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お久しぶりです!
少し長いですが…分割すると少ない気がしたんでそのまま投下しました(笑
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その日、地方新聞の一面をある記事が独占した。
十年彗星が今夜到来することを報せたその記事はまさしく、世界のタイムリミットと言えた。
「タイミングが良すぎやしないか?」
俺は隣の席の友に皮肉交じりにそう言う。
「気になるんだが、これはもともと決まっていたことなのか、それとも昨日のことがあったからこうなったのか、どっちなんだ?」
「さあね。知らないわよそんなこと。あたしにだって解らないことはあるの」
友は不機嫌だ。朝からこの調子で何を聞いてもまともに答えてくれやしない。
「それで、どうするつもりなの?」
「なにがだよ」
「遊季と、渚のことよ。あんた、今日の夜までに二人をどうにかしなきゃならないんでしょ?」
「どうにか出来なかったらどうなるんだ? この可笑しな世界がこのまま続いて行くのか?」
質問に質問で返すのはマナー違反だが、それも気になるので一応聞いておく。友の返事は当然「知らない」だ。友曰く、自分は世界というよりも紗季の意思の延長で、その辺の仕組みは解らないそうだ。都合のいいゲームの解説役みたいだな。
などと考えていると友の表情はみるみる険しくなっていく。どうやら俺が質問をはぐらかしたと思っているらしい。そんな意図はなかったのだが、このまま友の怒りを爆発させてしまうのはよくないと思い、俺は若干急ぎ気味で先の質問に答えた。
「……遊季は今、自分を見失いかけてる」
というよりも完全に自分を抹消しようとしているという方が正しいのかもしれない。
昔からそうだった。遊季は紗季の真似をすることが多かった。だが今にして思えば遊季はそうすることで自分を知覚していたのかもしれない。紗季と遊季は反面同士の合わせ鏡。それ故に互いがそれぞれの唯一無二となるアイデンティティーだったのだ。
紗季がいなくなれば、そんな風に紗季に依存していた遊季は自分を見失ってしまう。そうならないように、遊季にはっきりと双色遊季を自覚させることが解決策だろう。その為にはここにある双色遊季という存在を自分自身の中で確立させてやる必要がある。
予鈴までの時間を気にして時計を見遣る。時間に厳しい担任教師のことだからきっちり後一分で教室に入ってくるだろう。タイムリミットは始まっているというのに、俺はこんな呑気にホームルームの始まりを待っていていいのかとも思ったが、この後の行動は大体シュミレーション出来ているので不思議と焦りはなかった。問題はそこにそれがあるかどうかである。
「あんたさ」
「なんだよ」
頬杖をつきながら友は顰め面だ。
「……別に、なんでもない」
「なんだ、それ」
始業の鐘が鳴った。俺の見立て通り、まだチャイムが鳴り終えてもいないのに教室の扉が開く。散らばっていた連中も慣れた感じで自席に戻って行った。友はそれから何も言わなかった。ただ黙って頬杖をつき黒板を眺める横顔は、とうとう最後までこちらを向くことがなかった。
そして恙なく午前の授業は終了する。俺は早々とノート教科書各種を机の中に押し込み、行動を開始した。向かう先は決まっている。遊季をどうにかするのにどうしても必要なものを取りにいかなくてはならない。一目散に教室を出、階段を下り、校舎を移動。再び階段を昇って最上階へ。五分も経たない内に俺は屋上前の踊り場に辿り着く。
鉄扉は外気に冷やされ、長い間触れていると手が痛くなりそうだ。慣れた要領でその扉を解放する――つもりだった。が、開かない。鍵なら開けたはずである。にもかかわらず扉はびくともしない。押してもだめなら引いてみな、というが、前後左右とあらゆる方法を試みたが反応なし。どういうことだ。この数日でこの扉は閉め切りに改造されたのだろうか。
無駄と感じていながら何度も同じ行動を繰り返す俺の姿はさぞ滑稽だっただろう。背中にはこの寒いのに汗まで滲んでいる。吐く息が熱を帯び始めた頃に俺は背後からの声を聞いた。
「無駄よ。それ、もう開かないから」
振り返ると、夕凪友の姿が暗闇に浮かび上がった。今朝どうするつもりかと聞かれて、解答した覚えはないのだが、予想だけでここがばれたらしい。そんなことよりも看過できない発言があった。開かない、とはどういうことだ?
「そのままの意味よ。もうその扉は開かない。そこから先は、元の世界だから」
「……元の、世界?」
瞬間、俺は脊椎反射で振り返った。それから我武者羅に扉を開けようと強引に押したり引いたりを繰り返し、最後には殴ったり蹴ったりと自棄を起こす。鉄を叩く音が暗闇に何度も響いた。それでもやはり扉はびくともせず、ただ静かに、そこに佇んで道を塞いでいる。
「だから……無駄だってば」
「無駄だろうと……この向こうで、紗季が――!」
寒さに凍えている。もしかしたら、もう――そう思うと体は勝手に動く。既に何度試したかも解らない無駄な作業を延々繰り返すだけの機械に成り果てる。止めたのは友だった。振り上げた拳を両手で握り、必死に俺の動きを止めている。
「何をしても無駄! この扉は、紗季の願いが叶うまでもう開かない! それにもし開いても意味なんてない。また、最後の瞬間に立ち会うだけでしょ」
「だとしてもッ……! 俺は――」
俺は――。
どうしたいのだろう。
行って、どうするんだ。
紗季を救うことなんて、もう、きっと――
「紗季の願いを叶えて上げて。そうすれば、結末は変わらなくても、過程が変われば、きっとその意味は違ってくるはずだから」
体から力が抜けるのが解った。
そうだ。今この冷たい扉を越えたとしても、そこにあるのは無情な白い終わりの景色だけ。何にも変わらない。紗季が最後に望んだ、ただ一つの願いを置き去りにしてそこに帰るだけ。そんなことに意味なんてない。
嗚呼。声にならない嗚咽が喉の隙間に詰まる。
俺は本当に無力だ。紗季のようにはなれない。一人ぼっちだった俺を救ってくれた紗季のように、今、扉の向こうで一人に凍える少女一人、救うことができない。押し寄せてくる絶望は自己への非難となって渦を巻く。
けれど、例え救うことが出来なくとも。その願いを叶えてやることは出来る。
この世界はその為にあるのだから。
「そうだな……」
最初から解っていたことなのに、今更そんなことに打ちひしがれるのも可笑しな話だ。
「ありがとう、友。お蔭で心が折れずに済んだ」
「どう致しまして。あんたが単純でよかったわ」
「そうだな」
「で、どうするつもりなのよ? あんた、屋上に何か用があったんじゃないの?」
差し当たっての問題は確かに友の言う通りだ。
問題解決に必要なものは屋上にあるはずだと確信していた俺にとって、この事態は非常に不味い。冷静になって考えてみれば状況はかなり悪い方向に進展していた。こうなってしまうと、もう遊季をどうにかする手立てが見つからないのだ。
可能性があるとすれば……そう、美術室だ。しかしこれはかなり可能性が低い。とはいえ宝くじは買わなければ当たらないのだ。だったら可能性はとにかく潰さないと。
直ぐに踵を返す。友の脇を通り過ぎて階段を下りる。一段目に踏み出したところで、俺は不意に脚を止めた。
「なあ、友。おまえはどうなるんだ?」
「なんのこと?」
「この世界が終ったら……。紗季の願いが叶ったら、おまえはどうなるんだ?」
「……」
友は答えなかった。
答えは聞くまでもないだろう。そこにいる、幼馴染みの姿が言葉よりも雄弁に語っていた。図書館で友が調べていたこと。十年彗星について。自分が星の意思だと、紗季の願いの形だと知って、少女がどう思ったのか。当然すんなりと受け入れることができたはずがない。質問を口にしてから、それの残酷さを思い知る。
「ねえ、もしあたしが頼んだら、あんたはあたしの為にこの世界を永遠にしてくれる?」
可能、不可能の話ではない。友がしているのは、決して叶わぬお伽話だ。誰かの空想だ。
自分でも驚くほどに、俺はその質問にあっさりと回答できた。
「俺は、紗季の願いを叶えるよ。きっと」
目の前の少女よりも優先して。
気休め程度の空想さえ、口にせず、そう、真っ直ぐに告げた。
「そうね」
夕凪の少女は薄く儚く笑う。
いつかの少女の面影をほんのりと乗せて。
「それが、あんたにとって正解だと思う」
昼休みも残り僅かだ。部室棟こと旧棟に向かう途中、逆に授業教室のある新棟に戻る生徒の群と擦れ違った。心配なことがあるとしたら目的の旧美術室に、まだ部員が残っているかどうかということである。勢いで飛び出してきた部分が大きいためにその辺りの計画性は皆無だ。
果たして俺の不安は払拭された。部室には数人の女子部員が残っていた。
ノックもなしに扉を開いた俺に驚いた眼を向ける部員たち。どうやら一年生らしい。好奇の中に少し怯えが見えるのは先日、俺が九ノ瀬の付き添いとしてやってきた際のことを覚えているのだろう。しかしこう注目されたのでは行動しにくい。下級生とはいえ正式な部員の前で部室を物色するのも気が引ける。
さてどう言い訳したものかと考えていると、やや髪の明るい女子が声を掛けてきた。
聞けば、どうやら彼女はまだ部室に残っている自分たちを俺(生徒会の人間だと思われている)が注意しに来たのだと思っているみたいだ。ならそれを利用させてもらおう。俺は部室に少し用があること、戸締りは請け負っておくから鍵を渡して退室するようにということを彼女たちに伝える。
割りとあっさり、部室の人払いは完了した。
「さて、と」
状況が整ったとはいえ、探しているものの当てがない。
美術部は旧美術室をまるまる部室として使用している訳だが、私物用のロッカーなどは設備していない。絵具その他の必要なものは毎日持参しているみたいだ。あると言えばあちこちに転々としているキャンパスくらいのものである。
そこで俺はふと、窓際に目を向けた。
前回ここを訪れた時にも同じ場所にあったそれは、紗季の話題が出た時に部長さんが流し見たものだ。ということはあれは紗季のものだろう。あるいは、遊季の。この間は白紙だった。今は布が掛けられていて確認できない。普通に考えれば、今もなお白紙だろう。だがこの世界は既に普通ではない。
予感があった。根拠なんて何もないけれど。それが事態を好転させる鍵になるものだという予感が。
――既に手遅れではあるが、一応駆け足で教室に戻る。
旧校舎を出たところで思わぬ人物と出くわした。
とっくに授業が始まっている時間帯にも関わらず、生徒会長九ノ瀬渚は、まるで俺を待ち伏せでもしていたみたいにそこにいた。
「授業中だろ。こんなところで何してるんだよ、生徒会長」
皮肉を込めて俺が言うと、
「そいつはおまえも同じだろ。それに、屋上は立ち入り禁止だ。知ってるだろ?」
なるほど。全部お見通し、というより初めから観察されていたのか。
「どうするつもりだ?」
訊いたのは九ノ瀬だ。
どうするつもり、とは何だろう。
この世界についてか? それとも、九ノ瀬渚という人物についてだろうか。
「解ってるだろ。俺は、紗季の願いを叶えてやりたい」
「だったら――」
「だからこそ、だよ」
きっとこれ以上話していても意味はないだろう。そう結論付けて俺は九ノ瀬の脇を擦り抜けて新棟へ向かう。長身を横切る瞬間、九ノ瀬が小さく呟くのが聞こえた。
「……逃げてただけなんだよ、俺も、おまえも」
不意に脚を止めそうになったが、刹那の逡巡が行動を停止させることはなかった。
一目散に目指したのは自分の教室ではなく、遊季の教室だった。今更もう真面目に授業を受ける必要なんてない。だったら目的を遂行することを急ぐのは当然だと言える。どうせ後数時間もすればこのマヤカシの世界は終わるのだ。そう考えると色々と無茶が出来た。廊下は走らない、なんてことは当然無視して全力疾走するし、下靴を履きかえることもしない。
遊季の教室に辿り着く。俺は扉を思いっきり開いて室内を見渡した。まだクラスは呆気に取られ、教師も何も言わない。黒板がちらりと視界に入り、どうやら数学の授業らしいことが解ったがどうでもよかった。俺はざわめき始める教室の中に空席を一つ発見した。
――休みだ。
昨日も学校に来ていないのだ、そう考えるのが自然だろう。もし登校していたとしたら、今の俺なら一瞬で見つけられただろう。もう体が反射だけで動いているのではないかとさえ思えた。俺は稲妻めいた速さで踵を返す。背中に降りかかる「おい、君!」という教師の叫びを後ろ手に閉める扉でシャットアウト。直ぐに校舎の外へ飛び出す。
走りながら片手で携帯を操作し、双色遊季に呼び出しを掛ける。念の為、双色紗季の方の番号にも掛けてみた。だがどちらも応答はない。しかしそんなことはどうだっていい。元より期待していた訳ではないのだ。電話に出なくても家まで直接行って、引っ張り出してやればいいのだ。
昼過ぎの校舎は静かだ。当然だろう。今はどの教室でも授業が行われている。
自分の足音だけがやかましい。その音が、自分でも驚くぐらいにぴたりと止んだ。ちょうど校門の前。十二月の真冬だというのに背中と額に汗をかいていた。それを拭うのも忘れて、俺は自分の前に現れた人物の姿を凝視する。
双色――
「遊季……。おまえ、なにして……」
言葉が上手く続かない。息が上がっていたからだろう。それに、そこに遊季の姿があるという事実が信じられなかったからだ。時刻は昼間の二時過ぎ。体調不良で午前中は病院に行っていました――なんて、この世界で、遊季が口にする理由としては有り得ない。こんなタイミングで登校してくる理由があるとしたら、それは――
「律……? どうしたの? 授業中でしょ?」
「それは俺の台詞だ。なんでこんな時間に登校してきたんだ」
いや、そんなことはどうだっていい。
「え――ちょ、ちょっと律!?」
遊季が戸惑うのを無視して俺は手首を掴む。
「なに――離してよ! わたし、行かなきゃいけないところが――」
「いいから! 黙ってついてこい!」
遊季はまた、自分のことを「わたし」と言った。それはこいつがまだ自分を紗季だと主張しているということだ。紗季に代わろうという意志が揺らいでいないということの証明だ。走り出しながら、俺はそんなことを遠く思考した。
「なんで……どこ行くつもりなの? わたし、律がなにを言っても」
「うるさい!」
抵抗する遊季を引っ張っていくのはなかなかに骨が折れた。だがそれでも何とか目的の場所に辿り着く。さっき飛び出した旧棟美術室だ。ここまで来て遊季の顔色が変わる。道中では抗議に必死だった為俺の意図なんて全く考えていなかったのだろう。
「ここ……美術室?」
「入るぞ」
扉の鍵はどうせ戻ってくるつもりだったから閉めていない。俺は遊季の手首を掴んだまま扉を開け部屋に入る。美術室に脚を踏み入れると、遊季の手首を解放した。念の為に横目で確認する。遊季に逃げようとする様子はなかった。俺は窓際にぽつりと立つキャンパスに歩み寄る。
「どういうつもりなの、律? こんなところに連れてきて」
責めるような遊季の声。走って来たから呼吸が乱れている。
「もう、律が何を言ったって変わらないよ? わたしは、双色紗季なの」
「何度だって言ってやるよ。おまえは紗季じゃない。紗季が望んだのは、そんなことじゃない」
「だから、もう律が何を言っても無駄なの――!」
「だとしても。俺の言葉が届かなくても、紗季の思いは、きっと、おまえに届くはずだから」
キャンパスを隠す布を取り払う。
先日まで真っ白だったそこには、丁寧に色まで塗られた一枚の絵が描かれていた。
「なに……これ」
「紗季の描いた絵だよ」
正確には紗季の描きたかった絵だ。
遊季は呆然とキャンパスを眺めてた。まるで幽霊でも見るような目で、じっと。改めて俺もその絵の全容を俯瞰する。地平線の向こうに消えていく夕日と街の一望を背にして、そこには四人の笑顔が描かれていた。九ノ瀬、蒼、俺と、そしてサイドテールの誰かの姿。瞳の色は群青。その姿が誰のものだったかなんて考えるまでもない。
九ノ瀬はおどけて俺と肩を組んでいた。顔を近づけてくる九ノ瀬を俺は鬱陶しそうに肘で押し返していて、蒼は仏頂面で腕を組み、一歩引いた位置からそれを眺めている。そして紺碧の瞳をしたその誰かは呆れたように笑って、俺の袖を掴んでいた。
はぐれてしまわないように、迷子にならないように。その姿は紛れもなく、俺の知っているある少年の姿だった。
「でも……これ。ここには……」
ふらふらとキャンパスに歩み寄り、絵に触れながら遊季が呟く。
遊季の言わんとすることはすぐに察しがついた。これを一目見た時に俺が感じたことと同じだ。ここには一人足りない。そこにいなければならない人物の姿がどこにもないのだ。だが考えてみれば当然かもしれない。その一人は、この絵を描いた張本人なのだから。
「ここには、紗季がいない」
俺は言った。
「ここに描かれているのは遊季だ。紗季が、ここにいて欲しいと願ったのは遊季なんだ」
「違う。そんなの、間違ってる」
「間違いなんかじゃない」
「ぼ……双色遊季は十年前に死んだから」
「だったらここにいるのは誰なんだ。この絵で笑ってるのは一体誰なんだよ」
「それは……」
遊季の困惑した表情に涙が浮かぶ。
どうしていいか解らない時、誰にも頼りようがない時、遊季はこんな風に戸惑う。おろおろと狼狽して、誰かを探すように視線を彷徨わせる。普段なら、そこに紗季がいるけれど、もう、そこに少年の憧れた姉の姿はない。だから自分で気付くしかない。……いや、認めるしかないのだ。
紗季の夢はみんな知っている。
みんなの絵が描きたい。この街が、一番綺麗に見える場所で。
彼女が語るみんなに遊季が含まれていないはずなんてない。この絵の否定は紗季の夢の否定だ。遊季にもそれは解っている。俺の言葉が届かなくても、紗季の思いは必ず届くはずだと信じた。その結果がこれだ。結局、この場はまた紗季に救われた形になるが。
「遊季、もういいだろ。紗季が言いたかったのは、そんな願いじゃないんだ。あいつが星に願ったのはそんなことじゃなくて」
「でも、僕は……お姉ちゃんに助けられてばっかりで。一人じゃ何もできないから。お姉ちゃんがいないなら僕は……」
――何もできない。
遊季の涙声が自己を否定する。
そして、
「紗季――――ッ!」
開けっ放しの扉の外から叫び声が侵入する。
俺は声だけでそれが誰であるかを理解した。確認するまでもない。長身のそいつはいつからそこにいたのか、随分険しい顔でこちらを見つめていた。というよりも、遊季を、だ。
「渚……?」
遊季は呆気に取られ頬に涙を流しながら突然の闖入者を眺める。
だが俺は遊季のようにぼんやりはしてはいられなかった。九ノ瀬がまた遊季を紗季だと呼んだ、その事実だけが理性を沸騰させ、激情に駆られてしまう。直ぐに駆けだして殴りかかってやろうとさえ思ったくらいだ。
「九ノ瀬、おまえまだ……!」
だがそれを阻まれる。ぐっ、と力強く、遊季が俺の腕を掴む。驚いて目を合わせると遊季は、まだ涙も止まらないその瞳で強く語りかけてきた。待って、律。その雄弁な視線と意志の強さは紛れもなく、俺の知る双色紗季そのもので、どうにも無視できない。俺は遊季のものとは思えない眼光に制され、結局、その場を動くことができなかった。
「どうしたの? 渚」
遊季の口調は定まっている。
絵を見てぶれていたその人物の芯が固まる。
「おまえに言いたいことがあるんだ。聞いてくれるか?」
あるいはそれを、茶番と呼ぶものもあるかもしれない。
大それた三文芝居だと罵られて当然だとさえ思う。
けれどそれを演じる二人は至って真剣で一方は自らの過去を清算しようと真摯に虚構と向かい合い、一方は自らの意義を求めるためにその虚構を演じた。
「俺は……九ノ瀬渚は、ずっと――ずっと、双色紗季が好きだった!」
九ノ瀬の告白が教室に響く。
長身が俺に向き直る。紗季への告白に続いて、九ノ瀬は俺に続けた。
「でも、俺は……俺の思いは、きっと届かないって思ってた。だから逃げた。勝ち目がなかったから。目を逸らしてただけなんだ。正直に言うと、律が羨ましかった。俺が一生手に入れることの出来ないものを、おまえは……当たり前みたいに持っていたから」
その思いをどうして否定できるだろう。
俺は、こんな状況に陥ってやっと自分の紗季を思う気持ちに気が付いた。失う寸前になってやっと。そんな俺をずっと近くで見ていた九ノ瀬の心中は計り知れない。恨まれていても当然だ。
「俺は……自分のことばっかりだ。律や、紗季との関係を失いたくなくて。その為に自分を騙したのに、結局、思いは捨てきれなかった」
だから。
「もう、逃げるのは止める。
俺は、双色紗季が好きだから。他に、何を失ったって構わない」
九ノ瀬は言った。
その言葉を目の前のある少女の面影に向かって。
そしてその言葉を受けた髪の長い後ろ姿が、静かに九ノ瀬を抱きしめた。
「うん。知ってたよ、渚。ごめんね。だけど応えられない。
わたしが好きなのは、律だから。渚の気持ちには応えられないんだ」
優しい口調がとても残酷な言葉を紡ぐ。
「ああ。……俺だって知ってたよ、そんなこと。……ありがとう遊季、俺に、答えをくれて」
双色遊季に抱き留められた九ノ瀬渚はそう溢すように呟いて、糸が切れた人形みたいに崩れ落ちた。俺はそうなってやっと拘束を解かれたように飛び出す。今、九ノ瀬がどんな心境かなんて考えるまでもない。俺を殺したいくらいに憎んでいるだろうか。否、九ノ瀬渚という男がそんなことを考えるはずがないと知っている。見れば、思った通り、九ノ瀬は満たされた笑顔を湛えながら、そして、遊季と同じように涙を頬に伝わせていた。
「付き合わせて悪かったな、俺のわがままに」
「九ノ瀬……俺は」
俺は、ではなく。
「俺も、紗季が好きだ」
「知ってるよ。ごめん、なんて言ったら、俺はおまえを許さない」
「俺だって、知ってるよ、それぐらい」
「行けよ、律」
涙の端を拭って、九ノ瀬がいつものように不敵に笑った。
「紗季が、おまえを待ってるだろ」




