6
/6
季節が冬になり、紗季の起きている時間はだんだん短くなっていった。紗季の病状は悪化を続け、薬の投与も回数がずいぶん増えた。十二月の中旬。終業式の前日。この日久しぶりに五人が集まった病室で紗季が眠そうに言ったのだ。
「みんな、暗いよ」
集まりはしたものの何も話そうとしない俺たちに紗季が茶々を入れる。冬枯れした外の木を眺めていた俺はそれで室内に目を戻した。同様に文庫本を読んでいた九ノ瀬も顔を上げる。ぶんぶんと音がしていると思ったら、蒼は素振りをしていたらしい。病室では竹刀をしまえ。
紗季は眠っているものだと思い込んでいた。それは俺を含め全員がそうだっただろう。
「なんだ、起きてたのか紗季」
「爽架がぶんぶん竹刀振るから……目が覚めちゃった」
隣のベッドに納めた竹刀を立てかけて、蒼はその横に腰かけた。この病室が紗季だけで良かったな。でないと即摘み出されてるぞおまえ。
「あ、お姉ちゃん起きた? 林檎剥いたよ、食べる?」
遊季はここに来てから憑りつかれたみたいにひたすら林檎を剥いていた。お世辞にも上手いとは言えない形の林檎たちがずらりと並べられた紙皿の総数は三つになる。
「ううん。食欲ないからいいや。ありがとう、遊季」
軽く微笑んで遠慮すると、紗季は上体を起こす。その先には九ノ瀬が腕を組んでそんな二人のやり取りを眺めている姿があった。遊季に背中を支えられながら紗季は長身の九ノ瀬を見上げる。
「なんだか疲れてるね、渚。どうせまた……生徒会の業務に追われてるんでしょ?」
「ん、ああ、まあな」
「あれ? 違うのかな。そうだ。また女の子だ。駄目だよ渚、女の子を泣かせたら」
九ノ瀬は、ははは、なんて笑っているがそれは乾いた声だった。
全員がよく理解していたのだ。紗季の挙動が全て空元気であるということを。それでも紗季が平常通りに振る舞うから、決して不安な様子を見せてはいけない。確認したわけではないがこの時、それが四人の共通認識だった。
最後に紗季は俺に顔を向ける。一月前に比べれば少し痩せたように見える。やつれているとも言えるが。紗季は、俺には何か言うことが見つからないのだろうか、少しの間じっと黙ってこちらを眺めるばかり。路地の奥にいる野良猫みたいな視線で見つめてくる。
やがて。
「律は、暇そうだね」
「なんだよ、それ」
「爽架は素振りしてるし、遊季は林檎剥いてるし、渚は本読んでるのに律は何もしてない」
「悪かったな」
ぶっきら棒に返して窓に凭れた。がしゃん、と格子が音を立てる。硝子の冷たさがブレザー越しにも伝わってきた。むっ、とする俺に紗季は、だから、と付け加えた。
「律に課題を上げます」
「課題?」
「明日、わたしを連れ出して」
その紗季の言葉で、病室の空気が変わった。
今まで自分と紗季との会話以外にはどことなく無関心でいた蒼、遊季、九ノ瀬の三人がこの話に反応したからだろう。三人の注目を肌で感じる。横目でちらりと窺ったが、九ノ瀬は何か言いたげに口をぱくぱくさせている。蒼は言葉の真意を測ろうとしているのか紗季を見て硬直し、遊季はおろおろと全員の顔を見回していた。
「どういうつもりだよ」
俺は言った。多分それは他の三人の気持ちを代弁したことになるだろう。
「ねえ、爽架、明日は何の日か知ってる?」
振り返りもせずに突然尋ねられて蒼が狼狽する。ええと、とか言って手をばたばたさせているが結局答えは出ない。紗季は同じ質問を続いて九ノ瀬にして、同じ結果に最後、質問は遊季まで流れ着いた。そして意外なことに、この誰も答えられなかった質問に遊季だけは回答を見出したようで、
「……十年、彗星?」
自信なさげに、そう答えた。
紗季の表情が明るくなる。
「正解」
偉い偉い、と言いながら遊季の頭を撫でて次の質問が俺になされた。
「では、この街の中で、この街を一望出来る場所はどこでしょう」
この質問にはここにいるメンバーなら誰だって簡単に答えられる。
紗季が進学先を選んだ理由が、まさにそれだからだ。俺はわざと不必要な間を作ってから、答えは言うまでもないので最初の言葉への返答をした。
「無理だ。病人は寝てろ」
外は極寒。こんな環境の中に紗季を連れ出すなんてことは出来ない。ただでさえ病状は悪化しているのだ。それは紗季だって解っている。外出の許可が下りないことを自分で承知しているからこそ、こんなことを俺たちに頼んでいるのだ。
「星が見たいなんて理由で、病院を抜けださせられるかよ」
「お願い、律」
「駄目だ。大体なんで――」
ひやり、と冷たい感触が手首に巻きつく。紗季の細い指がきっと、今の精一杯の握力で俺の手首を掴んだ。驚いたのはその非力さにではなくて、紗季の必死さだった。彗星がみたいというだけで、ここまで必死になる意味が解らない。いつも穏やかな紗季が、こんなにも血相を変えて頼んでくる理由が俺には見当たらない。
「お願いだよ……律」
言い終えて咳き込む。嫌な感じの咳だ。直ぐには止まらない。興奮して呼吸が乱れたからだろう。直ぐにみんなが駆け寄って介抱を始める。遊季は泣きそうになりながら背中をさすって、蒼と九ノ瀬は何度も紗季の名前を呼んだ。
そこまでした紗季の頼みを、この時俺はどうしても断る気になれなかった。
もしかしたら奇跡に期待していたのかもしれない。
この街のお伽話を信じていたのかもしれない。
街に愛された誰かの願いを、星が叶えるなんていう、空想の戯言を。
「連れ出すって言っても……そんなこと、出来るわけないだろ。方法がない」
「……方法なら、あるよ」
胸を抑えて呼吸を落ち着かせながら、絞り出すように紗季は言った。
額にじわりと滲んだ汗を拭きとりながら、最後、全員を見渡して、
「みんなが、協力してくれるなら」
子供の頃から変わらない、悪戯好きな子供みたいな笑顔を見せた。
次の日の放課後。
結果から言って、紗季の作戦は実行に移されることになった。
九ノ瀬が生徒会の年末業務を片付けるまで待って全員集合し、俺たち一同はいつものように紗季の待つ病室へと向かう。出発したのは下校時間を過ぎてから、そして面会時間の終了三時間前。病室についてからはいつものように取り留めのない会話をして過ごした。
時計を確認する。時刻は七時三十分。残り半時間で面会が終了となる時間だ。
誰かの合図があったわけではないが、俺と九ノ瀬は目を合わせて立ち上がり、病室の外に出た。と同時に蒼がベッドの周りのカーテンを閉める。大した連携だ。ことは恙なく進んでいる。俺たちは事前の打ち合わせもなく、昨日紗季に聞かされた計画をただただ個人個人で実行していた。
そこに共通するのはただ、紗季の頼みを聞いてやりたい、という意思だけで。詰まる所俺たちは、その意思だけ通じ合っていれば十分なのだ。
病室を出て廊下に立ち、壁に凭れる。俺は何となく隣ではなく、九ノ瀬の正面に立つことにした。
会話はどちらからともなく始まった。
「これ、ばれたら問題だよな」
九ノ瀬がポケットの中で何かを転がす。かちゃり、と金属音が冷たい廊下に響く。
「気にするな。おまえの生徒会長としての立場がなくなるだけだ」
「それは困る。……て、そうじゃなくてだな」
「紗季のことか?」
何も言わないが、九ノ瀬の目は静かにそれを肯定した。
つまり問題、というのは俺が捉えているよりも重いものらしい。
「大丈夫だよ」
俺は言った。
けれどそれは気休めでしかない。そしておそらく、九ノ瀬も同じことを考えているだろう。
「あいつはこの街に愛されてるからな」
藁にも縋る思いとは、このことだろうとこの時は本気で思った。最後の希望をお伽話に託すような、そんな馬鹿な真似をしでかしたのは多分、この先の未来が絶望しかないと感じていたから。医者からはっきりと言われたわけではないが、紗季はもう――
「お待たせ」
明るい口調の声に虚ろだった目の焦点を合わせる。帽子を被った制服姿の少女が蒼に肩を借りて病室から歩き出てくる。髪はサイドテール。それが数時間前よりも数センチ長いことに気付く者はきっといない。ここにいる三人を除けば。
壁から背を放した九ノ瀬が少女に近づく。
「歩けるか? 何だったら、俺がおぶって……」
「ありがとう。でも平気だよ」
「そうか……」
申し出を断られて九ノ瀬はどこか残念そうだ。
「久しぶりに歩いてみたいしね、自分の足で、ちゃんと」
爽架、もういいよ、と言って肩に回していた腕を解く。
本当に立ち上がるのが久しぶりだったのか、立ち眩みに耐えるように俯いて、少ししてから顔を上げると目が合った。少女、双色紗季は柔らかに微笑んで俺に言った。
「それじゃ、行こっか。この街が一番綺麗に眺められる場所へ」
――紗季の計画とは至ってシンプルだ。
簡単に言ってしまえば入れ替わりである。
紗季と遊季の入れ替わりは本人たちが本気になれば幼馴染でさえ欺いてしまうもので、一目で見抜くのは難しい。病院の人間は毎日のように見舞いに来ている遊季を見ている。なのでもし、紗季が遊季と入れ替わって病院内をうろついていても簡単にはばれないだろう。
ようするに今紗季の病室のベッドで寝ているのは遊季というわけだ。
一応のカモフラージュとして珍しく帽子なんかを被せてみたりしたが、意味があるとは思えない。それくらいに二人の風貌は似ている。遊季は常時女子用の制服を着用しているから、服をとっかえるだけで偽遊季の完成だ。
こうして俺たちは紗季を病院から連れ出すことにまんまと成功した。
一度ロビーの受付前で紗季がふらつくことがあったが、近くにいた看護婦を即座に牽制することでやり過ごすことに成功している。やや急ぎ気味に外へ出ていくこちらを若干怪訝な顔で見てはいたが、そっちは問題ない。
問題があるとしたら紗季だ。
何もないところで躓いてみたり、今にしてみればもう息が上がっている。
気付いているのは俺だけではなく全員だが、紗季がそれを隠そうとしているのも全員が知っていた。だから、誰も何も言えなかったのだろう。
外に出てから二時間くらいが経っての到着。
普通に歩けば三十分もかからない道程だが、それほどの時間がかかったのも致し方ない。
途中何度も休憩を挟んだのも原因だが、一番の原因は紗季が、どうせだから町中を歩き回りたいだとか言い出したことだ。何を馬鹿なことを言い出すのかこいつは、と思ったが逆らえない。昔から言い出したら聞かない奴なのだ、双色紗季という女は。
そんなこんなで雪降る夜道を散々歩き回り、迷子にでもなってたんじゃないのかってくらいの回り道でようやく学校に辿り着いた。
「俺の出番だな」
台詞を白く吐き出しながらポケットに突っ込んだ手を出す九ノ瀬。
その手には輪っかに繋がれた鍵が握られていた。
「職権乱用だな」
そもそも生徒会長に学校の鍵をくすねていい権限などないが、俺はそう呟いてみる。
学校に侵入するために必要な鍵は放課後に九ノ瀬がこっそり持ち出していたのだ。日頃から溜りまくった業務を言い訳に居残りして。結局終わりやしなかったが。古い校舎に田舎街の環境もあって、防犯設備と言えばこの錠くらいのものだ。ここを突破すれば侵入は容易い。
「ほら、開いたぜ。手伝え律。門を動かすぞ」
「はいよ」
言われるまま俺は九ノ瀬と反対側の門を押す。古いのは校舎だけでなく、この門は拍車をかけてぼろい。錆びつきまくってるから動かすのが大変だ。しかもやたらやかましいし、雪が積もり始めているものだから相当冷たい。
人一人分ほどの隙間を作ったその時だった。
唐突に、順調に思えた計画に罅が入る。
「あ、おい。あれ……! いたぞ、あそこだ!」
突然の叫び声に俺も九ノ瀬も声のした方を急いで振り向く。見覚えのない男たちが数人でこちらを指さして何やら叫んでいる。どこかに呼びかけている様子から察するにもう少し多勢であるようだ。で、あれはなんだ。
「まさか……遊季のやつ」
考えられるのは、入れ替わりがばれたという可能性。
この小さな街だ。病人が抜けだしただけで大勢が動くのも不思議じゃない。それが双色紗季だというのだから尚更だ。あの時紗季が躓いた違和感だけでばれたのか。いや、そもそも入れ替わりに無理があったか。病人の確認くらい行うだろ……!
「律、渚!」
混乱して思考も行動も止まっていた俺を蒼の叫びが叱咤する。
粉雪を被りながら蒼は肩に提げた鞄を放り出し、竹刀袋を構えていた。
「紗季を任せる」
こちらに背を向けて、そして驚くほど鮮やかに、
「ここは任せて先に行け」
創作物中でも語られないような、そんな台詞を吐いて竹刀を抜いた。
迷っている暇はない。俺は紗季の手を掴んで走り出す。一人分のスペースを縦に並んで通り抜けたところで、九ノ瀬に呼び止められる。
「律ッ!」
と、放り投げられるそれをキャッチして、
「何やってんだ九ノ瀬?」
また甲高い音を立てて閉まって行く門の向こう側に問う。
「爽架一人に任せられないだろ。俺も残る」
「あ、ああ。解った」
「頼んだぞ」
ぐっ、と紗季の腕を引こうとして、けれど走るのは不味いと思い直す。さっきの疾駆も数メートルとはいえ今の紗季には堪えただろう。だがここからは悠長に歩いてもいられない。いつまで二人のバリケードがもつか解ったものではないからな。
止むを得ない。ここは、紗季の意見は却下だ。
俺は素早くしゃがんで紗季の脚に手を回し、一気に押し上げて背に乗せた。
「乗れ、もう十分歩いただろ」
「え、え、乗れって、律、もう担いじゃってるよ」
「いいから黙ってろ。ほら、行くぞ!」
背に喧騒を聞きながら、校舎を目指して走り出した。旧棟の屋上が目的地。雪の空を見上げれば、彗星の尾が校舎の影から窺える。雪雲に霞んでよく見えないが、月明かりよりも明るい白い光は、そこに希望があることを物語っていた。
最後に縋る希望がお伽話だと思うと、やはり自分が情けない。
みんなそうだ。
しんがりを務めてくれた二人も。
身代わりになった遊季も。
みんな解っていた。
きっと、紗季はもう助からない。同じ病気で死にかけた遊季は余計にそのことを強く感じていたはずだ。奇跡なんて存在しない。助からないものは助からない。大人になったから、そんなことは十分知っていた。でも諦められないから。十年彗星なんていう、お伽話に大切な人の命を託した。
やってみると解るが、人を背負って階段を駆け上がるのは結構きつい。
紗季はかなり軽いが、それでも三階の踊り場に出る頃には膝が笑い始めた。もう少しだってのに心臓が爆発しそうだ。
「律。ちょっと休んだら?」
「……そうも、いくかよ」
蒼と九ノ瀬の足止めがいつまでもつか解らないんだ。ゆっくりはしてられない。
「いいから休みなさい」
「駄目だって」
「ならせめて歩け。揺れが気持ち悪い」
ぺしっ、と後頭部を叩かれる。口調ははっきりしているのに、平手の力は子供みたいに弱い。そんな状態であることを知りながら焦るな、急ぐな、と言われても無理がある。最後の階段に脚を乗せた、その時である。紗季の熱い息が首筋にかかった。
紗季はどうやら何かを言おうとしているみたいだった。が、上手くいかないのだろう。なかなか言い出せないことなのか、それとも体調が関係しているのか。気持ち半分でそっちを気にしながら、俺は一段ずつ階段を上って行く。
「……ごめんね、律」
中腹部でようやく聞き取れた。それは彼女に似合わないずいぶんとシリアスな声音。そして思わず脚を止めてしまうほどに儚い、消え入りそうな声で、下手をすれば吐息と間違えてしまったかもしれない。
「なんだよ、急に」
「わがまま言って。こんなことに付き合わせて」
「何を今更」
「本当はね、解ってるんだ」
「おまえ何言って――」
「ごめん」
遮るように紗季は、
「わたし、もう駄目みたい」
今度こそ完璧に、俺は動きを止めた。
なんで、このタイミングなんだ。なんで、こんなときにそれを言うんだ。
紗季の体を支えている腕が震えていることに気付く。というよりも全身が振動している。心臓の鼓動よりも速くがたがたと。原因が紗季の一言だということは考えるまでもない。
別に解っていなかった訳じゃないし、いつかこうなるとは思っていたけれど。
それを誰かが口にするのとしないのとでは、違いすぎる。だから誰も言わなかったのに、本人が口にしてしまった。感情が決壊するのを堪えるのに必死で、次が踏み出せない。残り時間がもう僅かだと告げられたのに動き出せない。
「ふざけるなよ、おまえ……」
ようやく吐き出せたのはそんな恨み言だ。他意はなかった。
「みんな……気付いてるんだよ、そんなことは」
「うん」
「それでも黙ってたんだよ。そんなこと、認めたくないから」
「うん」
「だから……だから、おまえが……ッ、おまえが諦めるなよ……!」
その言葉にだけは紗季は返事をしなかった。
紗季らしくもない淀んだ沈黙が逆に背中を押していたように思う。また一歩を先に踏み出す。
やがて扉の前に立って鍵を探し始めた頃に紗季は押し黙っていた口を開いた。
「十年彗星って知ってる?」
何を今更、と思ったがこれはさっき言ったので繰り返さない。構わず紗季は続けた。
「この街に、一番愛された誰かの願いを……星が、叶えてくれるんだって」
施錠を解く。校門よりも圧倒的に軽いその扉を肩で押して、やっと目的の場所に辿り着いた。
「ねえ……律。わたしは、この街に愛されてるのかな」
「なんだよ、そんなこと」
聞くまでもないことだ。この街は間違いなく紗季を愛している。道を歩けば必ず声をかけられ、話をすれば誰もが笑顔になり、そこにいるだけで皆が目で追ってしまう――。きっとこの街は紗季を愛している。街のみんなが紗季を知っているし、好きでいる。そのことに確信を持てたから俺は敢えて何もいわなかった。
もしもお伽話が本当なら。
紗季が願えば、星は彼女を救ってくれるだろうか。
今まで、生涯をかけて紗季がそうしてきたように。困っている誰かを、星は、見逃したりしないだろうか。そんな、俺が憧れた彼女の在り方をお伽話の彗星はどう思うのだろう。
ふと、背中から負荷が消える。あまりにも軽い衝撃だったから一瞬反応が遅れる。
降り立った紗季はふらふらとした足取りで屋上に出、空を横切る彗星に手を伸ばした。少女の手は当然星に届くことなんてなく、虚しく舞う雪の粒を掴んでだらりと下ろされた。
「ねえ……律」
「ッ! ――紗季!」
俺を見て微笑んだ少女は次の瞬間に、糸が切れた人形みたいに膝を折って崩れた。
急いで駆け寄って抱き起す。体は酷く冷たい。さっきまで負ぶっていて気が付かなかった。いや、今外に出て冷やされた体が、もう熱を取り戻すことができないまでに衰弱しているのだ。どうすればいいのか解らず、ただ彼女の意識が途切れてしまうとそれが最後になると思い、名前を呼び続けた。
ややあって、
「……やっぱり、心配だな。律のこと」
「……なに、言ってるんだよおまえ」
「律のこと……みんなのこと……やっぱり、わたし……ほっとけないや」
白い指が頬に触れる。彼女の指を介することで、そこに濡れた感触を知った。
「ねえ――律。一つだけ、最後にもう一つだけ、お願い」
それは俺が覚えている、紗季の最後の言葉だった。
「――忘れないで」
…
「思い出したよ、ちゃんと」
夕凪友の前で、俺は確かめるように語っていた。
そして記憶の途切れる最後の部分までを終えると、そう言って半分暗い空を見上げる。空には雲がまばらで、月を隠すには及ばない。地平線の彼方に視線を馳せればまだ太陽が見える。反対を向けばうっすら月が見える。そんな、夜とも昼とも言えない時間。夕凪の中で、ぽつり、と呟く。
「ここ、だったんだな」
ここに、紗季がいた。
ここが、最後の場所だった。
「友……おまえはさ」
「始めは気付かなかった。でも、違和感はあったのよ」
だから、調べていた。
この街の伝承のことも、この街の歴史も。
そうして辿り着いたのだ。
夕凪友という少女は存在していないものだったのだと。彼女は紗季が残した夢の断片。この条理の外にある世界の鍵。彼女こそがこの世界を終わらせるための綻びなのだ。
「で、どうするのよ。もうとっくに狂ってるわよ、この世界」
「ああ。知ってるよ」
俺は言った。
「終わらせる。これが紗季の最後の願い、夢だって解ったから、ちゃんと終わらせる」
夕凪の終わりを報せる風に乗せて告げる。
夕凪友という少女はそれを聞いて安堵したように笑って肩を竦めた。
「うん。……そう言うと、思った」




