も、一人なんですか」
さりげない言い方だったが、含みはあった。みくの中ではそれが、いつの間にか自然な問いになっていた。
マスターは特に表情を変えなかった。
「そうです」
「寂しくないですか」
「あまり考えたことがなかったですね」
「なんでですか」
「ここに来る人が、色々な話をしていくので。それを聞いているうちに、一日が終わります」
みくはその返し方を聞いて、少し目を細めた。かわされた、とわかった。乗ってこなかった。
乗ってこない大人が、珍しかった。
「私、一人が怖いんですよね」
ぽつりと言った。さっきとは違う声だった。計算のない声だった。
「怖い、というのは」
「一人でいると、自分がどこにいるのかわからなくなる感じがして。誰かがそこにいると、ああ、ここにいるんだ、ってわかる」
「誰でもいいんですか」
「……そういうわけじゃないですけど」
少し間があった。
「選んでられないこともあって」
それだけ言って、みくはカフェオレを飲んだ。マスターも促さなかった。
ただ、その一言の意味は、この路地を長いこと見ているマスターには、わかった。選んでられない。そういう夜を、この子は何度も過ごしている。体で場所を借りて、朝になったら出ていく。雨の夜は客が来ないから、軒下で時間を潰すしかない。
確かめなかった。確かめても、どうにもならないことはある。
「マスターは、そういうの、ないんですか。誰かそこにいないと、みたいな」
「若い頃は、あったかもしれません」
「今は」
「今は、ここがあるので」
「店が、ですか」
「ええ。朝来て、開けて、誰かが来て、閉める。それが毎日あるので、どこにいるかはわかります」
「場所があると、違うんですか」
「私の場合は、そうでしたが。人によると思います」
「自分の場所、かあ」
彼女は窓の外を見た。雨がガラスを伝って流れている。リュックを少し、膝の上で持ち直した。
「マスターって、私のこと、最初から気づいてましたよね。何してるか」
「なんとなくは」
「気持ち悪くないですか」
「なぜ」
「そういう子が、急に入ってきて」
「コーヒーを飲みに来たんでしょう」
みくは少し黙った。
「……そういう言い方、する人、あんまりいないですよ」
「そうですか」
「声かけてきた時も、普通と違くて。下心がなかった。それが変で、逆に警戒した」
「警戒は、して正解ですよ」
「え」
「知らない人間ですから」
「……今も警戒した方がいいですか」
マスターは少し間を置いた。
「それも、自分で判断してください」
みくはその答えを聞いて、また少し目を細めた。それから、小さく笑った。
彼女の名前は、みくといった。少し経ってから、自分から教えてくれた。
「田中みくです」
「田中さんですか」
「みくでいいです。田中って呼ばれると、なんか、別の人みたいで」
「では、みく」
「……なんか、急に距離縮まりましたね」
「そう言ったので」
「まあ、そうですけど」
みくはカフェオレをもう一口飲んだ。
「マスターって、名前、なんていうんですか」
「藤井です」
「じゃあ、マスター。……なんか、バーみたいですね」
「バーではないですが」
「夜しかいないイメージがある、こういう店」
「昼も開けています」
「昼に来るのは、どんな人ですか」
「近所の方が多いですね。定年退職した方とか、近くで働いている方とか」
「みんな、こんな感じで話しかけてくるんですか」
「人によります」
「私みたいな子も、来ますか」
「たまに、います」
「どんな子ですか」
「色々です。ただ、夜にここへ来る子は、だいたい、すぐには帰りたくない理由があります」
「私も、そう見えますか」
「ええ」
「当たってます」
「そうですか」
「みんな、話してすっきりして帰るんですか」
「さあ。ただ、来た時と少し違う顔で帰る人は、います」
「私は、どうですか」
マスターは少し間を置いて、みくの顔を見た。
「まだ、途中じゃないですか」
「途中」
「ええ。まだここにいるので」
みくは少し笑った。「そっか、まだ途中か」
しばらく経ってから、みくがまた口を開いた。
「ここって、一人でやってるんですか」
「そうですね、今は」
「手伝いとかは」
「いないですね」
「そっか」
少し間があった。
「……聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「ここで、バイトって、募集してないですか」
マスターは手を止めた。
みくは膝の上のリュックを少し押さえながら言った。
「いや、なんか、急に言うのも変なんですけど。でもここ、居心地がよくて。それに、マスターが変な顔しなかったから」
「変な顔、というのは」
「最初に私の顔見たときの、あの顔。どのバイト先も、一回止まるんですよ。でも、マスターは止まらなかった」
「バイトは、探しているんですか」
「三回落ちたんですよ、この一ヶ月で。コンビニと、ファミレスと、居酒屋。全部、面接で」
「理由は言われましたか」
「言われないですよ、そういうのって。でも、わかりますよね。髪と、ピアスですよね、絶対。透明のピアスにしたこともあったし、帽子で髪も隠して。でも、そうすると、自分じゃない人間が面接受けてる感じがして、気持ち悪くて」
「それで戻した」
「そう。で、また落ちた」
「仕事は、ちゃんとやりますか」
「やります。それだけは、自信あります。遅刻もしないです」
「接客は」
「やったことないですけど、人の顔、見るのは得意なんで。この人、今どういう気分かとか、何が欲しいかとか、なんとなくわかる」
「それは、大事なことです」
「ほんとですか」
「ええ。接客で一番難しいのは、技術より、そこですから」
みくは少し意外そうな顔をした。褒められることには慣れていた。ただ、こういう褒め方には慣れていなかった。顔や体を褒める言葉には慣れていた。でも、自分の中にあるものを、さらりと言われたのは、少し違う感じがした。
「……ありがとうございます」
マスターはカップを棚に戻して、少し間を置いた。
「ひとつ、聞いてもいいですか」
「はい」
「今夜、どこに泊まりますか」
みくは少し黙った。今夜どこに帰るか、ではなく、どこに泊まるか、と聞いた。
「……まだ、決まってないです」
「そうですか」
「雨が止んだら、まあ、なんとかなるんで」
なんとかなる。その言葉の裏側を、マスターは聞かなかった。聞かなくても、わかった。
雨は、まだ降っていた。
「この店の裏に、離れがあるんです」
マスターが、不意に言った。
「離れ、ですか」
「古い部屋で、長いこと使っていなかった。水回りはあります。狭いですが」
みくは顔を上げた。マスターの顔を、まっすぐ見た。
みくの目が、少し変わった。部屋を用意すると言う大人が、何を求めているか。経験から、すぐにわかった。
「……それって、どういう意味ですか」
警戒した声だった。
「住み込みで働く気があれば、使ってもいい、ということです」
「……働く、だけですか」
「ええ」
「本当に」
「本当に」
みくはまだ、マスターの顔を見ていた。信じようとして、信じられなかった。信じて、違ったときのことを、身体が先に知っていた。
「なんで、そんなことしてくれるんですか」
「さあ」
マスターは少し間を置いた。
「人手が欲しいのかもしれないし、雨の中に立っていた子を、放っておけなかったのかもしれない。自分でも、よくわかりません」
「わからないのに、言うんですか」
「思ったから、言いました」
「……信用していいんですか」
「それは、自分で判断してください」
「判断する材料が、少なすぎます」
「そうですね」
「なのに、部屋貸すんですか」
「貸してもいいと思ったので」
みくはしばらく黙っていた。ここまで、こういう言い方をする大人には、一度も会ったことがなかった。
「ただ、勘違いしないでほしいのは」
マスターは、静かにそれだけ言った。
「ここは、仕事をする場所です。それだけです」
その言葉は短く、余計なものが何もなかった。
みくはその言葉を聞いて、少し黙った。それだけです、という言い方が、頭の中でしばらく回った。それだけ。本当に、それだけなのか。これまでの経験が、信じるなと言っていた。でも、マスターの顔は静かなままで、何かを隠しているようには見えなかった。
「……部屋、見てもいいですか」
「どうぞ」
マスターはカウンターを出た。みくはリュックを背負って、その後ろについた。
裏口から出ると、狭い通路があった。突き当たりに、古い木の扉がある。
マスターが鍵を開けると、冷えた空気が漏れてきた。電気をつけると、四畳半ほどの部屋が現れた。畳が少し黄ばんでいる。窓は小さい。押し入れがひとつ。奥に小さな流し台と、カーテンで仕切られた洗面と風呂がある。
「狭いですね」
「狭いです」
「寒い」
「暖房はあります。古いですが、動きます」
みくは部屋の中を、ゆっくりと見回した。それから、押し入れを開けた。流し台の向こうを確かめた。窓の鍵を指で触った。内側からかけられるか、確かめていた。逃げ道のある部屋か。閉じ込められない部屋か。そういうことを、まず確かめる癖が、いつの間にかついていた。
「内側から、かけられますか」
「かけられます」
「鍵は、マスターも持ってるんですか」
「今渡します」
マスターはポケットから鍵を出して、みくに渡した。それだけだった。控えを持っているとも、合鍵があるとも、何も言わなかった。
みくはその鍵を、しばらく手の中で見ていた。
渡された。この鍵を、渡された。
それがどういう意味を持つのか、うまく飲み込めなかった。これまで、鍵を渡してくる大人はいなかった。鍵を持っているのはいつも相手側で、みくはいつもその部屋を借りる側だった。自分で鍵をかけていい部屋というのが、どういうものか、少し、わからなかった。
「……ここに、ずっといてもいいんですか」
「仕事を続ける間は」
「辞めたら、出ていかないといけない」
「そうなります」
「条件とか、ないんですか」
「給料から少し引きます。金額は一緒に決めましょう。無理のない額にしたいので」
「……他には」
「他には、特にないです」
「本当に」
「本当に」
みくはまだ、マスターを見ていた。信じようとして、信じきれなかった。でも、この鍵が手の中にあった。
「……変な人ですね」
「そうかもしれません」
「でも、なんか」
言いさして、みくはまた部屋を見た。
「なんか、ここ、いいかも」
小さな声だった。自分に言い聞かせるような声でもあった。
みくはゆっくりとリュックを下ろした。床に置かれたリュックは、随分くたびれていた。あちこち擦れて、ファスナーの一か所が壊れている。
「……ここに、置いてもいいですか」
「どうぞ」
「今夜から」
「構いません」
みくはしゃがんで、壊れていない方のファスナーをそっと触った。それから立ち上がって、鍵を見た。
「一個だけ聞いていいですか」
「どうぞ」
「髪と、ピアス。隠した方がいいですか」
「隠さなくていいです。ただ、熱いものを扱うので、ピアスは引っかからないように気をつけてください」
「……それだけですか」
「それだけです」
「やっぱり、変なお店ですね」
「そうですか」
「褒めてますよ」
「知っています」
「さっきは、よかった、って言いましたよね。今は、知ってる、って言った。どっちが本音ですか」
「どちらも本音です」
みくはそれを聞いて、少し笑った。今夜、何度目かの笑顔だった。さっきより、少しだけ柔らかかった。
「……ありがとうございます」
「仕事の礼は、仕事でしてください」
「ちゃんとやります」
「それだけで十分です」
「カフェオレ、練習します」
「ゆっくりで構いません」
「ブラックも、いつか飲めるようになりますかね」
「どうでしょう。慣れる人もいれば、一生苦手な人もいます」
「さっきも同じこと言いましたね」
「同じことですから」
「……コーヒーの話だけじゃないですよね、それ」
「どうでしょうね」
みくは少し笑って、「また、その言い方だ」と言った。
マスターが店に戻ると、レコードはまだ回っていた。
カウンターに立って、今夜のことを、しばらく考えた。
同情だったのか、と問われれば、そうかもしれない、と思う。ただ同情だけだったか、と問われると、わからない。長いことこの店をやっていると、色々な人間が入ってくる。九月に来た中年男。十月に来た女子大生。そして今夜、軒下に立っていた、リュックひとつの十七歳。
みんな、何かを抱えてここに来た。マスターにできることは、コーヒーを淹れることと、黙って話を聞くことくらいだった。
ただ今夜は、たまたま、離れが空いていた。それだけのことかもしれない。それだけではないかもしれない。自分でも、よくわからなかった。
ただひとつわかるのは、鍵を渡したとき、あの子の目が少し変わったことだった。受け取り方がわからない、というような顔だった。そういう顔を見たことがある気がした。もう長いこと前のことで、誰の顔だったかは思い出せなかった。
カウンターに残ったカフェオレのカップを、さっと洗った。砂糖の甘さが、微かに残っていた。砂糖を三つも入れないと飲めないコーヒーを、それでも飲もうとした。そういう子だった。
裏の方で、暖房が動き始める音がした。古い暖房は、動き出すまでに少し時間がかかる。それでも、動き始めれば、ちゃんと温まる。
レコードが、静かに次の曲へ移った。十二月の夜が、濡れた町に静かに沈んでいった。
それから、少し経った。
夕方の光が傾きかけた頃、ドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
カウンターの内側から、声がした。
マスターは棚のグラスを拭きながら、その声を聞いていた。少し硬かった。まだ慣れていない声だった。それでも、ちゃんと届いていた。
みくは入ってきた客に向かって、まっすぐ立っていた。染めた毛先が、店の灯りの下で少し明るく見えた。ピアスが、小さく光っていた。
マスターは何も言わなかった。
ただ、手を動かしながら、その声をもう一度、頭の中で繰り返した。
いらっしゃいませ。
悪くない、と思った。
部屋の中で、みくはしばらく動かなかった。
手の中の鍵を、もう一度見た。古い鍵だった。少し重かった。
暖房が、ようやく温かい空気を出しはじめていた。首の後ろに、それが触れた。
みくは膝を抱えて、小さくなった。
それから、誰にも聞こえないくらいの声で、一言だけ言った。
「……ずるい」
それだけだった。泣いてはいなかった。きっと、泣き方をどこかで忘れてしまったのだろう。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
書いてみて気づいたんですけど、マスターって結局何考えてるのかよくわからない人間になりました。なんで離れを貸したのかとか、なんで扉を開けたのかとか、自分で書いておいて正直わからないです。でもそれでいいかなと思っています。
四話、それぞれ季節が一個ずつ進んでいます。登場人物たちがその後どうなったかは書いていないので、想像してもらえたら嬉しいです。
続きを書くかどうかはまだわかりませんが、コメントやいいねをもらえると素直に嬉しいし、書く気になります。よかったらお願いします。




