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Ipomoea  作者: Tanahituzi


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第8章 数歩後ろの靴音

 閉鎖された倉庫の戸には、古い荷受けの時刻が残っていた。上から打ちつけた板で半分隠れているが、朝と夕方に一度ずつ舟を着けていた頃のものらしい。アルバは戸の脇へ立ち、キースが鍵を回すのを待った。川では、荷を積んだ平底舟が一隻、向かいの岸へ寄せられている。竿を引き上げる音に混じり、倉庫の中でも、何かが小さく鳴った。


 カイを治療先へ送った仲介業者の帳簿が、ここにあるという。診療所から出た紹介票の控えを辿り、書類の受け取りと移送の手配を引き受けた者へ照会して、この住所が出た。返事を待つ間に、カイが温室へ逃げ込んでから三週目に入っていた。業者の窓口は別の通りにあるが、帳簿と荷は河岸に置いている。倉庫を管理する男は、借り主から閉鎖したと聞いたと言い、軍の確認書を受け取って鍵を持ってきた。


「閉じてからも、出入りがあります」とキースが言った。鍵を抜き、敷居の内側を指す。外で乾いた泥は、ここへ入るとまだ色が濃い。奥へ続く靴跡が、埃の上を二筋横切っていた。アルバは管理人に、借り主が戻ったら隣の事務所で待たせるよう伝えた。荷揚げ口には二人の兵を残し、キースへ裏の通路を見させてから、戸を押した。


 ニルは戸口の外で、鞄の肩紐を短くしていた。薬剤を運んだ形跡があれば、その場で確かめてもらうために同行させた。今朝、研究所から届いた紙にも、カイは意識が戻っていないとあった。母親と妹の面会には兵をつけたが、本人から話を聞ける状態にはなっていない。腕の処置も薬剤の解析も続き、供給元はまだ分かっていない。ニルは中を覗くと、窓の位置を見て、「灯はありますか」と尋ねた。


「先に中を見る。入口で待て」


 アルバは戸を大きく開き、足元から奥へ目を移した。閉鎖したと聞いた割には、箱が多い。左右の壁に棚があり、中央だけ荷車の通る幅が残されていた。奥には川側の荷揚げ口、その手前に上階へ続く階段がある。人影は見えなかった。片側の窓の板を外して光を入れると、ニルが戸口から呼ばれるのを待っていた。


 下の棚には、蓋を外した木筒が並んでいた。中身はなく、内側へ詰めた布だけが残っている。一つを横から見ると、カイの持っていたアンプルを収める筒と、口の太さが似ていた。ニルはその前でしゃがみ、触れる前にアルバへ目を向けた。


「これ、持ち上げていいですか」

「外側を先に写す」


 キースが裏から戻り、帳面へ位置と数を書いた。


 ニルが木筒を光へ寄せると、底の布に細い硝子が引っ掛かっていた。口の封じられた部分だけが割れて残っている。


「同じ寸法です。包む布も。ですが、これだけでは中身まで同じとは言えません」


 ニルは箱の縁へ置かれた札を拾いかけ、指先を止めた。キースが札の向きを写してから布を差し出すと、ようやくそちらへ載せる。札には四一七まで読める数字があった。その後ろは、貼られていた面ごと剥がれている。


「薬が通ったか」

「少なくとも、封じた硝子の容器は運んでいます。中身は、残ったものを調べないと。液が染みた布も、ほかと混ぜないでください」


 ニルは空の木筒を戻し、奥の箱にも同じ仕切りがあることを示した。アルバはカイのアンプルにあった四一七、横線、〇六を思い出した。番号の続きを、欠けた札へ足すわけにはいかない。キースへ札ごと包むよう言い、棚の先にある机へ移った。


 


 机の引き出しは閉まっていなかった。中には紐で束ねた送り状と、革の背をつけた帳簿が二冊ある。薄い方を開くと、診療所の受付印と、紹介票にあった番号が見つかった。その行にはカイ・レドとあり、書類受領、移送手配の欄に日付が入っている。行き先は別紙参照とだけ書かれ、束の上から二枚をめくっても、その別紙は出てこなかった。


 厚い方は、河岸や工房へ人を送った記録だった。仕事の日数と賃金の脇に、寝床代、食事代、斡旋料が引かれている。受け取る額より借りの残る額が大きい行もあった。離職の申し出に不可と朱が入り、その後も食事代だけは加算されていた。何頁か先では、欄の作りが変わる。職歴の代わりに年齢と身体の特徴、賃金の代わりに引渡代金が並んでいた。十歳とある者の横には、受取先の印だけが押されている。アルバはそこを開いたまま、キースに二冊を分けて写すよう言った。


「子供も扱っていますね」


 ニルが机の横へ来た。紙へ目を近づけ、端の細かい字を追う。


「この行は、翼痕。こちらは臍なし、と」


 アルバも同じ行を見た。少年、十一前後、灰褐色。金額の欄は空き、引渡しも済んでいない。ほかの記載を確かめようとした時、頭上で木の軋む音がした。川から聞こえる箱の音とは違い、一度押しては止め、また押す間があった。


 ニルが顔を上げた。アルバは口を開く前に手で止め、階段の方へ向いた。上には荷を吊るための滑車があり、その脇の床板から、埃が少しずつ落ちている。何かを運ぶ足音はしない。蓋の端をこじるような細い音が、もう一度、同じところから聞こえた。


     *


 階段の上には、床を張った広い荷置場があった。川側の壁には荷を取り込む大きな戸があり、今は閉じている。その上を二本の梁が渡り、奥の高窓へ続いていた。手摺は階段の周りにしかなく、中央の吹き抜けからは、下の机と箱が見える。アルバは最後の段へ体重を掛ける前に、箱の陰で動く肘を見つけた。


 子供が一人、保存食の箱へ膝をついていた。細い金具を蓋の隙間へ入れ、片手で音を押さえている。暗い灰褐色の髪は耳の上で不揃いに切れ、肘の抜けた上着は、肩に対して大きすぎた。蓋が浮くと金具を抜き、できた隙間から薄いパンを一枚引き出す。端を口へ運びかけて、階段にいるアルバへ顔を向けた。


「そこに何人いる」


 アルバが聞くと、少年はパンを上着の中へ入れた。返事より先に、後ろの箱へ足を掛ける。アルバは階段を上がり切らずに止まり、「下りるなら、こっちが空いてる」と言った。少年の目はアルバの顔に留まらず、軍服、腰の短剣、背後に上がってきたニルへ動いた。


 階下で戸が鳴った。開けておいた正面の戸とは反対、壁際の小さい通用口だった。アルバが吹き抜けへ目を向けると、男が二人入ってきた。先の男は腰に鍵を下げ、後ろの男は荷扱い用の短い鉤棒を持っている。机の上へ出された帳簿を見て、先の男の足が止まった。


「何をしてる。ここは、もう使っていない」

「軍の確認だ。紹介記録を預かる。名を言え」


 アルバは階段を一段下り、ニルを踊り場の壁側へ寄せた。男は軍服を見ると一度戸へ顔を戻したが、上の少年に気づき、声を強くした。


「おい、お前。そこから下りろ」


 少年は蓋の開いた箱を踏み、さらに高い棚へ移った。「そいつを逃がすな」と男が後ろへ言い、二人目が鉤棒を肩へ上げた。


「止まれ」


 アルバが階段を下りる間に、男は棒を上へ投げようとした。アルバは横から腕を打ち、鉤の向きを壁へ逸らした。鉄が棚へ食い込み、男が引き抜く前に柄を押さえる。引く力を戻すと、男の肩が前へ落ちた。膝を床へつかせ、棒を引き抜いて通路の奥へ滑らせたところで、もう一人が机の引き出しへ手を伸ばした。


 帳簿を取る手ではなかった。短い刃が光り、アルバが立つと胸の高さへ出てきた。机と階段の間は狭く、後ろへ下がればニルのいる段へ押される。アルバは左手で机の角を支え、男の腕が伸び切る前に身体を寄せた。刃のある手首を机へ落とし、もう一方の肘を返す。男が踏ん張る足を払うと、机の脇へ身体が落ちた。その肩を床へ押さえ、刃を離させた。


「動くな」


 刃を離した男へ言った時、上で箱が倒れた。少年が棚の端を蹴り、梁へ移った。背の布が棚の釘に掛かり、裂けたまま下へ垂れる。足の置ける幅は靴底ほどしかないのに、そちらへ向く時だけ、肘が大きく外へ開く。肩の後ろに何もない身体を、荷揚げ戸の側へ傾けている。アルバは梁の先を見た。高窓は細く開いていたが、外側には足場がなかった。


「窓の下は川だ。そっちへ出るな」


 声を掛けると、少年は梁の上で膝を折った。裂けた上着の下から、痩せた身体が肩から脇腹まで見えている。肩甲骨の脇に、左右へ伸びる古い痕があった。少年は片手で布を引き寄せたが、その動きで重心がずれ、もう片方の腕を外へ張り直した。


 下の男が腰を浮かせたので、アルバは腕を押さえ直した。キースが通用口から入り、棒を取られた方の男を伏せさせる。荷揚げ口にいた兵も来て、二人の手を背へ回した。鍵のある男は床から少年を見上げ、「そいつもこっちへ渡せ。引渡しの話がついてる」と言った。


「誰と」

「あんたらに関係はない」

「相手の名を聞いてる」


 男は顔を床へ戻し、それ以上答えなかった。


 


 アルバはキースへ、男たちを離して置くよう言った。返事を取る間に口を合わせられたくない。引き出しの刃はその場で包み、二冊の帳簿も頁を抜かずに預かる。男を兵へ渡すと、空いた右手が短剣の柄へ戻った。男が少年を返せともう一度言ったが、上へ人を行かせる命令にはならなかった。兵の一人が階段を見たので、「そこは空けろ」と伝えた。


 ニルは踊り場に残り、少年の背へ顔を向けていた。「翼の痕だと思います」と、小さい声で言う。


「位置が、左右とも。肩の動かし方も、人間だけの身体とは――」

「後だ」


 アルバが言うと、ニルは口を閉じた。だが、視線はまだ梁へ向いている。少年はその視線を追い、裂けた布を脇へ押し込んだ。


 梁には滑車の紐が垂れていた。少年はそれを掴まず、壁へ肩を寄せて座り直す。薄いパンが上着の内側から落ち、膝の上で割れた。落ちる欠片を急いで受け、片手の中へ集めている。アルバは階段の下からその手を見た。上へ追えば、高窓か、足場のない荷揚げ戸を選ぶかもしれない。少年を降ろすために、まず梁を塞ぐ必要はなかった。


     *


 アルバは短剣の柄から手を離し、階段からも二歩退いた。脇に低い箱があったので、蓋の埃を布で拭った。昼に食うつもりで買ったパンを出し、包みを開く。紙の下には小さなチーズもあった。どちらも半分にして一方を紙へ載せ、少年のいる梁から見える位置へ置いた。


「食え」


 言ってから、壁側へ寄った。残った方のパンをちぎって口へ入れると、思っていたより乾いていた。少年はパンより、アルバの腰を見ていた。鞘は革帯についたままだが、手は離れている。次に、キースが男たちを連れていく方へ目を向けた。荷揚げ口から外へ出る靴音が遠ざかり、戸が閉じられても、少年はまだ動かなかった。


「ここにも、もう一人いるかもしれません」とニルが言った。アルバが見ると、箱の陰と、少年の視線の行く先を比べている。キースは上階の奥を下から見通し、通用口の外も確かめていた。「誰か待ってるか」と少年へ聞くと、「いない」と、初めて返事があった。顔は梁の影に残っていたが、口の中に入れたパンを飲み込もうとして、喉が二度動いた。

「水も要るか」


 アルバは水筒を出し、蓋へ注いだ。少年はパンの包み紙を見て、「そっちへ置くな」と言った。アルバはパンから離れた角へ蓋を移した。ニルが顔を上げて何か聞きかけたが、その前に少年が梁の端へ足をずらしたので、二人とも黙った。


 下りる時にも、少年は上がってきた棚を使った。梁から足を伸ばし、棚板へ爪先を掛ける。身体が離れる瞬間に両肘が開き、掴んだ木の端で肩が揺れた。下の箱へ移っても、アルバには近づかない。階段を三段下りたところで止まり、踊り場にいるニルへ顎を向けた。


「そっちも退いて」


 ニルは壁へ寄りかけ、通る幅が変わらないことに気づくと、下まで下りた。


 床へ来た少年は、箱の前でパンを見た。頬は薄く、近くで見る目は黄褐色だった。靴の片方には紐がなく、踵の革を内側へ踏んでいる。


「これ、幾ら」

「要らん」

「後から、払えって言うの」

「言わん」


 アルバが答えると、少年はパンへ手を伸ばした。チーズには先に鼻を近づけ、端を少しだけ齧ってから、残りをパンと一緒に掴んだ。


 一口が大きかった。噛み切る前に次のところへ歯を掛け、頬の片側が膨らんだまま、蓋の水を取ろうとする。アルバは水筒を箱へ置き、蓋を持ち上げる幅を空けた。少年が飲むと、喉につかえていたものが下りたらしく、口を閉じて息をした。


「誰も取らん。ゆっくり噛め」


 少年は返事をせず、少しだけ小さくちぎった方を口へ入れた。


 ニルが少年の腕と顔を順に見た。


「ここで治療を受けていたんですか。薬を渡されたことは」

「ない。食い物があるから来ただけ」


 少年は空いた蓋を置いたが、パンは離さなかった。


「あいつらがいない時に。薬なんか、飲んでない」

「怪我はしていませんか」

「下りた時に見てたろ」


 ニルは少年の足元へ目を向けた。歩けることと怪我がないことは違う、と言いかけたようだったが、少年が背を壁へ寄せると、その位置から尋ねるのをやめた。


 カイの名があった綴りと、子供の引渡代金が並ぶ帳簿は別だった。同じ机から出たからといって、同じことをされたと決めるわけにはいかない。今聞いたのは、食べ物を盗りに来たという話だ。アルバは階段の上に残った保存食の箱へ目をやり、キースに、そこも開いた状態で記録させた。少年の説明の途中で、薬の話を足す必要はなかった。


「あんたら、何?」


 少年が聞いた。パンの半分を食べ終え、紙の端を片手で折っている。アルバは「軍人だ」と答えた。


「それは見りゃ分かる。あっちは」

「研究者です。王立エヴァン植物医術研究所の。植物と、植物を使った薬の研究をしています」


 ニルが答えると、少年はその鞄を見た。


「じゃあ、何で僕を見てるの」


 ニルは少年の背から顔へ視線を戻した。


「翼の痕が、気になったので」

「金になる?」


 問いが早かった。ニルは一度口を開き、閉じてから、「売るために見たわけではありません」と答えた。少年はニルを見たまま、持っている紙を二度折った。アルバは二人の間へ入らず、箱の上に残った水筒を取った。棚へ逃げた身体を見ていたのは、自分も同じだった。だが、少年が確かめていることは、二人が何を見つけたかではない。


 


「帰る所は」


 アルバが聞くと、少年は正面の戸を見た。


「別に」

「親か、待っている者は」

「いない」


 その言葉の後に、行く場所の名は続かなかった。外へ目を向けたまま、靴の踵を足で直している。


「今日はどこで寝る」

「あんたに言うことじゃない」


 アルバは答えず、靴の薄くなった底を見た。日が落ちれば、河岸の石は昼の熱をすぐ失う。ここへ残すわけにはいかず、かといって、男たちを取り調べる詰所に寝床があるわけでもなかった。


「じゃあ、うちに来ます?」


 ニルが言った。


 アルバは顔を向けた。ニルは自分の鞄を持ち上げ、布で包んだ試料が潰れないよう、肩紐を掛け直している。


「部屋はありますし。箱を動かせば使えます」

「お前、それ今決めるのか」

「他にどこへ?」


 問い返され、アルバは少年を見た。家の物置兼客室には、ニルの空鉢と、自分の使っていない荷箱がある。戸は閉まり、窓もある。今夜寝かせるだけなら、どちらも壁際へ寄せられる。


「子供を連れて帰るんだぞ」

「寝る場所がないんでしょう。あの部屋なら、空けられませんか」

「空けられる」


 アルバが答えると、ニルは頷いた。それで話が済んだ顔だった。何か届けが要るのではないか、という考えは残ったが、今ここで、それを理由に追い出す方へは進まなかった。アルバは自分の荷箱の重さを思い出した。中にあるのは予備の装具だけで、一人でも移せる。


 少年は二人の話を聞き、ニルへ目を戻した。


「あんたの家に、こいつもいるの」

「同じ家です」

「軍の建物?」

「違う」とアルバが答えた。


 少年の視線がまた腰へ下がる。


「出られる?」

「外から鍵は掛けん」


 そこまで言うと、少年は食べかけのパンを紙で包み直した。チーズの欠片も同じところへ入れ、手の中へ隠れる大きさに畳んだ。


 キースが帳簿を包んで戻ってきた。少年の前では頁を開かず、机から出たものは別々にまとめたと告げる。アルバは試料の包みだけニルに預け、残る物は詰所へ運ばせた。男たちの名と、まだ答えていない引渡先も取る。キースは頷き、少年の立つ箱の前を避けて、正面の戸を開けた。外の光は低くなり、敷居の上へ、舟の綱の影が細く揺れていた。


 ニルが戸口で振り返った。


「歩けますか」


 少年は上着の裾を引き、裂けたところを背へ押しつけた。


「さっき歩いた」

「そうですね」


 ニルは鞄を戸に擦らないよう抱え直し、先に外へ出た。アルバも階段の上を最後に確かめ、荷揚げ口に残る兵へ倉庫の見張りを引き継いだ。


 戸を抜けると、川から来る風が袖の中へ入った。ニルは石段の脇で、倉庫へ来た道を見返している。アルバが帰りの道へ向くと、ニルも隣を歩き始めた。二人の後ろで敷居を跨ぐ音がし、少し遅れて、靴底の擦れる音が続いた。少年は紙包みを抱え、手の届かない距離から歩いていた。


 ついていくとは言わなかった。アルバも、その言葉を待って足を止めなかった。荷車を避けて道の端へ寄ると、後ろの足音も同じ方へ寄った。次の角を曲がる時にも、小さな靴音は、数歩後ろから離れずについてきた。

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