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鈍痛が頬を打つ。
倒れ込んだ背中を受け止めたのはビニールのゴミ袋だった。
「おい渚」
蒼が直ぐに九ノ瀬の両腕を抑えて制止した。
遊季を置いたまま家を出、俺と蒼は九ノ瀬に先導されて近くの高架下に来ていた。到着の矢先、今の鉄拳である。俺は口の中に溜まった苦みを吐き出し、口元を袖で拭う。九ノ瀬の敵意は本物だ。それは、遊季の部屋で会った時から変わらない。心のどこかでは少しだけ、こうなることも予想は出来ていた。
「何のつもりだ、九ノ瀬」
「おまえが寝惚けてるみたいだからな。目を覚まさせてやろうと思ったんだよ」
「寝惚けてんのはどっちだよ」
俺は言った。背丈は九ノ瀬の方が上。だから俺あまり近くには寄らず、目線の高さをなるべく変えないようにして睨み返す。胸の奥のには今すぐにでも殴り返してやりたい衝動があった。だが頭の中は冷静で、そして冷ややかだ。
一つの仮説があった。
それは、実に漠然としたもので確証はなかったが、それが、さっき確かなものに変わった。
「九ノ瀬、おまえ、本当は解ってるんだろ。あれは紗季じゃない、遊季だ」
「まだそれを言うのか。いい加減にしろよ、おまえ」
「俺も蒼も、そして遊季にも同じ記憶があった。雪の屋上。十年彗星――この二つに覚えがあるはずだ。おまえだって気付いているはずなんだ、この世界の秘密に。俺たちだけがそれを知っていて、おまえがそれを知らないわけがない」
「……」
遊季の告白は、そのことを確信へと近づけた。あの日、紗季が星に願ったことを、九ノ瀬だけが知らないはずがないのだ。こいつは知っているから、遊季を紗季だなんて呼んだ。その願いを、叶えようとして。ここが紗季の望みを叶えるための世界だと本当は気付いていたから。
九ノ瀬は、少しの間黙り込む。それは返答に窮するというよりも、こちらの意を読もうとしているように思えた。だがやがて沈黙を破り、九ノ瀬があっさりとそれを認めた。
「だったら何だ」
「……おまえ」
「そんなことが、何だっていうんだよ。知っているからこそ、あいつは紗季なんだろ。――それが、あいつが最後に願った、たった一つの思いなんだよ」
「紗季が遊季を犠牲にしてまで生きていたいなんて願うか。それにあれは紗季じゃない。紗季の面影を背負っただけの遊季だ。そんなことは間違ってるだろ」
「間違いで構わないさ。それが紗季の願いであり、遊季の望みなんだ」
――遊季の――望―――み。
その言葉が遠く残響する。
抑えていた怒りが理性を決壊させて溢れ出すのが解った。今の言葉で完全に堰が切れた。
俺の異変に気付いた蒼は九ノ瀬を解放して直ぐに動いたが、それも遅い。意識や衝動よりも先に拳が飛び、無防備だった九ノ瀬に直撃する。長身が吹き飛び、仰向けに倒れる。クッションになるものがない分、倒れた衝撃はあちらの方が大きかっただろう。
俺は九ノ瀬に起き上がる間を与えず襟を掴む。野生の獣染みた眼光に睨まれながら、そんなことはまるで意に介さず捲し立てた。
「あれが、遊季の望みだと? 紗季への罪の意識と負い目で、自分を苦しめる今のあいつが、紗季の願いだと? ふざけるな。二人がそんなことを望むわけがない! それが遊季の望みなら、あいつはあんなに苦しそうな顔をしない! あいつは、自分が生き残ってしまったことに負い目を感じていたんだ。だから、紗季の願いを贖罪にしようとしてる。でも違うだろ! 紗季が望んだことは、忘れないってことはそんなことじゃ――――」
最後の言葉で舌を噛みそうになった。九ノ瀬が逆に、俺の胸倉を掴んで引き寄せたからだ。額に衝撃。脳が揺らぐ。視界がぐらぐら揺れて吐きそうだ。俺が怯んだ隙に九ノ瀬は馬乗りの姿勢を解除し、俺を突き飛ばして立ち上がった。
「ああ、そんなこと解ってるんだよ。解らないはずがないだろ。でも、どうしようもないだろ。これは、この世界は俺にとって――」
そこで九ノ瀬が言い淀む。必死の剣幕は何故がその次を続けようとしない。
躊躇っているのだと、直ぐに解った。続く言葉が言いづらいのだと直感した。それが、こいつの綻びで、自らを破綻させる思考なのだと理解する。だから、口に出来なかった。もはや子供染みた口喧嘩に罵りあいが発展しようとする中、俺は敵の傷口を見つけたようにそこに付け入った。
若干言葉を濁らせ、視線の泳いだ九ノ瀬の頬に拳を振るう。鈍い感触と共に俺は叫んだ。
「おまえにとって、なんだ――!?」
「…………ッ」
しかし不意をついても今度の一撃には身構えていたのか転倒まではせず持ちこたえる。言葉の続きは発しなかったが、九ノ瀬は姿勢を立て直して直ぐに反撃してきた。頬を打つ痛みに耐えながら俺は糾弾を止めなかった。
「遊季を苦しめることがおまえの何なんだよ!」
「……」
「あいつの存在を蔑ろにすることがどうだって言うんだ――!」
「……」
「答えろ九ノ瀬ッ! 紗季の願いも、想いも、遊季の存在も無碍にして――そうまでして、おまえはなにがしたいんだよ――――ッ!」
殴打のラッシュが止む。俺の右拳が深々と九ノ瀬の頬に突き刺さり、その体が今度こそ倒れた。
叫びながらひたすら殴り続けた俺は噴き出す汗にその時気付く。息が上がり、心拍が異常な早鐘を打つ。呼吸をすると喉や肺が痛い。大声がこれ以上でなさそうだ。手も血が滲んでいて痛む。一度止めてしまうと、次にもう一度それを振ることは出来ない気がした。
「……なん……だよ、俺にとっては」
視界が白く滲む。耳鳴りがうるさい。
その中で俺は、九ノ瀬のそんな声を聞いた。
傍にいた蒼がそれに気付く。そういえばこいつ、こんな近くにいたのか。俺たちを抑えようとしていたのだろうが、全く気が付かなかった。蒼は九ノ瀬の声色から何事かを感じ取ったのか、「止めろッ! 渚!」と叫んだが、今更、そんな制止は無意味だった。
起き上がった九ノ瀬が泣きそうな声で、けれど、これまでで一番強い声で言った。
「チャンスなんだよ。……俺にってはこれが、最後の」
「な、んだよ、それ」
口の中が切れているのか上手く話せない。
九ノ瀬はふらふらと酔っぱらいのように近づいて来る。その歩みは蒼が取り押さえるのを振り切り、俺を押し倒した。
「俺は……双色紗季が好きだった……!」
泣いているのか、と思った。
けれど、それは汗と、いつからか降り出していた雨だった。
「ずっとあいつが好きだった。けど、何も出来なかったんだ。……おまえに、おまえ達に気を使ったんじゃない。ただ、叶う気がしなかったんだ」
「何を、言ってるんだ、よ。おまえは……」
「紗季が好きになったのは、おまえだったから。俺には、絶対に手が届かないものだって、知ってたから――!」
そこにはもう、普段の優雅さも気丈さもまるで残っていなかった。
子供が駄々を捏ねるような、ただただ泣き言を溢すような惨めさと情けなさしかなく、くしゃくしゃの顔はけれど、どこまでも悲痛で悲壮だった。見るに堪えない。けれど目を背けられない。その言葉が硝子みたいに突き刺さる。これは、俺への糾弾の気がして。どうしてだろう。今までで一番自分勝手で、そんなことの為にこいつは、遊季を乏しめているのに――それを、否定できない自分がいた。
「あいつは、きっと気付いてたよ。だから余計に逃げた! 今の関係が壊れないように! 自分を囲うように自分を演じた。好きでもない女を好きになろうとして、それで、あいつを忘れようとした! だからこれは――」
頭が揺れる。さっきから九ノ瀬がこちらの襟を掴んで揺らしているからだ。為されるがまま、その叫びが鼓膜を揺らす。その意味は、理解したくないのに頭が勝手に理解した。
「俺にとってのチャンスなんだ。俺が、自分と向き合うための。……あいつの願いは、忘れないことだから……ッ」
「渚――!」
蒼の声が割って入る。不意に九ノ瀬の手から力が抜け、解放された俺は後頭部を地面にぶつけた。しかしそんな痛みを感じる余裕もなく、俺は、今まで見たことのない九ノ瀬渚の表情に言葉を失っていた。それは衝撃の告白というには、既に吹聴され過ぎていた。だがそれでも、他人から伝聞されるのと、本人の口からそれを聞かされるのとでは意味が違う。何よりも、こいつが、九ノ瀬がこんな顔をして話すものだから――
「もういいだろ。渚。それくらいにしておけ」
絶句というのはまさに今の俺の状態を指すのだろう。
何も考えられず、何も感じられない。
もしかしたら、罪悪感もあったのだろうか。
話すべき言葉は一つも出てこないが、思い出だけが走馬灯のように巡る。そう。例えば冷たい病室。彼は、彼女をどんな風に見ていたのだろう。例えば星の降る夜の下。彼は、どんな気持ちで彼に背を向けたのだろう。一人残ると言った、その心中を想像すると、遠くにいた痛みが全身を駆け抜けた。
「俺は……」
呟き、九ノ瀬が立ち上がる。
「……自分が間違っていることなんて、解ってる。だが、だからって正すつもりはない。もう、おまえたちからも、自分からも逃げたくないんだよ」
そう言って九ノ瀬は雨の中、傘も差さないで去って行った。
蒼は雨霧に消えようとする背中と、上半身を起こした俺とを忙しなく見比べている。遠ざかって行く一人の名前を何度も呼んで引き留めようとするが、止まる気配はまるでない。
「蒼。行ってやれ」
「しかし……」
「いいから。俺のことは一人にしてくれ。ちょっと……考えたいんだよ」
「……っ」
少しだけ何かを考えた後、蒼は走ってもう見えない九ノ瀬を追いかけた。本来なら、一人になりたいのはお互い様だろう。俺は、半ば蒼を九ノ瀬に押し付けたことになる。
吐いた溜息が白い。この分だと夜頃には雨は雪にでもなるのではないだろうか。
九ノ瀬は自分のことを間違っていると言った。
果たしてそうだろうか。倫理や道徳に照らせば答えは出るのかもしれない。けれど、世界はそれだけじゃない。まして、俺にその成否を断じる資格はないのだ。九ノ瀬を苦しめていたのは紛れもない、俺自身ではないか。
では、俺は?
無自覚なままに九ノ瀬を気付けていた俺はどうなのだろう。
九ノ瀬に、気を遣わせていただけなのか。
九ノ瀬や蒼や遊季が妙な詮索をして間違った理解をしていただけとはいえないのか。
本当ならば俺や紗季に気を遣うことなど一つもなかったのではないか――いや、回りくどい考え方はやめよう。そうだ。俺自身、自分から逃げていた内の一人だ。九ノ瀬と同じように。それをはっきりさせるには一つの簡潔な問いに答えを出さなくてはならない。
十年間、気恥ずかしくて向き合うことさえしなかった、その問いに。
心の準備は出来た。
さあ、回答に移ろう。
「俺は――」
双色紗季が、好きなのか?
自問した途端、雨が止んだ。
不意に見上げた空は灰色ではなく、派手な赤色。しかし妙に艶があるし、近い。それもそのはずだ。それは空なんかではなく傘だったのだから。
「風邪引くわよ」
「悪いな、友」
「どうするつもり?」
「なにが?」
夕凪友は、この世界の意思たる少女は口を開いたまま一度言葉を飲み込んだ。俺に気を遣ったのか、その問いは今の紘井律には酷だと思って逡巡したのだろう。ならばわざわざ友の口からそれを言わせまい。俺は言った。
「変わらないよ。ちゃんと、終わらせる」
「いいの? それで」
「ああ。紗季がして欲しかったことは、つまりそういうことだろ。……だから」
鏡写しの姉を求めて彷徨う、鏡写しの迷子を導く。
やり切れぬ思いを燻ったままの親友と決着を付ける。
俺に出来ることは限られているが、しなければならないことはこれではっきりした。




