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 授業はとっくに午前中授業に切り替わっているが、生徒会長九ノ瀬渚の校舎内滞在時間は普段と変わらない。授業はなくても業務は山のようにあるからだ。それは偏に今日までサボってきた代償でもあるのだが。今日の俺にとってその事実は好都合だった。

 生徒会室に行けば九ノ瀬と話ができる。昨日、あのような別れ方をしたこともあって多少の気まずさはあるが、そんなことは気にしていられない。問題の解決方法が薄ぼんやりと浮かびかけていて、それを形にするためには九ノ瀬の協力が必要なのだ。

 生徒会室の前にやってきた。習慣的にドアノブを握る。しかしそのまま開放するようなことはせず、今回はノックを二三度行う。すると中から入室を許可する生徒会長の声が応えた。今日は取り込み中ではないらしい。

 部屋に入った俺を迎えたのは驚いた顔の九ノ瀬だった。ノックなんてするから別の誰かだと思ったのだろう。山積みの資料に埋もれる端正な顔が俺を発見して驚き、直ぐに喜色に染まる。

「なんだ律、さすがだな、言わずとも俺を助けに来てくれたのか」

「んなわけあるか」

「いや、待てよ。直ぐに茶を入れてくれ」

「逆だろ」

 客人のもてなし方が解っていない男だ。

 俺は近くにあった椅子を引き寄せてどっかりと腰を落とした。こちらの様子が変だということを雰囲気で察したのか九ノ瀬はそれ以上馬鹿を言わなくなる。黙ってまた資料の海に溺れ始めた。……て、おい。さり気なく一山こっちに押してくるなよ。

 結局こうなるのか、と思いながら俺は雑務の山を切り崩し始める。目的は他にあるが、直ぐに切り出せる話でもない。そもそもこんなメタな話をどうやってすればいいというのか。当事者の俺も昨日は頭が沸騰していたから勢いで飲み込めたが、一晩寝たらそんな想像をしていた自分が恥ずかしくなったくらいだ。

 と、いっても。

 シャーペンをカチカチ言わせながら昨日のことを思い出す。

 自分のことを紗季だと名乗った遊季。

 遊季を紗季だと言った九ノ瀬。

 どう考えてもそれは、異常だ。

「昨日は、どうしたんだ」

 先に口を開いたのは九ノ瀬だった。

 俺が切り出しをうだうだ考えているところに突然の不意打ちである。こちらの様子が変だということから、こいつも俺がここを訪ねた理由に薄々気付いていたのだろう。

「取り乱したりして、らしくなかっただろ」

「それは……こっちの台詞だよ」

 俺はペンを置いて九ノ瀬を見た。九ノ瀬はまだ業務を並行している。

「おまえは本気で、遊季を紗季だと思ってんのか?」

「……」

 かりかりかり。

 ペンの走る音が静かに続く。

「あれは遊季だ。本人がなんで紗季の振りをしてるのかは知らないが」

 かりかりかり。

「おまえだって解ってるはずだろ。だっておまえは」

 ――渚は、お姉ちゃんのことが好きなんだよ。

 遊季の台詞を思い出して俺は思い留まった。無意識にそのことを言及しようとしていた自分にストップをかける。何故かそれ以上は立ち入ってはならない気がしたのだ。そしてこの時、俺はペンの音が止まっていることに気付いた。九ノ瀬が顔を上げる。

「なあ、律。一つ聞いてもいいか?」

「なんだよ」

「律は、紗季が好きなのか?」

「……」

 自分が意識的に避けた言葉を簡単に口にする。

「まあ、聞かなくても解るけどさ。だから、おまえは認めないんだよな」

 陰りの見えた九ノ瀬の表情が逸れる。その続きを言うべきかを一瞬だけ思案した。そんな微妙な空白を挟む。

「あいつは、紗季だよ」

「九ノ瀬……ッ」

 細められた目。言葉の端から感じる敵意に、睨み目の威圧感。九ノ瀬は静かに憤っていた。

「違う。あいつは遊季だ。九ノ瀬、おまえどういうつもりなんだよ」

「どうもこうもねえよ」

「いい加減にしろよ、九ノ瀬」

「それはおまえだ律。解んねえんかよ。紗季の気持ちが、おまえには」

「なんだと……おまえ」

 紗季の気持ちなら重々承知だ。だからどうにかしようとして、こうして話をしに来ているというのに。九ノ瀬のその言葉は俺の神経を逆撫でして、一気に感情を沸点まで持ち上げた。

 椅子の倒れる音がする。続いて机を叩く音。

 掌にじんわりと痛みを感じてその両方が俺の立てた音だと気付く。

 身を乗り出して憚りなく九ノ瀬を睨み返した。

「何度も言わせるなよ。あいつは遊季だ。紗季じゃない。紗季の気持ちだと? 解ってないのはおまえだろ」

「……」

「何も解ってないのはおまえだ。今、紗季がどんな状況かも知らないで、勝手言いやがって」

「……」

「この世界のことを何も解ってない。あれが紗季だと。笑わせるなよ。紗季は、この世界のどこにもいないんだよ。おい、なんとか言えよ九ノ瀬――!」

 ずんずん近づいて、俺は九ノ瀬の襟を持ち上げた。しかし熱くなる俺を見下すように冷ややかな瞳が笑う。

「は……ははは。はははははははははははは」

「何が可笑しいんだよ」

「てめえの馬鹿さ加減だよ」

 一瞬だ。

 九ノ瀬はただ襟を掴んでいただけの俺の腕を絡め捕り捻じる。関節を捻られて力の抜けた手が襟を解放すると、次は腹に蹴りが入った。呼吸が一瞬止まる。その一撃で俺は扉付近まで後退させられた。

「俺はな、律。おまえが気に入らない」

「なに言ってんだよ」

「違うな。気に入らないんじゃない」

 拳を握る音が聞こえた気がした。爪が食い込んで血が滲むほどに拳が固められる。九ノ瀬の身が戦いて、次の瞬間にはその拳を振り翳して飛び掛かってきそうな雰囲気を放つ。生徒会室に漂う一触触発の空気俺は九ノ瀬を見ていた。九ノ瀬も俺を見ていた。他を気にする余裕なんてどこにもない。

「俺はおまえが憎いんだ。憎くて、憎くて、それで――羨ましい。本当に、殺してやりたいくらいに」

「止めとけ渚。それ以上はおまえの立場を悪くするぞ」

 涼やかな声が続く言葉を制止する。俺の緊張はそれで解けてしまった。いつの間に扉が開けられたのか、生徒会室に蒼爽架が参入していた。いかにも帰宅スタイルの蒼は鞄をまだ肩から下げているから、入ってきたのは今さっきだろう。呆れ果てて腕を組み、子供の喧嘩を見る大人みたいな態度。

「穏便じゃないな。どうしたんだ律」

「おまえこそ、何しに来たんだ」

「私は渚に呼ばれたんだ。雑務を手伝ってくれって」

 蒼に? 俺には声をかけずに蒼を呼ぶなんて合理的でないことを、こいつがするだろうか。そんな疑問が浮かんだところでさらに蒼は付け足す。

「何か、話があるとも言っていたな。この状況に関係あるのか、渚」

「……いや、それはもういい」

「そうか。解決したならよかった。ほら二人とも、さっさと謝って仲直りしろ」

 喧嘩の仲裁に入った先生みたいなことを蒼に言われる。さらに蒼は俺の手を取って引っ張る。どうやら握手をさせたいらしい。強引に九ノ瀬の前まで連行された。

 俺の頭はこの時はもう十分に冷えていたと思う。だから九ノ瀬に今のことは謝って場の空気を洗浄しようとも思った。当初の目的のためには一度、九ノ瀬と和解する必要があるからだ。けれど、九ノ瀬と目を合わせてそれが出来なかった。

 何故だろう。

 九ノ瀬の目は、言葉通り憤慨していて、それでいて、今にも泣き出しそうな危うさを持っていた。

 その視線に晒されて俺は何も言えなかった。まるで子供のようだ。通り魔にでも鉢合わせてしまったみたいに蒼の拘束を振り解き、一目散に生徒会室を飛び出した。

「律!」

 蒼が叫んで呼び止めようとするが気に留めない。今は一秒でも早く、九ノ瀬の前を離れたかった。




 蒼には中庭で捕まった。

 俺が生徒会室を飛び出してから十数分が過ぎた頃になってからだ。

 勢いで逃げ出してみたが行く当てもなく、やはり戻って話をすべきかと考えていたところに蒼は現れた。様子を見るに九ノ瀬との話は済んだらしい。その上で俺にも要件が出来てしまったらしく、無言のままベンチの隣に腰を下ろす。前置きも余談もなく蒼が口火を切った。

「紗季のことで揉めているみたいだな」

 揉めているのではなく、俺が間違いを正そうとしているのだ。そんな風に反論しようとも思ったが止めた。恐らく何を言っても無駄なのだ。郷に入っては郷に従え。多分この世界では遊季が紗季であることが正しい。狂っているのは俺一人という訳だ。

 そして不意に思ってしまう。蒼はどっちなのだろうかと。

 友の話を解釈するに、この世界は俺たちが抱える何かを解決するためにある。蒼の場合はそれが男性恐怖症だった訳だが、既にそれを解決した蒼はこちら側なのではないだろうか。

「蒼、おまえ今日はもう遊季に会ったか?」

「ん? 遊季に? ……いいや、会ってないが」

「なら、紗季には会ったか?」

 もしも蒼がこの質問に肯定で返事をしたなら、蒼もまた遊季を紗季だと思い込んでいる。紗季はこの世界のどこにもいない。蒼が会った紗季は遊季ということだ。果たして蒼は少しの考える間を挟んで答えた。

「いや、会っていないぞ。それがどうかしたのか?」

「そうか。だったらいい」

 考えてみれば解ることだ。

 蒼がもし俺と同じなら、紗季と会ったか、などという質問に対してそんな反応はしない。蒼にとって紗季は確かにこの世界に存在しているのだ。なら考えるまでもない。

 蒼への質問は諦めて俺は腰を上げた。まだ座ったままの蒼がこちらを見上げる。

「どうしたんだ律。私の話はまだ終わっていないぞ」

「話?」

 言われてみれば蒼はわざわざ俺を追いかけてきたのだから、何か要件があるのは当然だ。そんなことは追い付いてきた蒼を見て解っていたはずなのに。俺の質問が蒼の要件を潰していたのだ。これは失礼。再びベンチに座ろうと思ったところで蒼が立ち上がった。

「行くところがあるんだろ? なら歩きながらでいい」

「そうか。それで、九ノ瀬と何を話したんだ?」

 大方こいつも、俺の頭が可笑しいと考えているのだろうか。

「紗季のことだよ」

「……」

「律、渚が紗季を好きだったことは、知っているよな?」

 校舎に向かう脚を、俺は何となく止めた。

 似たようなことを遊季が言っていたのを思い出す。同時に、俺の中で正体不明の後ろめたさが湧き上った。何も言わない俺の横顔を蒼は少しの間眺めていた。やがて俺に合わせて止めていた歩みを勝手に再開する。ここまでこれば、俺が校舎に向かっていることは蒼にも解るだろう。だから次に蒼が止まるとしたらエントランスに入ってからだ。

「けれど渚は紗季にそのことを告げなかった。何故だと思う?」

 お構いなしに進む蒼に遅れて俺も止めていた脚を動かす。

「渚は紗季と、おまえの気持ちに気付いていたからだよ。だから渚は何も言わなかった。言えなかったんだ。そうして、自分たちの関係が壊れてしまうのを恐れたから」

「……いや、待てよ。そんなこと、信じられるかよ」

 俺は言った。

 九ノ瀬渚と言えば中学の頃から自他ともに認めるほどに女に対して見境がない男だ。そんな九ノ瀬が周囲に気を使って自分の思いを押し殺していたなんてことを、どうやって信じろというのか。仮に九ノ瀬が本当に紗季を好きでいたなら、俺のことなど考慮せずに自分の感情を優先したはずだ。幼馴染みと恋敵の関係になるなんてことが、あいつに歯止めを利かせたとは思えない。

「それが間違いなんだよ、律」

 エントランスに着いて、蒼は脚を止めた。振り返った少女の瞳が真っ直ぐにこちらを見据えた。

「いいか? 九ノ瀬渚という男は非常に計算高い男だ。おまえだって知ってるはずだろ。律、おまえが渚に持っている先入観も、それ自体、渚が作った虚構なんだよ。渚はきっとおまえには勝てないと解っていたから勝負しなかったんだ」

 そして、と蒼は続ける。

「紗季はそれに気付いていた。渚も、紗季が気付いていることに気が付いていた。だから渚はああなったんだ。今のように、女と見れば見境なしに口説いて回るような男を演じたんだ。紗季やおまえに自分のことを気取らせないように。そうしてあいつは十年来の恋を自分の中に押し込めたまま、今もずっと後悔している。紗季に、最後まで想いを告げられなかったことを」

「……蒼、ちょっと待ておまえ今」

 最後まで、と言ったのか。

 それはつまり、蒼もこの世界に紗季がいないことを知っているということではないか。

 俺の言わんとするところに気が付いたのか蒼は気まずそうに顔を背ける。

「いや……私自身、よく解らないんだ。まるで、長い長い夢を見てた気分だ。あんまりにも長い間夢を見ていたものだから、私にとっての現実がどっちなのか……判別がつかなくなった。そんな気分だ。その夢の中では、紗季が……」

「雪の屋上……十年彗星を覚えているか……?」

「……っ!」

 気丈だった蒼が驚いて顔を振り上げる。同時に俺が同じイメージを共有しているということがどういうことを意味するのかを悟ったのだろう。凛とした表情が崩れ、一気に瞳に涙が溜まる。それが溢れる寸前をどうにか保っていたようだが、直ぐに諦めてまたそっぽを向いてしまった。

「蒼。俺たちにとっての現実はさ、ここじゃないんだ。夢はこっちで、それもこれは、俺たちの見てる夢じゃない。紗季が見てる、星に願った夢なんだ」

 気付いていたのは俺だけじゃなかった。世界の異変を蒼も感じていた。

 今度は俺が蒼を先導する。目的地を知っているのは俺だけだ。そもそもついてくるつもりがなかっただろう蒼に同行を促すと、蒼は少しだけいつもの気丈さを取り戻した声でどこへ行くのかと訊いた。

「遊季の教室だよ」


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