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※鬱回注意
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結論から言って遊季は教室にはいなかった。
俺と蒼が到着する前に帰宅していた、という意味ではない。訊けばその日、遊季は学校を欠席していたらしい。教室に残っていた生徒の発言を要約するとそういうことになる。厳密には、その彼が言うには双色紗季は本日学校に姿を見せていないというのだ。
だとしたら表現を訂正する必要がある。双色遊季は、そもそもこの世界にいなかった。
教室に残っていた他の連中に訊いて周ったが、誰一人として双色遊季の存在を知らないと言う。双色紗季に弟がいるという事実そのものが彼らにとって有り得ないことになっていたのだ。俺は蒼を連れ立って職員室に向かい教師に口八丁を利かせてクラスの名簿を拝借した。だが当然のようにそこに遊季の名前はなく、代わりに、双色紗季という生徒が登録されていた。
念の為担任教師にも遊季のことを確認してみたが反応は芳しくない。
次に俺が脚を運んだのは双色家だった。
学校を休んでいる紗季――ここでは一応そのように呼称しておく――は自宅にいるはずだからだ。インターホンに応じた声が俺と蒼の存在を認めるとすんなりと家に上げてくれた。名目は紗季の見舞いということにしたが、この時点で母親もまた、遊季を紗季だと認識していることが解る。不安と焦燥を抑えて、二人の部屋がある二階へ向かった。
そして、今に至る。
部屋のドアを軽くノックすると直ぐに返事があったので、躊躇わず入室する。
「え――律?」
おそらく母親だと思ったのだろう。そこにいた遊季は目を丸くして驚いた。
パジャマ姿で二段ベッドの下の段に寝転がる。髪は当然だが結んでいない。着ているパジャマの色は白色。瞳の色は群青。それは紛れもなく遊季の色だ。
「それに……爽架も。二人してどうしたの?」
「見舞いに来たんだよ……その……」
蒼が口籠る。
無理もない。
俺でさえ今の遊季の話し方や雰囲気は紗季のそれと間違えてしまうほどだ。
「遊季」
断言するように俺は言う。間違いない。間違えるものか。こいつは遊季だ。紗季じゃない。例えるなら精巧に出来た偽物だ。遊季が紗季の真似をしているに過ぎない。俺は遊季の瞳をじっと見つめながら何度も自分に言い聞かせた。そうしなければこの期に及んでまだ、自分の考えを正当化出来そうになかったからだ。
「……ねえ、律。昨日もそうだったけど。どうして、わたしのことを遊季って呼ぶの?」
「決まってるだろ。おまえが遊季だからだ」
「あのさ、流石にもう、わたしも怒るよ?」
「怒りたいのはこっちだ。おまえこそいい加減にしろよ遊季」
遊季の目には、言葉通り怒気が渦巻いている。その色は確かに遊季の持つ色だが、そこに映る感情は紗季のものと相違ない。こんな風に紗季が怒るときを俺は知っている。滅多と感情を爆発させない紗季がこんな風に敵意を表して怒るときは決まって――
「お、おい、律」
憤りが表に出ていたのは遊季だけではなく、俺もまた同様だったらしい。隣の蒼が袖を掴んで制止を掛けてくる。けれど妙だ。蒼は、何かに怯えているように見えた。怯え、とも違う。どこか困惑している様子だ。それに気が付いて俺は冷静さを取り戻し、蒼が袖を掴んでいるのではなく僅かに引っ張っていることを悟る。
蒼の視線の先は二つ並んだ勉強机。その片方の上に載った写真立て。
そこに映っていたのはまだ幼い姉弟の姿で、紛れもなく、双色紗季と双色遊季だった。
「ねえ、律。何の冗談かは知らないけど……それ以上、遊季を乏しめないで」
「おまえ……」
「解ってるでしょ? 遊季は十年前に死んだのよ」
第二次性徴前の二人の姿はまるで見分けがつかない。髪も同じ長さで当時、左右対称になるように二人は髪を横で結んでいた。違うのは瞳の色。琥珀色と群青色の二つの瞳。写真の中には確かに紗季がいて、遊季がいた。
「遊季が……十年前に……?」
少し考えれば、その現実に行き着いていたかもしれない。
この世界から遊季がいなくなったんじゃない。というよりも、双色紗季に弟がいなかったことになったのではなかった。双色遊季は確かに存在した。その証拠にこの部屋には遊季のものが幾つも残されている。勉強机も、二段ベッドも、黒色のランドセルも。写真の中にはその姿だって刻まれている。
だから。
変わってしまった現実はそこではなくて――十年前、遊季が、あの病に侵された結末だった。
「そうだよ。遊季は十年前に病気で……ねえ、律、これ以上言わせないでよ。どうしたの? 変だよ、律」
……違う。
変なのは俺じゃない。
間違っているのは、この世界の方だ。
「ふざけるなよ。だったら、なんでそれをおまえが語るんだ。おまえは遊季だ! それは間違いない!」
何故かと問うか。答えは単純明快だ。その瞳の色が何よりの証拠だろう。
俺は小さな写真立てを手に取り、涙ぐんでこちらを睨む遊季に突きつけた。そして目の前の遊季と、写真の中の遊季を見比べて指をさす。
「見ろ! これが証拠だ! 確かに、紗季とおまえは瓜二つだが、瞳の色が違う。おまえのその色は――」
「律」
感情の起伏がない、乾いたその声が、
「……なに、言ってるの? それはわたしだよ。青い瞳は、わたしの方だよ」
決定的な事実を俺に叩きつけた。
そして、俺はそれを否定できない。幼少期の二人を指して、どちらが姉でどちらが弟かを瞳の色以外で見分ける方法を俺は知らない。そして、その唯一のアイデンティティーさえも今否定された。途端に自分に自信がなくなる。もしかしたら、本当に、遊季はあの時――
「律!」
どうしようもない絶望の中から俺を引き上げたのは蒼の声だった。
「しっかりしろ、律。おまえは、間違っていない。忘れたのか? 紗季の色を」
忘れる――はずがない。忘れてはいけないのだ。それが、紗季の願いだったのだから。
白い景色と共に蘇る、忘れないで、と儚く言った少女の顔を。
救われた命がなかったことになって。
本当に、忘れてはいけなかった絶望を忘れそうになっていた。
そうだ。あの病でいなくなったのは遊季ではなくて紗季だ。十年前のあの奇跡は決して夢なんかじゃなかった。
「どうしても……認めてくれないんだね」
遊季が涙声で呟く。声も、姿も、纏う空気も全てが紗季そのものの遊季は次に顔を上げたとき――俺の知らない誰かに、変容していた。
「どうして……?」
「遊、季……?」
「律は、誰よりもその事実を信じなくちゃいけないはずだよ。だってそれが、双色紗季の願いだったから」
「待てよ……おい。それだとまるで、おまえ――」
知っているみたいじゃないか。あの雪の屋上であったことを。
「ねえ、律。律はさ、わたしのこと、好き?」
「何を言い出すんだよ、遊季」
名前を呼んでいないと、それが誰だか解らなくなりそうだった。
「わたしは律が好きだよ。だから、律には忘れて欲しくなかった。だから願った。最後に、あのお伽話に。――忘れないで。それは双色紗季の最後の願いで、ここに残した呪い。双色紗季は生き続けなくちゃいけないんだよ」
淡々と、その誰かは涙を流しながら語る。
「その為なら、何だってするよ。都合ならいくらでもつく。だって双色紗季には半身がいたから。そうだよね。十年前に救われてしまった命をなかったことにすれば、それで済むんだよね」
「遊季!」
声を荒げたのは俺ではなく蒼の方だった。叫びはそれ以上を聞きたくないと怖気立っているように聞こえた。
「いい加減にしろ! 紗季がそんなことを望むはずがない、紗季が……誰かを犠牲にするなんて、有り得ない。それはおまえが一番よく解っているはずだろ!?」
「誰かを、犠牲に?」
壊れた人形のように小首を傾げる。
見れば、蒼はがたがた肩を揺らしていた。自分が対峙する相手が、遊季でも紗季でもない何かであるということに恐怖しているのだろう。それは俺も同じだ。こいつはさっき、紗季の願いを呪いだと言った。紗季の言葉の意味を間違えているから、強迫観念に憑りつかれて自分が誰かを見失っているんだ。
こいつを遊季に引き戻すには、もう今でなければ手遅れになる。直感が俺を焦らせた。
「もう止めろ、遊季。おまえじゃ紗季にはなれないんだ。おまえたちは鏡写し。互いの反面――」
「うるさいよ」
ぴしゃり、と遮った声には熱があった。そして不確かだった口調が定まる。
紛れもない、そこからは、双色遊季の心の叫びだった。
「そうだよ! 僕はお姉ちゃんにはなれない! 僕はお姉ちゃんを助けることなんて出来ない! お姉ちゃんが、そうしてくれたようには……。でも、救えなくても償わなくちゃいけないんだ。お姉ちゃんを死なせたのは……僕だから。あの病気で死ぬのは、本当は僕のはずだったんだ。でも、だけど、お姉ちゃんは――」
――十年前のお伽話の夜。
少女は、彗星に願った。
もう助かる見込みのない弟が、どうか助かりますようにと。
その身に降りかかる絶望も、災厄も、全て自分が背負うから。
遊季だけは、助けてください、と。
涙ながらに懇願した。
「――だから、十年経って、帳尻合わせが起きた。お姉ちゃんの病気は、僕の病気だったんだ。……そんなの、絶対におかしいよ……。なのに、僕はお姉ちゃんを救うことができない。なら、せめて、その願いを叶えて上げなくちゃ……」
たとえ、
自らを擲ってでも――――。
「お願いだよ……律。お姉ちゃんを……忘れないで上げてよ。双色紗季は、ここにいるから。いなくなってなんか、いないから。だから、僕を……わたしを、紗季だって認めてよ……律」
狂っている、と思ってしまった。
汗ばんだ掌を握りしめ、口の中に溜まった唾液を飲み下した。
ぼろぼろと落ちる涙を誰が否定できるだろう。その必死の懇願を俺は蔑ろには出来ない。――忘れないで。その言葉は確かに呪い。双色遊季を縛る呪いになってしまった願い。……いや、違う、と俺は頭を振る。紗季がそんな身勝手な願いを、ましてや呪いを残すはずがない。自分の弟を苦しめてまで、偽りの自分を残そうなんて思うはずがないのだ。
「ゆう――」
「おまえも来てたのか、律」
泣きじゃくる遊季の名前を呼ぼうとして、それを、さっきまではなかった声に遮断される。
「渚……」
驚きの声を上げたのは蒼だ。俺も遅れてその長身を振り返る。
九ノ瀬渚は部屋に入ることなく、扉を開いたままの位置で無表情に立ち、部屋の中を睥睨していた。
やがて彷徨っていた視線を遊季で止め、次に俺へと向けられた九ノ瀬の目は紛れもない敵意と激情に煮え、
「紗季を泣かせたのは、おまえだな?」
有無を言わさぬ激情が静かに咎めた。




