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 追いかけてきてくれ、と言われても。取り残された俺は部長さんを流し見る。

 表情はさっきまでと比べて柔らかい。緊張していたのは視察に対してだけというわけではなかったみたいだ。九ノ瀬が出て行った後も閉まった扉を長らく見つめていた。やがて室内のざわめきが落ち着く頃になって俺と目が合う。

 あなたも生徒会役員の人ですか? みたいなことを問いかける目だ。でなくても、生徒会長のお供としてやって来、今はこの場を任された俺を警戒するのは当然と言える。しかし俺は彼女が想像しているような立場ではない。正直、内心では俺の方がてんぱっているのだ。

 何か質問した方がいいのかな、と思って俺は辺りを見回す。この上なく挙動不審な行動だったが、出来るだけ焦りを感じとられないようにと努める。そしてふと、窓際のアトリエが気になった。

 部長さんはさっきあの場所を見ながら紗季の名前を出した。となるとあれは、普段紗季が使っているキャンパスということか。部長さんに許可を取って俺はその一角に近づいた。白紙のキャンパスだ。何も描かれていない。まさか紗季が去年まで使っていたのを律儀に現場保存しているのだろうか。

「あの、えっと」

 部長さんがいつの間にか俺の後ろに立っていた。どこか慌てた様子だ。九ノ瀬と話しているときとはまた違う。これは部を預かる立場としての緊張だと、俺は何となく察した。俺を生徒会の回し者だと思っているのなら、この真っ白なキャンパスは部の活動が十分でないと評価されてしまう材料になり兼ねない。それを発見されたと焦っているのだろう。

「それ……」

「ああ、別に俺は生徒会じゃないから、気にしなくていいよ」

「え……?」

「それに紗季がここではなくて屋上で活動してるってことも、俺はよく知ってる」

 安心させるつもりでいったことだが、思惑とは外れて部長さんの表情はどんどん曇る。

 話していて俺の方も困惑してきた。何か俺は決定的な思い違いをしているのではないか。よく観察してみた。部長さんをではない。白紙のキャンパスをだ。そして違和感に気付く。白紙、過ぎるのだ。紗季がここに来なくなって半年以上も経つのに、あまりにも綺麗だ。普通紙だって日焼けする。何らかの変色が見られて当たり前なのに、これではまるで最近用意したもののように思える。

「て、ことは」

 紗季がここに来ている? 

「部長さん――」

 事の次第を確かめるには事情を知る人物に尋ねるのが一番早い。

 俺はてっとり早く答え合わせを願い出た。出るつもりだった。しかしそうする前に扉がスライドする音がしてそれを遮る。反射的に音のした方に顔を向けた。多分部長さんも同時にそれをしただろう。一瞬視界の端に彼女の後頭部が移る。

 俺は、扉をスライドさせてそこにいた人物に直ぐ視線を釘付にされた。

「紗季?」

 いや、違う。

 一瞬そうと思わされたが、あれは紗季ではなく遊季だ。

「え、律?」

「おまえ、なにしてるんだこんな所で」

「あ、えーっと。あはは」

 ぴしゃり。必殺スライドドアシャットアウト。

 扉の外でぱたぱたと軽い足音が疾駆するのが響く。遊季が俺を見て逃げ出した。

 俺もあまりの出来事にうまく状況が整理できない。しかし目の前のキャンパスと今の遊季、二つが直感的に結びつく。俺はそれを確かめるように部長さんに訊いた。

「ここ、使ってるのは遊季なのか?」

「ユウキ、さん?」

 部長氏はきょとんだ。俺の言っていることが解っていない。

「今入ってきただろ。双色紗季の弟の、双色遊季だよ」

 若干苛立って捲し立てる。俺の剣幕は自分が思っているよりも荒々しかったらしく、部長氏に怯えの感情が見えた。おどおどしながら決して目を合わせてくれず、それでも質問にはきっちりと答えてくれる。

「誰ですか、それ……? ここは、最近一週間ずっと双色紗季さんが使っていますけど……」





 部長さんの発言の後、俺は直ぐに部室を飛び出した。

 冬の空気は廊下を走る音をよく響かせる。急いで追いかければまだ遊季に追い付くことは可能だ。

 果たして俺はエントランス手前の踊り場でその背中に追い付く。もし遊季も走っていたならとっくに校舎を出ていただろうが、どうやら走ったのは最初だけだったようだ。明らかに歩調の違う足音に気付き振り返る。遊季は俺を認めるなり僅かに身じろいだ。

「ど、どうしたの、律……?」

 追いかける俺の剣幕が鬼気迫っていたのか、遊季の声は怯えを含んで微かに震えていた。俺は顔は下げずに両手で膝を抑えて息を整える。走って上がった体温。頭に血が上る。自分だってどうしてこんなにも必死に遊季を追いかけたのかは解らない。

「……っ、は」

 動悸はまだ収まらないが話せるくらいには呼吸の乱れもましになった。

 姿勢を正して遊季と向き合う。冷静にその姿を観察して気付いたことが一つ。遊季は髪を下ろしていた。前に街を歩き回った日の放課後もそうしていたので、一瞬違和感を感じなかったのか。そして俺がさっき美術室で遊季を紗季と見間違えたのもこれが原因だ。相変わらずその姿は瓜二つ。正面から向き合っている今でも瞳の色から注意を外せば、その雰囲気や纏う空気は紗季そのものだ。

 いや、待てよ。

 遊季は追い付いてから未だに何事かを口にしない俺を怪訝そうに見ていた。訝しむ視線に晒されながらも俺は思考する。今はそれどころではないのだ。何か、そう、今この瞬間に始まったことではない何か重大な欠落がある、そんな気がする。

 遊季は――紗季の反面だ。

 反面だからこそ。

 瞳の色以外、髪を下ろしただけでまるで見分けが付かないなんて、可笑しい。

「遊季、なんでおまえ、今日は髪を下ろしてるんだ?」

 そんな風にしか質問することができない。俺の中でも考えが纏まっていないからだ。

 確かに遊季と紗季の容姿は鏡写しだ。見た目にはまるで見分けが付かないくらいに似ている。けれどその本質は全く持って異なるのだ。まさに鏡写し。遊季は紗季の反面で、紗季は遊季の反面。互いが互いの補色。だから、見分けが付かないということはどちらかがどちらかを真似ているということ。

 何故、遊季がそんなことをする必要があるのか。

 俺は間隔にして教室一つ分ほどの距離に踏み出す。

「今さっきだって、なんで美術部なんかに現れたんだ?」

 遊季は黙ったまま俺の接近を許す。

「どういうつもりだよ、それだとまるで」

 気付けば二人の距離はとっくに埋まり、俺は遊季の肩を掴んでいた。

「まるで、紗季の真似でもしてるみたいじゃないか」

 収まったはずの動悸がまだ早鐘を打ち始める。整えた息もまた乱れ始め、熱を帯びた荒々しい息を吐き出す。これではまるで暴漢だ。びくり、と遊季の体が小さく震える。俺はそれを肩を掴んだ掌で感じた。……ちょっと待て。俺は直ぐに自分の思考を反芻した。暴漢だと? 遊季は男だろ。紗季の弟なんだ。確かに周囲から見ればこの絵はそう映るかもしれない。だが俺自身がそんな風に考えるなんて可笑しい。それだとまるで、俺が、遊季を女だと思ってしまったみたいじゃないか――。

「律……痛い」

「答えろよ遊季!」

 耐え切れずに怒髪した。なんだどうなってるんだ、これは。

 妙な胸騒ぎがする。蒼の時と同じだ。違和感に手を伸ばせば白いノイズが入って邪魔をする。寒気が指先まで凍てつかせる。もう何度目だ。この感覚は。全部が全部白に覆われて何も考えられなくなる感じ。吹雪くような風の音。黒に疎らな白のベール。琥珀色の瞳に冷たい両肩――違う、これは遊季だ。瞳の色は群青の、肩にだって体温が通っていて――

「何してんだ……?」

 この場になかった男の声に俺はゆっくりと振り向いた。背にしていた階段の中腹から九ノ瀬が降りてくる。長身の生徒会長は幼馴染みを見る目に冷ややかな蔑みを含み俺を見下ろす。すぐさま弁解へと思考が移るが、一体何をどう説明すればいい? 今の状況では、何を言っても俺の頭が可笑しいとしか思えない。自分の置かれた状況を、俺は何故か冷静に把握した。

 落ち着け。まずは掴んでいた遊季の肩を解放する。それから体ごと九ノ瀬を振り返った。その頃になると九ノ瀬はもうとっくに階段を下り終え、俺とは二メートルほどの間隔を置いて立ち止まる。

「下が何か騒がしいから来てみれば、律、おまえ何してるんだよ」

 九ノ瀬が俺の後ろの遊季を見た。

 そもそも言い訳を考える必要なんてない。九ノ瀬なら遊季が髪を下ろしたくらいでは紗季と見間違えることなんてないだろう。現状で浮かぶ疑問は俺と同じ。そう考えると九ノ瀬が俺にとっての希望のように思えた。

 俺の肩越しに遊季を見ながら、しかし九ノ瀬は一秒前までの俺の期待をあっさりと断ち切る。

「おまえも……紗季。こんなところで喧嘩なんてすんなよ」

 耳を疑った。肺が凍結したみたいな息苦しさに襲われる。俺は再度九ノ瀬の言葉を思い出す。聞き間違いだろうか。こいつは今、遊季のことを紗季と呼んだのか。ただ遊季が髪を下ろしただけでこいつが、俺と同じこの男が二人を間違えるのか。

「……っ。おい、冗談はよせよ九ノ瀬」

 抑えたつもりだが動揺は隠しきれない。震えた低い声で言って九ノ瀬を睨みつける。

 遊季が紗季を騙ることも、九ノ瀬がそれに悪乗りすることも俺には酷く背徳的に思えたのだ。

 九ノ瀬が俺に目線を戻す。こいつは、俺の憤りに対してあっけらかんと、悪意など微塵も滲まない目で俺を見る。まるで俺が精神異常者であると言っているみたいだ。自分が何を責められているのか、まるで解らない。九ノ瀬の表情はそんな風に怪訝だ。

「冗談? 何のことだ」

「だから、おまえ今」

「おい紗季、こいつ、さっきからこんななのか?」

 性懲りもなくそんなことを言う九ノ瀬の胸倉を今度こそ掴み上げた。喉が圧迫されて苦悶が漏れる。俺は敵意を明確にして九ノ瀬を睨む。次に口から出るのは罵倒の言葉だ。もはや抑えきれない雑言が大音声で廊下に響く。そのはずだった。

 遊季が口を挟まなければ。

「止めてよ律! 急にどうしたの?」

「っ、うるさい! 放せ!」

「ねえ、わたしが何かした? ごめんね、律、謝るから、とにかく渚を放して!」

「黙ってろ!」

 遊季に肩を掴んで揺らされる。そんな華奢な力なんて意に介することはないが、気になるのはそこじゃない。わたし、と言ったのだ。普段の遊季の一人称は僕だ。遊季は見た目も内面も確かに女染みているが、自称だけは男のそれだったはずだろ。

 どうやら遊季と九ノ瀬は共謀して俺を何かの陰謀に陥れようとしているみたいだ。

 遊季は本気で紗季になりきるつもりのようだし、九ノ瀬もそれに便乗している。

 何が目的かは知らないがさすがに悪趣味すぎる。発案がどっちかは知らないが、遊季に紗季を騙らせるのもそんなことに乗っかるのもとんでもない冒涜だ。だって、紗季は――

 遊季に揺らされる肩とは逆の肩。九ノ瀬がそこを掴んだと気付いた頃には既に、俺の視界は九十度回転した後。冷たい廊下に半身を打ち付ける衝撃を味わい、何が起こったのかを理解するのに少し時間がかかった。

「てめえ。紗季に何すんだよ」

 廊下に伏すことを九ノ瀬は許さない。俺がそうしたように今度は九ノ瀬が俺を拘束する。体勢が悪い分抜けるのはこっちの方が難しそうだ。だがそんなことなど関係ない。頭に血が上った今の状況でそんな風に素直な諦めで自制が利くはずもなかった。

 俺はありったけの握力で九ノ瀬の手首を締め上げる。首が締まるのも気にせずに膝を立てて、額を思い切り九ノ瀬の額に打ち付けた。鼻と鼻が触れ合う近距離で睨み合う。お互いに瞳の奥を抉るような視線を交わした。

 そこまでして解ったことがある。

 一つは九ノ瀬が、俺と同じように本気で怒っていること。

 もう一つは、こいつが冗談なんて言っていないことだ。

 本気で俺に怒髪し、本気で遊季のことを紗季だなんて呼んでいる。

 九ノ瀬の目に戸惑いが映る。今の視線の交差で互いの内心が通じた。恐らく九ノ瀬も俺と同じ。さっきまで本気で俺が性質の悪い冗談を言っているだと思い、今はそうでないと理解した。だから二人して困惑する。その中で俺は九ノ瀬の拘束が弱ったのを俺は見逃さない。直ぐに手を払って立ち上がった。

「……」

 無言の睨み合いは探り探りで、どちらも何を訴えたいのかまるで解らない。自分の主張が正しいと確信する上で、しかし相手の心中を否定できない。だから問答に言葉はなく、生温い視線の殺し合いは続く。

「二人ともどうしたの……律も、渚も可笑しいよ」

「遊季……」

 再度、確かめるように俺はその名を口にする。

 このまま黙っていても埒が明かない。俺は九ノ瀬に向き直る。もう射抜くような視線で構えることはせず、努めて冷静になるたけ穏やかな口調で訊いた。

「本気でこいつが、紗季だと思ってるんだな?」

「だから、なんだよ」

「……だったら」

 九ノ瀬の言葉に再び燃え上がった激情を拳をきつく握って抑え込む。爪が食い込んで痛い。その痛みがぎりぎりのところで感情の滂沱を留めた。

「連れてきてやる。紗季を連れてきてやる、そしたら、こんな悪い冗談はもう止めろ」

「な……だからおまえ、紗季ならここに――て、おい! 律!」

 止める九ノ瀬の言葉になど耳を貸さない。俺は既に駆けだして、遊季の脇を擦り抜けエントランスの出口にまで差し掛かっていた。そこでふと立ち止まる。九ノ瀬が追いかけているかを確認したかったのではない。捨て台詞を残す相手がまだ一人いたことを思い出したのだ。

「おまえもだ、遊季。何のつもりか知らんが、もう紗季を騙るな」

 目指すのは新棟の屋上。

 紗季の定位置、この街が一望できる場所。

 どんな偶然だろうか。

 今は夕暮れ、紗季が描きたいと言う街の風景が映える時間だった。

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