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Ipomoea  作者: Tanahituzi


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第4章 卓の上の線

 雨の止んだ研究所の裏手では、屋根から落ちる滴だけが、まだ石を叩いていた。アルバは搬入口の前で灯を低く持ち、敷居に残った泥と、その先の踏み石を見た。内側には何人もの靴跡が重なっているが、外の土は雨水に均され、踵の形すら残っていない。温室へ入った男がどちらから来たかと、追ってきた者がどちらへ逃げたかを、ここだけで見分けることはできなかった。


 キースは外壁に沿った細い道の先にいた。壁と資材置場の間を抜けると、低い庇の下に、空の荷車が二台寄せられている。灯が近づく前に、キースは地面を指した。


「ここは降り込んでません。釘のある靴底が一つ。先の戸から出た警備員の靴にはありませんでした」


 湿った土に、爪先と小さな点の列が残っていた。歩幅を取るほどの長さはないが、爪先は研究所の門へではなく、資材置場の向こうへ向いている。


「入口で見たのは二人か」

「警備員が顔を見たのは二人です。後ろは見えてません」

「外にいたのは」

「サーラさんも、来た時には誰も」


 アルバは踏み跡を避けて荷車の脇へ進んだ。逃げた二人が正門を通ったという報告はない。資材置場の奥にある納品用の小門は、閂が外れていた。「ここを開けた者も確かめろ」と言い、木戸を押して外へ出た。


 門の前には、キースが先に見つけていた車輪の溝があった。道端の土へ深く食い込み、二本のうち片方は、壁へ寄るところで幅が広がっている。車を止めて向きを変えた跡だった。アルバは灯を横へ寄せ、溝の底に溜まった水を見た。端は崩れ始めていて、今夜ついたものか、夕方より前のものかは決められない。


「裏向かいの倉の番人が、馬車を見てます」とキースが言った。

「警備員の声が聞こえた後です。屋根つきで、ここから東へ。乗っていた人数は見えない」

「逃げた連中が乗ったところは」

「見てません」


 アルバは小門と、道の曲がる先を見比べた。搬入口へ正面から戻らずとも、壁沿いにここまで来れば馬車へ乗れる。追跡者のために待っていた可能性はあるが、今のところは、同じ時刻に近くを通っただけの馬車だとしても、説明はついた。


「車輪の間隔を取れ。番人の立ってた場所も入れておけ。東の通りは朝に聞く」

「今、先まで見ますか」

「道だけだ。人を見つけても一人で寄るな」


 キースは頷き、細い紐を溝の間へ渡した。アルバは灯を置いて端を押さえた。左腕の包帯が湿った袖の中でずれ、傷に引かれる感じがしたが、紐が土へ触れる前に持ち直した。二人で幅を写し終えると、外壁の向こうから、正門の兵を呼ぶ声が届いた。


 戻った正門では、グラントが帰る職員を名簿で確かめていた。「裏の番人の話は聞いたか」と尋ねると、彼は頷いた。


「見たものだけ書かせています。近所で馬車が消えたとなると、すぐ色も紋章も増えますからね」


 名簿を脇へ置き、布に包んだ拘束具を差し出す。


「こっちも、今使ってる物とは少し違う」


 アルバは乾いた部分を掴み、輪の内側を灯へ向けた。手首を囲む鉄には古い擦れがあるが、その内側に重ねられた遮断用の板は、縁がまだ鋭い。留め金の根元には使われていない穴が一つあり、別の位置で打ち直した鋲だけが白く光った。


「板を替えてるな」

「留め金は古い型です。隊の倉にはもうないが、装備係なら記録を出せるでしょう」


 アルバは輪を閉じずに布へ戻した。軍式の物を持っていたことと、持っていた者が軍人であることは、別に確かめなければならない。


「預かった時刻と、誰が拾ったかも添えろ。現物は詰所へ。照会は装備係から出す」

「承知。外は交代を寄越させます」

「二人残せ。正門と裏。患者に会いに来た者は、用件と名前を取ってから通せ」


 グラントが包みの紐を締め直す間に、アルバは外周の記録を受け取った。実験棟へ入ると、雨音のなくなった廊下の奥で、器具を動かす音が聞こえていた。


 


 準備室では、医師が台に載せた固定枠の留め具を指で押していた。白いものの混じった髪が灯に照らされ、脇には、先ほどより大きい遮断片が置かれている。カイの右腕は布の外へ出たままで、肘の下の光も消えていなかった。ニルはその腕を覗き込み、帳面と測定片を交互に見ている。アルバが入っても顔は上がらず、医師の指が留め具から離れた時にだけ、ペンが止まった。


「この幅なら、二枚を同じ枠に固定できる」と医師が言った。

「出力を上げて、上腕からまとめて落とす。今の角度を維持するより、交代しても扱いやすい」

「それでは導路が焼けます」


 ニルは帳面を置いた。声は大きくなかったが、器具を取ろうとしていた助手の手が止まり、アルバも戸口から一歩入ったところで足を止めた。


「止める前に焼けるというのか」

「奥の方が先に閉じます。新しい枝は、そこへ戻っていますから」


 ニルは腕には触れず、鏡面の板に映る線を示した。


「今も、深い方を強く抑えた時だけ、ここが明るくなっています。二枚を揃えたら、戻る側が先に塞がります」

「なら、浅い方を先に落とせばいい」

「同じ枠では角度が揃います。出力を同じだけ上げても、同じ速さでは止まりません」


 医師は大きい片をまだ持ち上げていなかった。ニルが示した箇所と、記録用紙の数字を見比べてから、「どの時の値だ」と聞く。ニルはすぐに帳面を開き、時刻を指した。続いて、台に残っている測定片を横から見られる位置へ寄せる。アルバには細い明るさの違いしか見えなかったが、医師は指で二行を辿り、助手へ「角度を別々に変えられる留め具を持ってきてくれ」と言った。


「値が下がり続けるとは限らない。脈と腕の温度も、同じ時刻で記録する」


 医師の指示に、ニルは「そうしてください」と答えた。それから、助手の持っていた布へ目を向け、「そこは片の下へ入れないでください。厚みが変わります」と付け加える。家では、アルバが台所にいるだけで戸口の外に待っている男だった。今は年長の医師が言葉を返すのを待たず、必要な位置へ灯を動かしていた。


 アルバは台に近づかず、マレナを廊下へ呼んだ。拘束具を詰所で調べることと、外に兵を残すことを伝えると、彼女は「こちらの警備にも引き継がせます」と答えた。


「患者の身元は」

「まだ名前だけ。着替えの時に出た物は、調べずにまとめてあります」


 彼女が職員を呼ぶと、乾いた盆と、濡れた外套を入れた籠が運ばれてきた。


 盆には、小さな金属の札、木の筒、それから薄い袋が載っていた。袋の口には何度も折り返した跡があり、中の紙の角だけが濡れている。木筒には栓がつき、その隙間から細い硝子が見えた。「薬剤らしい物はこちらに残す。封を開ける前に番号と外側を記録してください」とアルバが言うと、マレナは職員に空の用紙を持ってこさせた。札と紙は、どの服のどこから出たかを添えて軍が預かる。職員が場所を確かめながら書く間、準備室からニルの声が一度聞こえたが、今度は誰かに数値を読み上げさせていた。


 紙を乾かすために袋から抜くと、一枚目には図と、長い題があった。何人かの著者名が並ぶ中に、ニルの名もある。アルバはその箇所へ指を置かず、マレナに紙を向けた。


「ここの研究か」

「移る前の論文ね。本人に確認させます」


 紙を持つ彼女の手は、その先の頁をめくる前に止まった。


「今夜は処置を優先します。明日、写しを寄越してください。薬剤も、調べたところまで連絡する」


 アルバは頷き、所持品を記した用紙に受取人として名を書いた。紙に名前があることは、カイがニルを知っていた理由の一つにはなる。だが、その紙からこの研究所の搬入口まで辿り着けるわけではなかった。誰がここを教えたのかを尋ねる相手は、まだ台の上で目を閉じている。アルバが戸口からもう一度見た時、ニルは新しい留め具を受け取り、片の裏側を覗くために髪を耳の後ろへ押しやっていた。


     *


 翌朝、詰所の机には、まだ湿りの残る外周図と、装備係から借りた古い図表が並んだ。アルバはキースから聞き取りの紙を受け取り、馬車が曲がった通りに印を入れた。夜間に荷を運ぶ車はほかにもあり、色や形の食い違う話を重ねても、一台には絞れない。研究所にいちばん近い角の先で、確かな目撃は途切れていた。


「先を広げる前に、納品の車を外せ」とアルバは言った。

「昨日、資材置場を使った者の名は研究所で取ってる。車輪の間隔も、分かるものは比べろ」


 キースは外周図の一部を写し、調べる道を折り目の内側へ収めた。グラントは机の反対側で拘束具の包みを開いている。装備係の下士官が持ってきた図表には、輪の太さ、留め金の形、内側へ入れる板の枚数が別々に描かれていた。


 下士官は輪の外側を布で拭き、薄くなった刻印を灯へ向けた。


「元はこの型です。今の装備へ替えた後、回収して民間へ払い下げた分がある。ここに処分済みの打刻も残ってます」


 アルバは図表にある位置と見比べた。丸い跡が、古い番号の端へ重なっている。昨夜は泥と擦れに紛れていたが、灯を横から当てれば、後から打った窪みだと分かった。


「どの払い下げか出せるか」

「台帳を取り寄せれば。番号が全部は読めないので、一件とは限りません」


 下士官は、曲がった留め金へ指を移した。


「これは元の型のままですが、板の留め方は違います。正規の修理なら、古い穴をこう残しません」


 グラントが細い木片で内側の板を少し浮かせると、削り直された鉄の下から、元の溝が現れた。輪だけを使い、遮断する部分を別の物へ替えている。


 アルバは報告用紙の「軍式拘束具」の脇へ、旧型、処分済みの打刻あり、遮断部に改造と書き足した。


「現用品の紛失は」

「この型については探しても出ません。今ある物とは留め金も違う」

「分かった。払い下げの先を照会しろ。読めた番号はそのまま添えろ」


 下士官が図表を畳むと、グラントは現物を布へ戻し、昨夜の受取記録と一緒に包んだ。


「兵が持ち出した、とは書けませんね」

「まだな」


 アルバは昨夜の証言を開いた。所属を問われた男は何も示さず、患者を預かっているとだけ言った。


「軍と関係なし、とも書くな。物の行き先を先に取る」


 グラントは頷き、装備係の返答を報告の後ろへ重ねた。


 


 患者の所持品は、別の布の上に出した。金属の札には二十七と刻まれ、裏には浅い枠だけがある。枠内に名前はなく、穴を通っていたはずの紐も残っていなかった。兵の識別票とは形が違う。アルバは大きさと数字を写し、患者本人のものかは未確認と添えた。どこで拾ったかも、誰に渡されたかも聞けないうちは、服に入っていたことしか確かではなかった。


 薬剤アンプルの記録には、細い硝子を封じた形と、札の文字が写されていた。四一七、その後に短い横線を挟んで〇六。研究所の職員は数字だけでなく、横線の位置と、札が巻かれていた向きまで描いている。製造元の名はなかった。内容物は研究所で調べるが、軍の納入記録にも同じ管理番号の付け方がないかを照会する。アルバは装備の記録とは用紙を分け、何を見れば照合できるのかを一行足した。


 最後の紙は、乾いても折り目に皺が残った。筆写された論文は三枚で、図の脇に、小さな字で条件が並んでいる。アルバは一枚ずつ書記に渡し、著者名も省かず写すように言った。数式は読めても、どの数がカイの腕と同じなのかは判断できない。昨夜ニルが台の横に開いていた図と、よく似た分岐があることだけは分かった。


「こんな紙を持って、あの雨の中を来たんですか」とグラントが言った。

「濡らしたくない物だったんでしょうね」


 袋の折り返した口には、紐で縛った跡が二重についていた。アルバは袋も紙の脇へ置くように言った。持っていたことと、紙に書かれた実験へ関わっていたことは同じではない。本人に聞く前に、どちらかへ決めるわけにはいかなかった。


 書記が論文の図を写す間、グラントは昨夜の警備配置を清書した。


「あちらの先生、医者相手でも遠慮しませんね」

「見てたか」

「片を替えに来た時に。間違えた場所へ置いたら、私も叱られました」


 アルバは筆を止め、準備室で灯を動かしたニルの手を思い出した。家で使う器を取る時より迷いがなかった。医師が反論しても引かず、聞かれた記録はすぐ出した。


「言った通りに置けば、値は落ち着いていましたがね」とグラントが続けた。

「あれだけ見えているなら、こちらが横から手を出す方が危ない」

「外を固める。腕は向こうで調べる」


 アルバは警備配置の紙を受け取り、次の交代時刻を確かめた。カイの身体から魔力が噴き出した時、力で押さえることはできるだろう。だが、その下でどちらの導路が先に潰れるかまでは分からない。押さえられることと、治せることを同じにはできなかった。


 昼までに、研究所へ渡す写しが揃った。アルバは原本の所在を添え、外周で分かったことも別紙にして、伝令へ託した。侵入者と拘束具は軍側で調べ、患者の治療と解析は研究所が進める。一方で分かったことをもう一方へ届ける手間は、今夜も明日も残るだろう。


 午後に戻った受領の紙には、マレナの短い報告が添えられていた。薬剤は外側の記録を終え、論文はニル本人が確認した。カイの意識は戻っていない。二枚の片は個別に調整できるようになり、医師が観察を続けているという。アルバは患者の名の下へ、まだ聞けない質問を書き足した。研究所の場所を教えた者、薬剤を渡した者、札の数字。答えの欄はどれも空いたままだった。


     *


 その夜、アルバが家の鍵を回すと、廊下の奥に灯があった。いつもの時刻より早く帰ったためかと思ったが、台所から出てきたニルは、まだ外で着ていた上着を腕に掛けていた。髪の結び目が少し下がり、鞄の脇から、布で包んだ綴りが覗いている。アルバが戸を持ち上げて閉めるのを待ち、「裏の門にも、人を置いているんですか」と尋ねた。


「今も置いてる」

「分かりました」


 ニルは階段の方へ身体を向けかけ、もう一度こちらを見た。


「準備室の窓から兵が見えたので。交代の方も、入口から離れたところに立っていて」


 アルバは腰の革帯を外し、短剣を鞘ごと廊下の鉤へ掛けた。


「近づく側も見る。入口だけだと、外で待たれる」

「昨夜、棚の奥まで空けたのも、そのためですか」

「運ぶ時に塞がないためだ。人が溜まると、見えるものも減る」


 ニルは少し考え、鞄の肩紐を掛け直した。準備室で片の置き方を聞かれた時のように、説明の先を待っている。アルバは上着を脱ぎながら、「あの男は」と聞いた。


「目は覚めていません。熱は下がりましたが、腕の反応は残っています」

「片は」

「医師が見ています。調整する幅を決めたので、今夜の観察はできます」


 そこまで言うと、ニルは台所へ戻り、食卓に置いていた紙を鞄へ入れ始めた。


 


 アルバが水を取りに入ると、卓の半分には帳面と、一枚だけ残った図があった。ニルは図を持ち上げかけたが、アルバが「そのままでいい」と言うと手を止めた。アルバが器に水を注ぐ間も、ニルは椅子へは座らない。台所で作業をしていたのなら、こちらが出るのを待っているのだろう。アルバは水差しを戻し、図から離れた端へ器を置いた。


「あれはお前の研究か」


 ニルは持っていた紙を卓へ戻した。


「基礎理論は。ですが、同じ分岐を作るというのは、外から見える形を揃えることではなくて、流れの量と戻る位置の条件を――」

「結論」


 アルバが言うと、ニルは紙に置いた指を動かさず、顔だけを上げた。眉間に薄い線が寄った。


「僕の研究ですが、僕の実験ではありません」

「それは聞いた。あの写しだけで作れるか」

「一時的に繋ぐところまでは、理論を公開しています。でも、今の腕は、繋いだ物がそのまま残っているだけではないんです」


 ニルは椅子を引き、卓へ紙を広げ直した。アルバも反対側へ座ると、ニルは帳面を図の隣に置いた。紙は湿っていなかった。詰所から届いた写しに加え、自分で描いた線が何本もある。


 ニルは元からある導路を指で辿り、その脇に描かれた細い線で止めた。


「損傷したところに橋を掛けるなら、両端が繋がれば流れます。僕が作ろうとしたのは、その橋です。ですが、身体へ入れた物は、置いておけば自分の組織になるわけではありません」

「外れるか」

「排除されます。長く働くように残そうとすると、元の導路も傷める。そこで止まっていました」


 アルバは二つの図を見比べた。形だけなら、どちらにも同じような枝がある。だが、論文の写しには太い線の間を渡る細いものが描かれ、ニルの帳面では、そこから別の枝が外へ伸びていた。


「あの男の腕には残ってる」

「ええ。どこまで定着しているかは、調べなければ分かりませんが。少なくとも、僕の論文に書いた手順だけで、あの状態まで保てるとは考えにくいです」

「続きを知ってる者は」

「続きを僕が完成させたことはありません」


 ニルはすぐに答え、それから羽ペンを取った。


「公開した条件だけで足りる部分と、足りない部分を分けないと。見える形が同じでも、別の方法で作ったなら、調べるところが変わります」


 アルバが次を聞く前に、図の片側へ小さな印が加わった。ニルは数字を一つ確かめ、消さずに脇へ別の値を書いた。


 アルバは口を閉じ、手が止まるのを待った。患者の腕を見て、反応が変わった位置を覚え、求められれば記録を出す。それでも、作った者も作り方も分からないと、今ここで言っている。断言する時と、分からないと言う時の、どちらも声は変わらなかった。


「薬剤は何だ」


 ペンが離れたところで聞くと、ニルは帳面を一頁戻した。


「まだ成分は出ていません。木筒の中は封が残っていたので、記録を取ってから調べます。腕の状態と合わせて考える必要もあります」

「番号は軍でも見る」

「あの数字で、薬の行き先が分かるんですか」

「同じ付け方の記録があればだ。装備の方も、払い下げた先を取る」

「軍の人が追ってきたとは、まだ分からないんですね」

「分からん」


 ニルは頷き、管理番号を写した頁の隅へ、軍照会と小さく書いた。アルバは原本を持ち帰っていないことを伝え、詳しい記録は明日も詰所へ届けるように言った。


「測定の図もですか」

「患者に何が起きてるか、分かった分は要る」

「それなら、合流部の説明を先に読んでもらわないと」


 ニルは図を手前へ引いた。アルバがその手を見ると、今度は顔を上げ、少し間を置いて「短く書きます」と付け加えた。


「必要なことは落とすな」

「必要なことを話している途中で、結論と言いましたよね」

「全部を聞かないと分からないなら、そう言え」


 ニルは返事をしないまま、しばらくアルバを見た。やがて紙を卓の中央へ戻し、太い線と細い線の交わる箇所を示した。


「では、ここは覚えてください。今の腕で、ただ強く抑えれば止まると思われると困ります」


 アルバは椅子を少し寄せた。ニルはそれを見て、器に近かった帳面を反対側へ動かす。線のどちらを先に閉じると、もう一方へ流れが偏るか。二枚の片を同じ角度にできないのはなぜか。説明の途中には知らない語が混じったが、アルバが戻って聞けば、ニルは同じ図で位置を示し直した。分かったところで頷くと、先へ進む。準備室で見た細い光に、紙の上の線が一つずつ重なった。


 やかんは竈の端へ置かれたままで、中の水もまだ温まっていなかった。ニルは茶を淹れる途中で、帳面を開いたのだろう。アルバは空いた器を図から遠ざけ、最後に示された箇所をもう一度見た。紙の中に橋の作り方があることと、カイの腕の中で今も光る物があること。その間に、論文を読んだだけでは越せない部分が残っている。


「……誰かが続きを作った」


 ニルは図から指を離し、アルバを見た。


「ええ。僕ができなかったところから」

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