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冷たい校舎の階段を駆け上がる。
窓のない屋上へ向かう階段は暗くて足元がおぼつかない。
淡々と反響する自分の足音が次第に途切れ途切れになっているのが解った。それは疲れからではなく、躊躇いからだということも直ぐに解った。これで全部終わった。紗季の願いは叶った。屋上の扉は開いて、あの日の夜に繋がる。けれどそれはつまり、紗季の最期の瞬間に帰るということだ。そう考えるだけで気が狂ってしまいそうだった。
足が竦む。
屋上へ続く踊り場はもう目の前だ。だというのに次の一歩が踏み出せない。だってそうだろ。もしあの扉を開いてしまったら、それで正真正銘のおしまいだ。紗季が本当に二度と戻ってこなくなる。紗季の死という結末が確定されてしまう。ここが十年彗星の作り出した世界なら、ここで何とかして、紗季を救う方法を考えた方がいいんじゃないのか。
有り得ない現実逃避に自然と笑いが出た。
馬鹿げてる。
そんなこと、不可能だって解ってるのに。
「なら……どうすればいいんだよ……ちくしょう……ッ!」
今まで一直線にここまで来た。それが紗季の願いだからと言い聞かせて。
だが実際、目前になってどうだろう。俺の中には煩悶しかない。絶望に向かって自分から走り出して、いざゴールテープを前にして立ち尽くしているのだ。なんて、滑稽。こんなとき、紗季ならどうするだろう。嗚呼、まただ。また、そうやって紗季に頼ろうとする。俺は最後まで、紗季に憧れていただけなんだ。憧憬は何も生まない。憧れ続ける限り追い付けない。知っていたんだ。俺は紗季みたいに強くないから。悲しい結末を受け入れるなんて――
「ごちゃごちゃ考えてんじゃないわよ、このバカ」
ばしーん、と背中を叩かれる。
「おまえ……友?」
「何やってんのよこんなところで。あんた、自分がここで立ち止まっていいと思ってるの?」
友の声は聞こえていた。
けれどその姿はどこにも見当たらない。今さっき、確かに背中を叩かれたのに。
「あんたがどれだけの思いを犠牲にしてここまで来たか、解ってるでしょ? どれだけの願いを背負って、あの場所に行かなきゃならないか、解ってないわけないでしょ? ――だったら立ち止まるな。ほら早くしろ! 紘井律が昔のままじゃ、強くならなきゃ、双色紗季の願いは、何も叶えられてなんていないんだから」
「待てよ。友! おまえそれどういう意味だよ!? って、うわっ」
ぐい、と背中を押される振り返れば少女の姿が見られただろうか。
一段、また一段と階段を昇る。あっという間に昇降口の扉の前。
最後に振り返る。思った通り、そこには誰もいない。夕凪友というこの世界にだけいた幼馴染みの姿はいくら探しても見つからない。ここで、何度も俺を手助けしてくれた小さな姿は。
「また……おまえに助けられたな」
友に言われた通りだ。
俺はここで立ち止まっちゃいけない。
迷いはなくなった。そうして、冷たい鉄の扉を開く。
視界を埋め尽くしたのは、いつか夢で見た白い雪の世界だった。
空には尾を引いて流れる彗星。
そして、風に流されるように少女の体が崩れる瞬間を見た。
「――紗季……!」
寒空の下で倒れる少女に駆け寄る。抱き起すとその冷たさに涙が出そうになった。服越しに紗季の感触が伝わる。間違いなく生身の人間の、同い年の少女の体だ。なのに体温がまるで感じられない。琥珀色の瞳も今は瞼の裏に隠れていた。
それは、俺が最後に見た光景とまるで同じだった。
星が見たいと言った病気の幼馴染みを屋上まで連れてきた、あの夜と寸分も違わない。
「おい、紗季! しっかりしろよ! 紗季ッ!」
体を揺すって必死に呼びかける。陶磁器のように白い顔からは生気が感じられない。静かに寝息も立てず眠っているみたいだ。
乱暴に体を揺らす。顔を近づけて大声を出す。今すぐに紗季に文句を言われたかった。何事もなかったみたいに目を開けてくれることを祈った。だって、そうだろ。これだと本当に何も変わってない。過程は確かに変わったかもしれない。けれど、そんなことに何の意味があるんだ。
やっとここまで来たんだ。
紗季が助からなくちゃ嘘だろ?
心のどこかでそんな甘い結末を期待していた。
十年彗星なんてお伽話を信じた時点で常識なんて忘れていたのかもしれない。
「律……。なんで、泣いてるの?」
そっ、と白い指が頬に触れる。
「紗……季……?」
薄っすらと眠たそうに少女は半分だけ瞼を開いた。
その瞳を見るのが何十年ぶりにも感じる。
「ごめんね、律。……わたしの、わがままに付き合わせて」
「そんな、こと……だって、おまえは」
おまえは俺を救ってくれたじゃないか。
俺はそんな強さに憧れて真似をしていただけだ。
「わたしね、夢を見てたんだ……。あはは……律は頑張ってわたしのこと、ここまで……連れてきてくれたのに、ね。律の背中で、かな。……それとも、ここにきてからかな」
ぱさり、と紗季の手が落ちる。もう腕を上げている力も残っていない様子だ。俺はコンクリートに投げ出される少女の手を拾って握り締める。氷みたいに冷たい。この小さな手に何度助けられただろう。
「一瞬……だったけど、すごく、長い夢だった」
「……どんな、夢だったんだ?」
「律が……わたしの為に頑張ってくれる夢」
言われて、もう自分の内から出てくるものを抑えきれなくなった。嗚咽を殺すことも出来ない。この寒いのに目から溢れるそれは熱い。
「わたし、ね。凄く心配だったんだ……。みんながね、凄く、心配だった」
目を開けることすら満足にできていないのに、その少女はとても幸せそうに笑った。
「爽架は……ああ見えてすっごい弱点があるから。昔みたいにいじめられたりしないかな、て。遊季は……すっごくお姉ちゃんっ子だったから、一人で大丈夫かな、て。……渚は、プライドが高いから、きっと一人で何もかも抱え込もうとするけれど……律と、喧嘩したりしないかな、て。夢の中で、律はその全部の心配を消してくれたんだ……。爽架のことを助けてくれた。迷子だった遊季を導いてくれた。渚とは喧嘩したけど、仲直りしてくれた。……ほんとうに、強くなったんだね……律」
「紗季、俺は……」
「嬉しいなあ……」
「え……?」
「一番心配だったんだよ、律のこと。……でも、一番心配なんていらなかったんだね」
そんなことない、俺はただ真似しただけなんだ。
ずっと憧れてきた少女が、自分にしてくれたことを。
「安心した。……強くなったんだね、律」
強く優しく微笑んで。その顔が、ある少年が憧れた少女の表情を湛える。
「初めて会ったとき……律は、凄く歪だった。触れてしまったら、壊れてしまいそうなくらい。脆くて弱いのに……意地っ張りで、強がりで……。道も解らないのに先走るような男の子だった。一人で……どこかに行ってしまおうとするばかりで、先を急ぐばかりで……」
だから色んなことに躓いて、ぶつかって。
でも今は、それでいいんだよ。
涙に濡れた笑顔が言う。
「立ち止まらないで。躓くこともあると思うけど……転んでも、隣にはみんながいるから。爽架も渚も、遊季もいるよ。迷わなくてもいいから、前に進んで。みんな――真っ直ぐなあなたが好きだから」
少女の頬を濡らすのは、果たして俺の涙なのか、紗季の涙なのかはもう解らない。
夢の中にいるようだと思った。それぐらい、その笑顔は綺麗だったから。語る琥珀色はやはり彼女の色。眩しくて憧れた輝きはその瞬間、確かに。
もう二度と、その顔を見ることはないと思っていた。十年彗星なんてお伽話を信じていながら、それでも、結末は変えられないのだと否定したくても受け入れてしまっていたから。叶うはずのなかった光景を目の前にして、どこか自分の中にあった何かが弾ける。
思い出す、最後の光景。
紗季が最後に伝えようとしてくれた言葉。白い景色の中で少女が呟いた願い――
「優し過ぎるあなたが壊れてしまわないように、辛いときはここにいるから思い出して」
――それが形になる。
「――――忘れないで」
堪らず紗季の体を抱き寄せる。
「忘れないで。わたしがここにいたこと。わたしが、律を好きだったこと。ずっと覚えていて」
紗季の言葉があんまりにも綺麗で鮮やかだったから、もう本当にこれで終わってしまうのだと理解してしまった。こんなことは悪足掻きでしかないのも解っていた。離してしまえば、俺はその瞬間に最愛の少女を失うのだと思った。
「……俺だって、おまえが好きだよ、紗季」
だから、逝かないでくれ、そんな風に続けようとして言葉が出ない。
吐き出したい思いはいくらでもあるのに、全部嗚咽に紛れて消えていく。
なんで、こんな状況になってまで他人の心配をするんだよ。
俺はちっとも強くなってなんていない。
また、大切な人を失って、生きていく自信がない。
絵だってまだ完成していないじゃないか。
ちゃんと、俺たち五人が揃った絵じゃないと意味なんてないだろ?
「ありがとう律。わたしは、みんなのおかげで、幸せでした……」
だから。
「もう……これで終わっても……いいかなって……」
腕の中にいる少女から力が抜けた。
突然、抱えていた体が重くなる。
正真正銘、それは紗季が終わりを受け入れたということで、その事実が何よりも重かった。どうすることもできないと、目の前の少女を見て思う。紗季は眠そうに重たい瞼をゆっくりと閉じる。実際には、それは一瞬だっただろう。だが俺には彼女の最期があまりに長く感じられた。琥珀色の光が消える寸前、どうすることも出来なかった俺は、悪足掻きするようにただ、彼女の名前を呼んだ――。
「――」
それが無駄なことだとは知っていたけれど。
「さ、」
「紗季――!」
不意に少女の名を叫ぶ声が重なった。
「え……」
紗季がぐったりとしながら呟く。
「渚……?」
「おい紗季! しっかりしろ! 律、何してんだ早く紗季を病院に連れてくぞ!」
「九ノ、瀬?」
どうして九ノ瀬がここにいるのか。
呆けていると今度はぐい、と脇の下から誰かに持ち上げられる。九ノ瀬の顔があるのと逆側を見ると、ポニーテールの幼馴染みが俺の肩を担ぐようにして立ち上がった。蒼爽架だ。
「さっさと立て、律。なにを情けない顔をしている」
「蒼……おまえも……」
となると、二人だけではない。
双色遊季は、今は九ノ瀬に支えられた紗季の隣にいた。病院で紗季の替え玉をしていたはずが、どうしてこんなところにいるのだろう。そんな疑問が浮かんだが、今はどうでもよかった。
「遊季……?」
「お姉ちゃん……っ! 嫌だよ、お姉ちゃん!」
「お、おい遊季! 落ち着け、とりあえず紗季を離せ!」
「だってぇ……だって、渚ぁ……」
遠く二人のやり取りを眺めていると、急に蒼の支えがなくなる。ぐらりと傾いた体をどうにかふんばって立たせると、俺は抗議の視線を蒼に送った。
「しゃきっとしろ、律。おまえまで泣き出したら、さすがに誰もあやしてやれんぞ」
「蒼……おまえなんで、なんでおまえたち……」
「知らん。でも、解ることもある。ここは紗季の願いが叶う場所だろ?」
それだけ言って蒼は腕を組む。背中に垂らした髪を振って、紗季へと視線を移した。
ここは彼女の願いが叶う場所。俺は過ぎていく彗星を一度だけ見上げ、万感の思いを込めて双色紗季を見つめた。一度消えかけた琥珀色の瞳はまだ驚愕に見開かれたままだ。遊季が紗季の服を引っ張るせいで、九ノ瀬はなかなか紗季を背負えない。二人のやり取りを、まるで夢でも見るような目で紗季は見ていた。
「紗季……星に願え。ここは……おまえの願いが叶う場所なんだ」
誰よりも優しかった彼女は星を前にして最期まで優しかった。
お伽話に他人の幸せを願うような、そんな優しさだ。
だからもう一度。最後くらい、わがままを望めばいい。
誰も何も言わなかった。泣き喚く遊季も黙っていた。そして全員が紗季を見つめ、紗季は一人一人の視線を確かめるように首を振る。きっと、それぞれに違った思いがあって、紗季はそれを確かに感じたのだろう。生気の消えかけていた紗季が困ったように笑った。
「もう……なんで、かな。わたし……満たされてたはずなのに……十分、幸せだったのに……」
ぐすりと鼻を鳴らす。大人びた紗季に似つかわしくない子供染みた仕草だった。
「嫌、だな……わたし、死にたくないなぁ。
もっと生きていたいなぁ……。みんなといっしょにいたいなぁ――」
涙声が彗星に願いを告げて、静かに消えた。




