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 例の病気が紗季に発症したのは、同じ症状が遊季から消えて十年ほどが経ってからだった。

 遊季の時と違ったのは、紗季に発症したそれがかなり進行状態だったことだ。

 日々の生活の中で一切の予兆を見せず、突然教室で倒れた紗季はそのまま入院することとなった。だから、俺たち幼馴染みは十一月以降ベットに横たわる紗季以外を見ていない。

 紗季が倒れた日から、放課後は見舞いに行くのが日課になった。場所はここ十年で新しくできた山の麓の病院だ。まだ新しい白い壁やシーツがやけに眩しい。そもそも小さな街にしては大きすぎる病院なのだ。紗季の病室は、紗季が初めての患者なのではないかとさえ思えた。

「何で無茶するんだよ、おまえは」

「あっはは。ごめんごめん。具合悪いの、見られたら恥ずかしいからさ」

 医者が言うにはこの病気がこんな状態で突然発症することはないという。まるで既に最終段階に入った病をそのまま持ってきたみたいだ、と。だがそんなことは有り得ない。どうせまた紗季が隠していたのだろうと問い質してみた。するとこの笑顔だ。

「意味解んねえよ」

「律は男の子だもんね」

「はあ?」

 びしぃ、と指先。俺の顔の中心を打ち抜いた。

「不謹慎」

「……」

 なんなんだよ、こいつ。病床でもいつもの調子はまるで崩れねえ。

「みんな遅いね」

「ああ。九ノ瀬は生徒会の仕事があって遅れるとか、蒼は大会が近いからとか、遊季は掃除当番だ」

 それでも終わったらみんな来るだろう、と伝えてやると紗季は肩を竦めた。

「忙しいなら無理しなくてもいいのに」

「みんなおまえが好きなんだよ」

「へえ、律も?」

「……」

 からかう眼光から逃げるように俺は肘をついて窓の外を見た。ここからだと我らが学び舎が見える。まあ、見事に景色を切り裂いてやがる。あれがあるせいで、この街のどの位置からも街全体が俯瞰できないのだ。この病室からだと紗季が描きたい景色は描けない。

 硝子越しに映った紗季のにやけ顔に、俺は眉間に皺を寄せた。無視してんだよ。変にリアクション期待してんなよ。などと逃げ腰の俺。そんな俺の心中を見透かしたみたいに紗季は言う。

「律はみんなのこと苗字で呼ぶよね。幼馴染みなのに」

 どうして? と十年付き合ってきて初めての質問をされる。

 のっそりと俺は振り向いた。紗季は平常営業の笑顔だが、それはどこか真剣味を帯びている気がする。意図して避けてきた質問だったのだろうか。軽率な態度で臨む質問ではない、と判断したのかもしれない。

「大したことじゃないよ」

 そう前置きして続ける。

「俺さ、がきの頃に両親が離婚してるだろ。自分で言うのも何だけどさ、俺って母親っ子だったんだよ。……おい、こら。マザコンとかじゃねえよ。親父は仕事人間でほとんど家いなかったってだけだよ。だから俺は、父親の顔を知らない。いや、知らないってのは比喩で」

 ――ただ、父親って存在がどんなものか知らない。そういうことだった。

 紗季の表情は少しだけ曇って、だけどシリアスな雰囲気を出したくなかったのか笑顔を崩さない。

「突いたらいつでも壊れる世界だったんだよ、俺の家庭は。だからあっさり壊れた。それだけだ。でさ、破綻したんだ。そうなると当然、子供をどっちが連れてくか、てなるだろ。母さんは俺を連れてきたい、て言ったらしいんだよ。当然だよな。今まで親をしてきたのは母さんだけなんだから。――けどさ、親父がそれを許さなかった。親父は、自分の会社の跡取りが欲しかったんだ。俺はそれだけの為だけに欲しがられた」

 そしてそれが決まった晩、母親は電気も点いていない部屋で泣いていた。

 今から思えば夜逃げでもしてくれればよかった。けれどそれが無理だということも今なら解る。あの父親からは逃げられない。一生逃げ続ける人生を息子に送らせたくなったのだろう。部屋の前で棒立ちする俺に母が気付いたのはどれくらい経ってからだろう。

 ――ごめんなさい。

 泣きながら謝って、彼女は嗚咽交じりに言った。

 ――あなたの世界を壊してしまって、ごめんなさい。

「多分、理由はそれだよ。俺はなんていうか……あまり人と深く関わりたくないんだ。あんまりにも――別れが怖いから」

「だから苗字なの?」

「俺さ、母親のこと名前で呼んでたんだよ。で、親父は俺のことを苗字で呼ぶんだ」

「……へえ。それってさ、お父さんも変だけど律も相当変だね」

 苗字で呼ぶのは他人行儀を装うため。いつでも失えるように、俺は最低限の距離を挟んで人と接するようにしていた。別に意図してやっているわけじゃない。理由ははっきりしているが、それは無意識に防衛本能が働いて行っていることだ。

 案の定病室には気まずい空気が漂い始める。やっちまったなあ、と俺は自分でも解るくらいにバツの悪い顔をしていたと思う。直ぐにまた紗季の顔が見れなくなった。こんな空気でも紗季は笑うのだろうが、何となく俺は、こいつが無理に笑うところを見たくないのだ。

 白い壁に目がちかちかし始める頃になって、

「でも律はわたしのことは名前で呼んでくれるよね?」

「それはほら、遊季がいるだろ」

「だったら便宜的に分ければいいじゃん」

「例えばどうやって」

「双色Aと双色Bとか」

「……」

「あはは」

 紗季が笑って、俺も少しだけ笑った。

 こいつは相変わらずだ。気まずい空気も一瞬で拭い去ってくれる。

「でも、そっか。それじゃあわたし、責任があるよね」

「責任?」

「うん。だってわたしがいなくなったら、遊季は律に『双色』って呼ばれちゃうんでしょ?」

「あ、いや、それは――」

 どうだろう。

 真面目に考えるよりも、わたしがいなくなったら、なんていう紗季の例えが嫌だった。

 紗季は困惑する俺の内心を気取ったのかまた、あはは、と笑って言う。

「大丈夫だよ。わたしは、どこにも行かないから。心配しないで」

「してねえよ、そんな心配なんて」

 吐き捨てて、けれど俺は紗季の目を見れない。紗季なら俺の嘘なんて簡単に見抜く。だから正面から今は紗季の顔が見れなかった。

「あ、そうだ。今年は十年彗星の年だよね。来月かあ。楽しみだね、律」

 無邪気に言って笑う紗季に俺は曖昧な返事をする。

 この時既に、俺は紗季の来月が危ういことを知っていたのだから。

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