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廊下を走る。
階段を二段飛ばしに駆け上がる。
息も途切れ途切れに、一気に体中が酸欠を起こす。その全てを無視して関節を稼働させた。
新棟は四階建ての校舎で、屋上に上がるには四つの階段を上る必要がある。さっきの旧棟からも走って来たので――しかも直前の九ノ瀬とのやり取りでかなり興奮状態だ――既に走りながら呼吸するのもつらい。二階の踊り場に飛び出て一度休憩を挟んだ。
信じられないくらいに汗だくだ。マラソンならある程度ペース配分して適度に熱を冷ますからこうはならない。自制の利かない全力疾走が異常な発汗を起こした。おまけに一度止まってしまうとそこからの息切れが凄まじい。眩暈がして、呼吸困難に陥り、俺は耐え切れず階段に仰向けになって倒れ込む。
ブレザーの袖で額の汗を拭った。そのまま腕を下へずらして視界を覆う。
体が動かない間は頭を動かした。一体全体何が起こっているのか、と。
こんなことが前にもあった気がする。この世界中で自分だけが取り残された感覚。自分の主張が何一つ正とされず、自分だけが世界から外れてしまったような。
どういうことだ。
遊季が紗季で――じゃあ、紗季はどうなったというのか。
「……っは、は……っ、ぁ……はぁ」
汗で濡れた背中を冷たい階段が冷却する。
紗季はどうなったのか。
その問いに自嘲した。そんなことはとっく、解っているはずじゃないか。
“ねえ、律……わたしのお願い、聞いてくれる?”
脳裏に紗季の声が響く。荒い呼吸で掻き消されてしまうほど、小さな音量で。
けれどそれは心の中の声。耳を塞いでも、いくら息を荒げても消すことは出来ない。そうして気付く。声の音量が小さいのは、紗季がその大きさで話しているからだ。今にも消え入りそうなほど弱い声で。
“絵が……描きたいんだ。わたしたちが出会ったこの街の、絵を”
その続きを知っている。
次に紗季が言う言葉が浮かんでくる。
“この街が――”
――一番綺麗に見える場所で。
“連れて行ってくれる? 律”
「――!」
白い壁。白いシーツ。白いカーテン。薬品の臭い。冷たい手。病的に白い表情。それはもう、陶磁器のよう、人形のようという例えではなくただ体温の通わぬ顔だ。儚く直ぐに溶けてしまう粉雪みたいな、淡い、少女の表情。
思い出す。覚えている。
紗季の願いを。そうだ。彼女は最後に願った。絵が描きたいと、この場所で、ずっと望んでいた。
「ふ、ざけるな……」
ゆらりと立ち上がって、十分に休めたとは到底言えないが疾走を再開した。階段を今度は三段飛ばして駆ける。膝が痛い。腰が折れそうだ。それでも今はその痛みがありがたい。痛みがなければどうにかなってしまいそうだったから。
“ねえ――律。一つだけ、最後にもう一つだけ、お願い”
自分の目が見えているか怪しい。そんなことがあるのだろうか。いや、実際今の俺がそんな状態だ。脚を動かすのは本能的に、階段を上っているのだから体は機械的に稼働させればいい。たとえ目の前の景色が、こんな風に白い闇に包まれていても。
吹雪の夜空が見える。白い雪が視界の闇を覆う。ここがどこだかは解っている。今俺が目指している場所だ。この新棟の屋上だ。当然、今は雪なんて降っていない。なら俺が見ているものは何か――記憶だ。
俺は、屋上で紗季を抱えて膝をつく紘井律を見ている。
瞬間、稲妻みたいな痛みが頭を駆け抜けた。そしてそれで全てを理解する。頭痛と共に躓き、階段に体を打ち付けた。屋上まで後十二段。
白い雪の闇を彗星が裂いて飛び去る。
紗季は、星に願うように呟いた。
“――忘れないで”
あるいはそれが、呪いだったのかもしれない。
屋上に出る。
肺がオーバーワークに絶叫して、脳も酸欠に喘いでいる。俺は迷子みたいにこの見慣れた屋上をぐるぐる見回した。フェンス越しの空も、その先にある校庭も他の校舎も、街の姿も遠くの海も山も、そして紗季の定位置だった給水塔も全部。
けれどどこにも、紗季はいない。
当たり前だ。いるはずがない。
だって、紗季はもう――。
ふらふらと彷徨うように歩いて、俺は給水塔に向かった。辿り着いてしまうともう、気力が一気に零れ落ちて自分でも驚くほどあっさり膝が砕けた。そのまま糸が切れた人形みたいに落ちるはずだった体を、不意に抱き留められる。というより、覆い被さるといった方が正しいのか。
胸の下辺りに誰かの頭が当たる。
俺を受け止めたのは俺よりも一回り背が低い相手のようだ。
「全部、解った? 律」
「……ああ、解ったよ。というより、思い出した」
声の主は重さに耐えているのか微弱に震えている。
どうにか俺をゆっくりと下ろして、給水塔に凭れかけさせた。今の俺はいつも紗季がそうしていたのと同じ格好だ。さっきまで自分が下敷きにしていた相手を見上げる。長い髪が夕日の逆光で一層黒い。
「ここであったことを思い出した。けど、訳が解らん」
思うままに俺は言葉を紡ぐ。混乱していて、けれどびっくりするぐらいに冷静だ。
あまりに酷い怪我をすると痛みを感じない、ということがあるらしいが、これはそれに似た現象だろうか。とんでもなく突飛な状況に置かれて、今は逆に落ち着いている。
「教えてくれ。この世界のことも、おまえのことも」
俺は言った。
「なあ、友」
あの日、一連の始まり。
俺の記憶になかった少女に俺はあの時出来なかった質問をする。
おまえは誰なのか、と。




