第7章 紙の外の行き先
同意書の二枚目には、発熱と疼痛、四肢の震え、治療前より症状が強くなる可能性が、同じ大きさの字で並んでいた。ニルは紙を持ち上げず、卓へ伏せてあった一枚目をその隣に戻した。新しい導路再生治療は試験段階にあり、効果は保証されない。参加は本人の自由意思による。その下には、滞在中の食事と寝床、本人への手当、家族へ渡す金額が記されている。軍から届いた受取記録の写しと比べると、二度とも、ここに書かれた額が支払われていた。
診察室の窓は細く開いていた。外の庇で待つ人の声に混じって、荷車の音が入ってくる。窓の下には、洗った布を掛けた棒と、腕を冷やすための浅い水桶があった。ニルの前に座る医師は、棚から三枚目を抜き、先の二枚へ重ならない場所に置いた。
「署名のある控えはこちらです。原紙は本人に持たせました」
下の欄にカイ・レドとあり、その横には日付と、説明に立ち会った者の名があった。
「一度、持ち帰っていますか」
「ええ。家族と相談すると言って。次に来た時に署名しました」
医師は自分の名のある欄を指した。
「右手が痛むので、紙を押さえてくれと言われましたが、字は本人が書いています」
ニルは文字の端にできたインクの溜まりを見た。この字だけでは、どの程度の痛みだったかまでは分からない。手元の観察記録と同じ名前が、そこにあった。
カイが温室へ来てから、八日目だった。診療記録の照会は、エヴァンの医師から正式に出されている。紹介時の説明も確かめたいとニルが申し出ると、マレナは、薬剤の解析表と観察記録に加え、受け取る書類の一覧まで持たせた。研究の説明だけして帰らないためだと言われた。書類の枚数を記した。危険性の説明も、意思を確認する欄もある。手続きに不足があるようには見えなかった。医師は診療記録の綴りを開いた。
事故の後の診療記録には、皮膚の傷が塞がった時期と、それからも続いた右腕の熱感が、別々に書かれていた。握力だけなら戻っている。魔力を使うと震えが出る。使わずに過ごした日の翌朝には痛みが弱かったが、荷を運んだ後には眠れないほど強くなった。医師は欄外の短い記載を指し、「仕事を休めと言っても、何日休めば戻れるか聞かれました」と話した。
「そこに答えを出せなかったんです」
「以前の導路へ流れる量は、測っていますか」
「二度。ここで測れる深さは限られますが、肘より先は不均等でした。今の腕にも、同じところが残っていますか」
ニルは持参した図を広げ、自然の導路を示した。後から作られた枝には別の印をつけてある。医師が身を寄せたので、片の配置まで含めて説明すると、最初に示した損傷部よりも、その外側を回る線に視線が留まった。
「これが、治療でできたものですか」
「できた経緯はまだ分かりません。この枝が、今も流れを保っていることは確かです」
「ここまで繋がると聞いていましたが」
医師は図の線へ指を置きかけ、触れずに戻した。
「熱が高いのは、これのために」
「その可能性はあります。別の炎症も調べていますから、全部を一つの原因にはできません」
ニルは昨夕の体温を示し、意識が戻っていないことも伝えた。医師は日付を見たまま、綴りの次の頁を開かなかった。
扉が叩かれ、薬を渡す窓口の職員が顔を出した。腕に巻いた布を替えてほしい患者がいるという。医師がすぐ診ると答えると、職員は引き返しかけ、卓の書類に気づいて止まった。
「その方の手続きでしたら、給付の記録も出ています。二度分です」
「それは軍から写しをもらっています」とニルは答えた。
「紹介の時に渡した説明も、これですか」
「はい。本人の分と、家族の方への案内を」
職員は卓へ来て、三枚目の下を指した。
「本人が署名しています。手当の受取先も、ご自身で指定されました」
ニルは頷き、まだ読んでいなかった二枚目の下段へ目を戻した。危険性を記した段落と、費用についての段落の間に、撤回についての項がある。参加の継続を希望しない場合は担当者へ申し出ること。その次の行だけは、前後よりも少し広く余白が取られていた。
『いつでも撤回できます。』
「撤回した時の処置は、別の紙にありますか」と聞くと、職員は医師を見た。
「治療を受けるのを止める時は、向こうで相談することになっています。こちらは紹介までなので」
「本人がこちらへ戻ってきた場合は」
「次の診察日に来てもらえれば、診ます」と医師が答えた。
「試験の薬は、ここには置いていませんが。ほかの症状なら、いつもの薬を出せます」
ニルは解析表を出し、図の脇へ置いた。昨日までに分けられた成分のうち、朝顔由来のものと、結晶との結合を保つものには印がある。痛みを抑えるためだけの配合ではなかった。
「紹介先からは、何か経過の連絡が来ていますか」
「月の報告が一枚。家族にはそれで答えています」
医師が綴りの後ろから出した紙には、カイの名と、投与を続けている旨があった。用量の変更はない。経過の欄には治療継続中とあり、その下へ、症状が落ち着いても服薬を中断させないようにという一行が添えられている。どうして中断してはいけないかは書かれていなかった。
ニルは、腕の図と解析表を近づけた。結晶を含む橋を身体へ残す時、周囲との結合が保たれなければ、魔力が通るより先に構造がほどける。手元の試料でも、それは起きた。カイの腕にはその橋より長く残っている枝があるが、残っていることと、薬がなくても働くことは同じではない。持って逃げてきたアンプルにも、ここにある中断を禁じる一行にも、それなら理由がつく。
「この注意は、署名する前にも伝えたんですか」
「薬は指示通りに使ってほしい、と。それと、熱が出たら自分で量を変えず、医師へ知らせるように」
ニルは職員へ顔を向けた。
「署名したあと、止められなくなることは説明したんですか?」
職員は二枚目を引き寄せ、危険性の段落へ目を落とした。
「副作用の説明はしています。治療中に熱や痛みが出ることは、ここにも」
「副作用が出ることではありません。薬を止めた時に、何が起きるかです」
医師が解析表へ手を伸ばした。
「止めると、悪くなる薬なのですか」
「まだ全部は分かりません。ただ、この配合は、新しく作られた通り道の結合を保つ方にも働くはずです。急に失われると、通り道が崩れる可能性があります」
「元の導路が、まだ傷んでいるのに」
「ええ。流れていた量が、戻る先へ一度に掛かるおそれがあります」
そこまで言って、ニルは図へ指を戻した。式の説明を足しかけたが、医師はすでに、二つの線が合流するところを見ていた。
「それは、私たちが受け取った説明にはありません」
医師は報告を裏返し、白い裏面まで確かめた。職員も立ったまま動かなかったが、やがて「詳しい処置は、治療する側が説明するのでは」と言った。
「ですから、こちらで署名して送り出す前に、どこまで伝えたかを聞いています」
ニルが答えると、廊下で水桶の底が床へ当たった。医師はそちらへ目を向け、職員に、待っている患者の布を先に外しておくよう頼んだ。
職員が出ていってから、医師は自分の名のある欄を見た。
「治療の詳しい説明は、向こうへ着いてから受けると聞いていました。私は、ここにある危険性と、費用が掛からないことを説明しました。腕が治ると保証はしていません。それでも、働けるようになる可能性があるなら、話を聞きたいと言われて」
ニルは羽ペンを取り、いま聞いた内容を記した。署名の横に立会人の名があっても、そこに立っていた人が薬剤の作用を知っていたとは限らなかった。
窓の外で咳が続いた。医師は紙を揃えかけて手を止め、「少し診てきます。写しは取って構いません」と言った。ニルは頷き、元の綴りから外した順番を余白へ控えた。開いた扉の向こうで、先ほどの職員が患者の腕を水桶の上に支えている。医師は濡れた布を受け取り、皮膚の色を確かめてから、新しい布を出させた。処置の途中で、患者が服の内側へ手を入れると、診察代は要らないと、手を動かしたまま答えた。
ニルは同意書の端を押さえ、撤回の項を書き写した。署名を受けた時の記録の後ろには、紹介の事務欄もあった。送付日、受付印、書類を運ぶ担当。その下に、小さく紹介取扱費と印刷され、額の欄だけが空いている。医師が戻ってから尋ねると、「会計のことは、運営を預かる者がまとめています」と言われた。診療に使う薬の寄付とは、別の勘定らしい。
「紹介することで、こちらへ支払いがあるんですか」
「そこは私からは答えられません。給付金は患者の家族に渡しますが、運営の勘定を窓口の者が扱うことはないので」
医師は事務欄の上にある印を見て、担当者へ確かめると答えた。ニルは欄名だけを写した。空いている欄に金額があったとは書けない。誰かが費用を受け取る仕組みがあったとしても、それが診察した医師や、腕を支えていた職員の収入だったかは分からなかった。
帰る前に、投薬を中止する時の手順と、参加を撤回した後の治療について、紹介先から渡された文書がほかにないか頼んだ。医師は棚の薄い綴りを二つ開いたが、用量に関する注意以上のものは出てこなかった。「改めて尋ねます」と言われ、ニルはエヴァンの宛先を渡した。写しを鞄へ入れると、入り口で渡された書類の一覧は埋まっていた。その裏に、答えを待つ質問が三つ増えていた。
*
研究所へ戻る途中で買ったパンは、実験台へ置く前に、鞄から取り出した。紙を包んだ布と同じところへ入れたので、片側だけ平らに潰れている。ニルは研究室の棚に載せ、手を洗ってから、薬剤の解析表を共用室へ持っていった。窓の光は台の半分まで移っていた。朝に用意された試料には蓋が掛かり、操作の途中で止めたものは、札を横向きにして分けられていた。
アンプルの中身は、記録を取った後に分けてあった。すべての成分の働きが分かったわけではないが、二つの試片を繋ぐ層を保つ作用は、確かめられていた。ニルは昨日の試験記録を開き、流れを止めた時の反応だけを見ていたことに気づいた。薬の供給がなくなった時にも保てるかは、まだ試していない。
同じ量を使った硝子板を二枚並べた。以前の研究で作った短い橋であり、カイの腕にある枝を、そのまま再現したものではない。それでも、成分を失う順番によってどこが先にほどけるかは比べられる。片方は液を替えず、もう片方は、流れを保つ位置を動かさないまま、薬剤を含まない液へ少しずつ替える。入れる側と取り出す側を別々に測り、結晶が押し流された分と、結合が崩れた分を分けて記録した。
液が減っただけなら、入口と出口の反応は同じように落ちるはずだった。最初の入れ替えでは、どちらもほとんど変わらない。二度目には、出口側の反応が先に薄くなった。入口にはまだ明るさがあり、その間を繋ぐ細い層の端が、硝子へ貼りついたままめくれていた。ニルは流す量を下げ、拡大硝子を寄せた。測定片を動かす前に時刻を書き、めくれた位置を図へ加える。
扉の開く音がした時にも、ニルは板から目を離さなかった。「一枚、ほどけています。薬剤を外した方です」と言うと、マレナが隣へ来て、残った方を覗いた。
「患者の反応は」
「いまの処置のままです。これは台の上の試料で」
「分かってる。これを見たあと、患者の方で何を変えるつもりか聞いたの」ニルは顔を上げた。
「変えません。まだ、同じ構造だとは言えませんから」
マレナは二枚の札を読み比べた。薬剤を外した方の橋は、測定片を戻しても反応が繋がらなかった。最初に切れた場所からさらに層が剥がれ、入口のすぐ先にだけ細い明るさが残る。ニルはそこで流れを止め、硝子板に触れない位置へ羽ペンを置いた。もう一枚は、まだ形を保っていた。
「今の腕が薬なしで保てるとは考えない方がいいです」
ニルは診療所で写した報告を出した。
「症状が落ち着いても、中断させないようにとあります。本人も薬を持って来ています。配合と、台の上で起きたことを合わせると、急に止めた時に、導路が崩れる可能性があります」
「可能性として、医師へ伝える。どこまで崩れるかは」
「分かりません。新しい枝だけなのか、元の導路との接続まで外れるのか。それに、身体の中ではこの液と同じ速さで失われるわけでもありません」
ニルはカイの腕の図へ、今見えた剥がれ方を描きかけた。ペン先が紙へつく前に止まり、別の用紙を取る。台の上の構造で起きたことを、まだ測っていない身体へ写してはいけなかった。図を分け、関係すると思う箇所だけを、同じ記号で示した。書き終えると、マレナがその用紙を医療区画へ渡す綴りの上へ載せた。
「熱が下がったからといって薬を切れば、今より悪くなるかもしれないのね」
「二枚の片で抑えても、繋がっている部分を保つことはできません。流れる量を落とすことと、通り道が残ることは別なので」
ニルは同意書を出した。
「でも、こっちには、いつでも撤回できるとあります。中断の危険は、紹介した医師も知りませんでした」
マレナは危険性の項を読み、次に署名欄へ移った。
「署名する前の説明は」
「書かれている範囲です。治療費と手当、それから副作用。詳しい処置は、紹介先で説明することになっていたそうです」
「そちらで何を説明されたかは、まだ本人に聞けない」
ニルは頷いた。カイが知っていたかどうかを確かめるには、目が覚めるのを待たなければならない。同意書を読んだだけでは埋められないところが、腕を測る時とは違う形で残っていた。
「薬を急に止められないことと、研究への参加を断れないことは、同じではないでしょう」とマレナが言った。ニルは二枚目へ目を戻した。
「断った後も、薬を使えるなら」
「必要な治療を続けながら、試験を離れる方法があるかどうか。紹介先へ確かめるのはそこよ。どの薬も今すぐ捨てられることを、撤回自由とは言わない」
ニルは鞄から、家族に渡された案内の写しを出した。給付を受け取る窓口はある。治療を離れた後に薬をもらう場所は、どちらの紙にも見つからなかった。
「診療所には、この薬がありません。戻れば診察はできると聞きましたが、同じ処置はできないそうです」
「それも書いて。現時点で分かっている範囲として」
ニルは羽ペンを持ち、医療上の中止手順の下に、撤回後の治療を受け持つ者、継続して使う薬剤の供給先と書いた。自分なら配合を調べられる。代わりの薬も、見つけられるかもしれない。それでこの二行を埋めようとしてから、自分がここにいなかった時のカイを考え、ペンを離した。
マレナが戸口へ目を向けた。
「帰ってから、何か食べた?」
「後で食べます」
「何を」
「パンです。部屋にあります」
マレナは試料を片づける順番を確かめてから、残っている方の測定は助手に引き継ぐと言った。ニルは次の時刻まで自分が見た方が早いと答えかけたが、すでに扉の向こうへ人を呼ばれていた。測定する位置と、液を替えてはいけないことを札の横へ書き、まだ反応を保つ板を端へ寄せた。
研究室へ戻り、卓から紙を退けてパンの包みを開いた。端から食べ、水を飲むと、口の中に残った乾いた粉が流れた。窓辺の鉢は光の向きへ葉を寄せており、下の一枚だけが鉢の縁へ触れている。ニルは食べ終えた手を拭いてから、その葉を縁の内側へ戻した。
棚には、旧研究院から取り寄せる帳面の一覧が置かれていた。返事はまだ来ていない。合流条件を確かめられれば、今日の試料でどこまで腕を説明できるか、もう少し分かるはずだった。ニルは一覧を持ち上げ、その下に置いていた患者の観察記録を抜いた。次に読むつもりだった計算の前に、診療所の医師が実際に説明した内容を書いた紙を置いた。
*
医療区画の扉へ着くと、中から布を絞る音が聞こえた。カイは寝台に横たわり、右腕を支える枠の外へ、指先だけを出していた。二枚の遮断片は別々の留め具につき、その間に、測定用の細片が置かれている。窓の光がまだ入る時刻だったが、腕の下の線を見るために灯も残されていた。ニルが入ると、当直の医師は脈を取り終え、新しい用紙を卓へ移した。
「投薬を切らない方がいいという報告は読みました」と言われ、ニルは試料と人体で分からない部分を説明した。医師は途中で、どの成分がどれほど残っているかを尋ねた。ニルにはまだ答えられなかった。
「ですから、今の量から変える時は、腕の反応を一緒に見てください。熱だけ下がっても、こちらの接続が保たれているとは限りません」
「次の当直にも伝える。薬剤の残りと、調製できる量も確認する」
マレナが後から入り、診療所から借りた記録を医師へ渡した。事故の後の損傷図と、試験参加前に測った値がある。医師が寝台の側へ寄ると、ニルも枠の反対側へ立った。肘の下の線は最初の夜ほど明るくないが、消えてはいなかった。カイの指が少し曲がり、留め具の布へ爪が触れた。ニルは灯を近づけかけたが、先へ出していた手を下ろし、カイの顔へ目を向けた。
瞼は閉じたままだった。眉の間が狭くなり、すぐに元へ戻る。痛みへの反応か、眠っている間の動きかは、この一度では分からない。ニルはカイと呼んだ。返事はなく、医師が指先の動いた時刻を書いた。袖を引いて腕を見せた時には、自分の言葉を聞き、何のために見るのか問い返した。その声の続きを、まだ聞けていなかった。
「家族の面会は、短い時間なら受けられる」と医師が言った。マレナが軍からの依頼を確かめると、明日の午後に、処置の前後を避けて来てもらうことになった。道の分かる者をつけてほしいという一行も、依頼に残っていた。ニルは母親と妹がいると、届けられた聞き取りで知っている。二人がここへ来ても、カイはまだ話せないかもしれなかった。
「腕が治るかは、まだ答えられませんよね」とニルが尋ねると、医師は頷いた。
「いまの状態と、続けている処置を説明する。先の見通しは、分からない部分も伝える」
マレナは面会の返事を記した紙を、書記へ回す方の綴りに入れた。ニルは同意書を広げ、効果を保証しないという行を見た。同じ紙にその言葉があっても、カイが何を期待して名を書いたかまでは、ここからは読めなかった。
医師が枠の脇の布を替え、もう一人の職員が水桶を持ってきた。カイの腕の下には、片に触れない幅で乾いた布が敷き直された。診療所にも、同じような桶と布があった。あちらでは冷やして休めば痛みが弱まったと、記録されている。ここにある腕は、冷やすだけでも、流れを遮るだけでも足りない。誰がどこまで説明したかを調べる間も、必要な薬の量は減らず、次の処置の時刻は来る。
ニルは同意書の写しを卓へ置き、医師へ尋ねたいことを書き足した。薬がどれほど保つか。ここで作れるものは何か。別の場所へ移るなら、引き継がなければならない処置はどれか。いつもの解析なら、最後には必要な値と試料が並ぶ。今日はその横に、薬を渡す者と、治療を受けられる場所を書く欄が要った。
書き終えて顔を上げると、カイの左手が掛布の外へ出ていた。右とは違い、皮膚の下に光る枝は見えない。職員が布を肩まで上げ、左手もその下へ戻した。参加しないと決めた時、カイが自分で歩いてどこへ行けたのか。戻った診療所で、もう一度腕を冷やしてもらうだけで済んだのか。ニルはその問いを、まだ答えのないまま、書類の下の余白へ残した。
紙を畳もうとして、二枚目へ指を戻した。危険性と費用の間にある一文には、消した跡も、後から足した言葉もない。ニルは前後の段落まで読み直し、薬を続けたまま離れられる方法が、どこかに記されていないか探した。
『いつでも撤回できます。』
寝台の脇で測定片を置き直す音がした。ニルは顔を上げ、カイの腕の反応が変わっていないことを確かめた。それから紙へ目を戻し、もう一度、同じ一文を読んだ。




