第二話 熱
新生活が始まって、生活のリズムが大きく変わり、少し執筆のペースがゆっくりになっていました。更新を待ってくださっていた方がいましたら、本当にありがとうございます。
今回は、「寂しさを埋めるためのぬくもり」と「自分を大切にすること」をテーマに書きました。
誰かといる時間は温かいのに、一人になった瞬間に戻ってくる空っぽな感覚。
わかっていても、同じことを繰り返してしまう。
そんな“簡単には変われない人間らしさ”を、ほのかを通して描いています。
少しでも夜の静けさや心の揺れを感じてもらえたら嬉しいです。
※本話を加筆修正しました(表現の調整です)
マッチングアプリの通知が鳴ったのは、昼過ぎだった。
ゆうき、と表示されていた。二週間くらい前からやり取りしている人だ。気さくで、返信が早くて、話していると楽しい。それだけで、なんとなく信頼してしまっている自分がいる。ちょろいなと思いながら、それでも通知を開いた。
「この前、話したおすすめのbarに一緒に行きませんか」
画面を見た瞬間、胸が跳ねた。
高校時代は、異性に誘われたことなど一度もなかった。だからなのか、こういう通知が来ることに、まだ慣れない。
「行きましょう!」
送ってから、三秒で既読がついた。
「やばい嬉しい、どこ来れますか」
思わず声が出た。口角が上がるのが自分でもわかった。こんな私と、一緒に行きたいと思ってくれる人がいる。ただそれだけのことが、今日という日を少し特別に塗り替えた気がする。なんと安価な幸福だろう、と思ってしまう。
待ち合わせ場所に着くと、スマートフォンを持ったまま辺りを見回している男がいた。写真より少し背が高く、清潔感があって、何と言ってもイケメンだった。当たりを引いたと思いながら、人をくじ引きの景品のように値踏みしている自分に、少し呆れた。それでも、足が軽くなるのは止められなかった。
「あ、ほのかさんですか~!」
「あ、そうです」
「よかった~。てか写真より全然かわいいですね」
耳が、じわりと温かくなった。
言われ慣れていない言葉というのは、毒に似ている。じわじわと染み込んで、気づいた頃には胸の奥まで届いている。毒だとわかっていても、甘いから、困る。そういう毒を、私はどうやら好んで飲んでいる節がある。
彼が前に話していたbarに入った。照明が落ちていて、静かで、二人で話すにはちょうどいい場所だった。ゆうきはよく喋った。仕事の話、友達の話、旅行の話。アプリで話していた通りの人だった。誠実そうで、感じがよくて、悪い人ではないのだろう。でも、ほとんど頭に入ってこなかった。
彼の顔に、意識が持っていかれていたからではない。
彼が自分を見るたびに、その目に映る自分が気になっていたからだ。魅力的に見えているだろうか。変に見えていないだろうか。考えているのはそればかりで、会話は景色のように流れていった。
「ほのかさん、話聞いてます~」
頬を膨らませた顔が向いてきた。
「う、うん、旅行の話だよねー」
「違いますよー、ほのかさんのタイプの男の話聞いてるんですよ」
お酒が回ってきているのか、彼の頬が赤くなっていた。ほのかの口元に、小さな笑みがこぼれた。
「んー、内緒~」
「え、教えてくださいよ~」
「話面白くて、優しい人かな」
「それ、俺じゃないですか」
「さあ、どうかな」
グラスを傾けながら、ほのかは目を逸らした。頬が少し熱かった。お酒のせいだけではないことは、自分が一番よく知っていた。
二軒目に誘われた。断らなかった。
三杯目を飲み終わった頃、ゆうきが言った。
「もう少し、二人でいない」
遠回しのそれが何を意味しているかは、わかった。
理性の声が、どこか遠くで囁いた。やめておけ、と。しかしその声が届くより先に、別の感情が動いていた。この人に、選ばれたい。欲しいと思われたい。それが本音だった。人間というのは、理性より本音の方が、いつだって少し足が速い。
「……え、え~、しょうがないな」
そう言って、ゆうきと店を後にした。
こうも軽く誘いに乗ってしまう自分が嫌いになりそう。
そう思いながら歩く、ホテルまでの距離も、彼と話していると忘れさせてくれた。
部屋に入るなり、彼は私の顎に手を添えてきた。大学生になってから経験を重ねてきたが、ここまで強引にされたのは初めてで、身体がたじろいだ。
「ほのかちゃん、本当にかわいいよね」
「そんなことないよ」
面と向かって言われると耐性のない私は、どこか恥ずかしく顔を横に向けた。
「照れてるの、照れ顔のほのかちゃんも可愛いな」
そう言いながら、横を向いた私の顔を彼の正面へと向けさせた。
「ごめん、もう我慢できないわ」
その言葉が終わる前に、唇が塞がれた。
オレンジ色の照明が、ぼんやりと部屋を照らしていた。彼の声が耳元で聞こえる。かわいい、かわいい、と何度も口にしていた。
嬉しかった。ちゃんと、嬉しかった。
この人に抱かれているあいだだけ、寂しくなかった。それだけのことだった。それだけのことが、今夜ここまで来た理由のすべてだったと思う。
彼は振り返らなかった。ドアが閉まった音が、やけに軽かった。
静かになった部屋で、ほのかはじっとしていた。彼の熱が、ゆっくりと自分の肌から抜けていく。いつもこれが怖い。満ちていたものが引いていく、あの感覚。潮が退くように、確実に、静かに。どれだけ繰り返しても、慣れることができなかった。熱が冷めるたびに、寂しさが音もなく戻ってくる。まるで最初からそこにいたように、当然の顔をして。
かわいい、という声が、まだ耳の奥に残っていた。
わかっている。あの言葉は私に向けられていたのではなく、今夜のための序章に過ぎなかった。それくらい、わかっている。わかっていて、それでも縋ってしまう。寂しさを埋めるために、今夜もここに来た。この人とは長く続かない。最初からそれもわかっていた。続かないとわかっていながら、それでも熱を借りに来る。返却期限のある熱を。
そんな自分が、嫌いだった。嫌いだと思うことで、まだ何かを保っていた。
大学に入るまで、寂しいという感情をうまく扱えたためしがなかった。
地元の高校では、特別でも何でもなかった。放課後、誰かと帰ることもなかった。休日、誰かに誘われることもなかった。それが普通だと思っていた。思うことにしていた。
大学に入って、マッチングアプリを入れた。最初は冗談半分だった。
しかし、すぐにわかった。会える。触れられる。抱かれる。そのあいだだけ、あの重たい寂しさが、どこかへ消えた。
だから次を探す。また会いに行く。また抱かれる。熱が冷めるまでのあいだだけ、寂しくないでいられた。
外に出ると、十月なのに思いのほか冷え込んでいた。
冷たい空気が、首筋に触れた。それだけで、もう寂しかった。さっきまで誰かがいたのに。さっきまで温かかったのに。感情というのは、現金なものだ。熱が消えた瞬間から、もう次を探しはじめているのだろう。
橙色の灯りが、路地の奥に見えた。
吸い込まれるように、扉を開けた。ドアベルが、小さく鳴った。
「いらっしゃいませ」
白髪の老人がいた。多分マスターだろう。カウンターの向こうで、グラスを拭いていた。皺の深い顔だったが、嫌な感じはしなかった。長い年月をかけて刻まれた皺というのは、どこか人を安心させる。
「飲み物はお決まりですか」
そう言うマスターの声は、優しさに満ちていた。急かす色が、どこにもなかった。
カウンターだけの、静かな店だった。古いレコードが低く流れている。コーヒーの香りがした。一人でいても、ここには誰かの気配があった。それだけで、少し息ができた。
「甘いコーヒーって、ありますか」
「カフェオレでよければ」
「じゃあ、それで」
端の席に腰を下ろした。しばらくして、カップが静かに置かれた。音もなかった。慣れた手つきというのは、こういうものだろうと思った。
両手で包むと、指先まで温かくなった。一口飲んだ。なんでか、泣きそうになった。温かいものというのは、ときどき残酷だ。張っていたものを、静かに溶かしてしまうから。
「十月なのに、今日は冷えますね」
「そうですね。今年は急に来ましたね」
マスターは手を動かしながら、短く返した。それだけだった。それだけでよかった。
しばらく、レコードの音だけが流れていた。知らない曲だった。古い曲だろうと思った。古い曲というのは、なぜか夜に馴染む。
「こういうお店、ずっとやってるんですか」
「もう五十年になりますね」
「お客さん、来ますか」
「こんな時間でも、たまに来ますよ」
こんな時間に来る人間が、自分のほかにもいる。そう思ったら、少しだけ、気が楽になった。
カップをもう一口飲んだ。温かさが、喉の奥まで降りていった。
「私、寂しいのが怖いんですよ」
気づいたら、口に出ていた。世間話の続きのように、ぽろりと出た。自分でも驚いた。
白髪のマスターは、グラスを拭く手を止めた。しかし何も言わなかった。ただ、こちらを見た。急かすでも、引くでもなく、ただ、聞いてくれていた。
「だから誰かと寝るんです。抱かれてるあいだだけ、寂しくないから。でも終わったら、また寂しくなって」
少し間を置いた。
「高校まで、ずっと一人だったんですよ。それが普通だと思ってたけど、そうじゃなかったみたいで。大学入ってから気づいた。私、ずっと寂しかったんだって」
マスターは何も言わなかった。ただ、聞いていた。
「誰かと寝ると、少しだけ自分に価値がある気がするんですよ。この人にとって私は必要な存在なんだって。でもすぐ消えちゃって。熱が冷めると、また空っぽで」
「今夜の人とも、長く続かないと思うんですよ。最初からわかってる。わかってて、それでも会いに行く」
言ってしまってから、少し恥ずかしかった。見知らぬ老人に、何を話しているのだろう。しかしマスターの顔に、驚きも困惑もなかった。ただ静かに、グラスを拭いていた。
しばらくして、マスターは言った。
「穴の空いたバケツに、水を注ぎ続けているようなものですね」
ほのかは黙っていた。
「塞がないと、溜まらないものですよ」
「塞ぐって、どうやって」
マスターは少し間を置いた。
「相手のことを、思うことですよ」
「相手を、ですか」
「ええ。今夜、相手のことを考えましたか」
なかった。正直に言えば、なかった。顔が好みかどうか、誘ってもらえるかどうか。考えていたのはそればかりで、彼のことを人として知ろうとしたことが、今夜一度もなかった。
「……なかったですね」
「そうですか」
それだけだった。責めなかった。ただ、そうですか、と言って、またグラスを拭いた。
その静けさが、長い説教より、ずっと胸に残った。
カップを、静かに置いた。中身は、もう残っていなかった。
財布を出すと、マスターは手で制した。
「また、いらしてください」
それだけだった。説教もなかった。続きもなかった。ただ、また来い、と言った。その一言が、妙に温かかった。
立ち上がって、扉を押した。ドアベルが、小さく鳴った。来たときと同じ音だった。
十月の夜風が、頬を撫でた。
スマートフォンを取り出した。アプリの通知が、三件来ていた。少し、見つめた。
今夜の彼のことを、どれだけ知っているだろう、とふと思った。顔は覚えている。声も覚えている。でも、それだけだった。彼が何を好きで、何に笑うのか。何ひとつ、知らなかった。知ろうとしなかった。
アプリを消そう、と思った。
画面を長押しした。アイコンが、小刻みに震えた。削除ボタンが、出た。
指が、止まった。
寂しかった。今夜、マスターと話して、少し何かがわかった気がしていた。穴の話も、相手を思うことも、ちゃんと胸に届いていた。届いていたのに、指が動かなかった。
あと少しだけ、と思った。
あと少しだけ、という言葉の曖昧さを、自分でもよく知っていた。あと少しが、ずっと続いてきた。今夜だってそうだ。わかっていて、それでも、あと少しだけ。
通知のひとつを、開いた。知らない名前だった。プロフィールを、少し見た。悪くなかった。悪くない、と思っている自分に、少し笑えた。さっきまで何を考えていたのだろう。しかし笑えても、指は動いた。
「ほのかです」
送信した。
人間というのは、そう簡単には変わらないらしい。頭でわかっていることと、身体が動くことは、別のことだ。今夜それを、またひとつ、覚えた。
十月の夜は、まだ長かった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
今回は、ほのかの「寂しさ」と「依存しきれない理性」のあいだを描いてみました。
マスターの言葉で少し救われたように見えても、人はその場ですぐ綺麗に変われるわけではない。むしろ、わかっていてもまた同じ行動をしてしまうことの方が自然なのかもしれません。
ラストで彼女はまた通知を開いてしまいます。
でもそれは、成長していないというより、変わろうとする途中にいる姿だと思っています。
頭で理解することと、心や身体が追いつくことは、きっと別の話なので。
新生活の影響で少し投稿が遅くなってしまい、申し訳ありません。
今月からはまた毎週更新を目標に頑張っていこうと思っていますので、これからも見守っていただけたら嬉しいです。




