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Ipomoea  作者: Tanahituzi


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第31章 二つの紙

「あなたを、危険区域への同行要員から外す申請が来ています」


 マレナはそう言って、机の上の薄い綴りをニルへ向けた。午後の測定を終え、片を洗っているところへ呼ばれたので、ニルの袖はまだ片方だけ捲られていた。卓の端へ腕を載せかけ、濡れているかもしれないと思って下ろす。紙の上には合同調査の文書番号があり、その下に、現場での薬剤、器材、保管記録の照合について、研究者の配置を見直すと記されていた。今後立ち入る場所も、日程も、まだ全部は決まっていない。ニルは自分の名がある行から、次の段へ目を移した。


 回収できる物は軍医と調査担当者が持ち帰り、研究所内で解析する。危険が見込まれる区画には、ニルを同行させない。代わりの手順が、短い文で続いていた。資料を見ることや、ここで研究することを止める紙ではなかった。それでも、照合する物を現場で選ぶところから、自分だけが外される。末尾まで読んでから、ニルは依頼者の欄へ指を置いた。


「アルバが、出したんですか」

「ええ。昨日、軍の窓口で受け付けられている」


 マレナは送付状を隣へ置いた。


「私のところへ来たのは今日です。研究者側の作業に支障がないか、意見を求められています」


 ニルは署名を見た。家で軍の報告に名を書くところを、何度も見ていた。最後の線が短く止まる字も、今は間違いなく読めた。


「もう、決まっているんですか」

「申請です。承認の通知ではない」


 マレナはその一行を指さした。


「実際にどの区画へ誰を入れるかは、危険の評価を含めて軍と調整する。こちらも、必要な仕事を示さなければならない。だから、あなたを呼びました」


 ニルは紙の上から指を離した。理由の欄には、研究者を標的とする脅しが届いていることと、本人の現場同行による危険の増大が書いてある。その下に、当人へ確認した日付はなかった。


 三日前、研究所の門へ持ち込まれた紙には、解析を続ければ、次は患者ではなくお前だ、とあった。差出人の名はなく、ニル宛の一行だけが、乱れた字で記されていた。門番が受け取った時には、渡した男は立ち去っていたという。原紙は調査の窓口へ回し、出入りの見張りも続けると聞いた。何も起きていないから嘘だとは、ニルも思っていなかった。帰る車を待つ時には、門の外へ一人で出なくなっていた。


「脅しがあったことは、僕も知っています」


 言うと、マレナは頷いた。


「その危険をどう減らすか、考える必要はある。ただ、現物を運べば済む仕事かどうかは、こちらで答えなければならない」

「残っている物のどれを持ち帰るか、先に分からないこともあります。目録の番号だけでは、使った条件まで揃いません。現場の記載と、器材についた印を一緒に見る必要があるなら、僕も行くつもりでした」

「その必要を書いてください。全ての場所へあなたが行く、と先に決めることもできません」


 ニルは頷きかけて、止めた。自分がいる方が早い。それを言えば、ここでまた、誰に何を任せるかという話になる。持ち帰った物だけで解析できる場合もあるし、軍医へ先に見方を伝えられる箇所もある。申請に書かれた手順が、全部間違っているわけではなかった。だが、どの手順なら引き受けられるかを、自分はまだ一度も尋ねられていない。


「写しを、一枚いただけますか」


 ニルが言うと、マレナは机の脇から同じ用紙を出した。


「あなたの分です。今日のうちに賛否を埋めなくてもいい。受け取ったことだけ残します」


 羽ペンを渡され、ニルは受領の欄へ名を書いた。いつもの署名だったのに、書き終えたあとも、筆先を紙から遠ざけるのが遅れた。ここに自分の名が増えても、その前に話を聞かれたことにはならなかった。


 


 研究室へ戻り、捲っていた袖を下ろした。洗った片は乾かす台に並んでいて、一つだけ、表裏を確かめるために置いた向きが違っている。ニルはそれを返し、測定の帳面を閉じた。朝に出した照合事項へ、現場で確かめたい印を付け加えかけたが、羽ペンを取らずに立った。今、その必要を幾つ増やしても、アルバが何を考えて申請したかは分からない。写しを鞄へ入れると、二日前に届いた封書の控えへ角が当たった。ニルは二つの紙の間へ帳面を差し、口を閉じた。


     *


 家へ戻る頃には、玄関前の石は日陰と分けられなくなっていた。門の兵へ会釈し、ニルは鞄を持ち替えた。アルバは先ほど帰ったと教えられる。庭を通る間に、台所の窓から出る煮物の匂いがした。敷居に掛かる戸を少し持ち上げて開けると、二階から、小さな物が床を転がる音が聞こえた。


 アルバは竈の前で、鍋の蓋を持っていた。「食うか」と聞かれ、ニルは靴を揃える手を止めた。


「あとで、いただきます」


 少年の器はもう洗われ、流しの横へ伏せてあった。アルバは蓋を戻し、「あいつは先に食った。上で、紐を替えてる」と言った。独楽の紐だろうと思った。ニルは外套を掛けたが、鞄は持ったまま居間へ入った。


 卓には、パンを切った皿と、まだ何も注がれていない器が二つあった。窓際の紐は張ったままで、少年の回す場所の内側には物が置かれていない。ニルは自分の側へ鞄を下ろして椅子に座り、帳面の脇から申請の写しを抜いた。アルバが台所から来るまで、紙を広げずに持っていた。アルバが灯へ手を伸ばしたところで、ニルは声を掛けた。


「これを、出しましたか」


 アルバは差し出された紙へ目を下ろした。読み始める前から用件が分かったらしく、灯の向きだけを直した。


「出した」


 答えは短かった。隠す言い方ではないことが、かえって、ニルの用意していた次の問いを遠ざけた。


「僕を、現場から外すために」

「危険なところへ、連れていく必要はない」


 アルバは向かいの椅子を引いた。


「物を持ち帰れば、研究所で調べられる」

「全て、持ち帰れば済むと、誰が言ったんですか」

「軍医にも見せる。現場で確認する項目を先に出せばいい」

「項目が分かる場所なら、そうできます。何が残っているかも分からないのに、選ぶ人だけ決めて、僕にはあとで届いた物を見ろというんですか」


 ニルは紙を卓へ置いた。


「そういう作業の分け方をするなら、先に僕と話してください」


 アルバは左側を深く曲げないよう、座面へ右手をついた。ニルはその動きを見てから、顔へ目を戻した。


「まだ申請だ。決まったわけじゃない」

「だから、僕には言わなくてよかったんですか」


 アルバの手が椅子の縁に残った。


「先に窓口を通した。軍と研究所で、配置を変える話だ」

「僕の配置でしょう」


 ニルは自分の名のある行へ指を置いた。


「軍へ出す前に、ここで一度、聞くことはできませんでしたか」


 昨夕も、二人でこの卓にいた。アルバがパンを包む間、ニルは朝の記録の数を話した。どこまで聞いているのか分からなくなり、説明を止めると、まだ続きがあるかと尋ねられた。セインの話をした夜から四日が経っている。同じ寝台へ入った翌朝にも、自分の枕を戻し、二人分の茶を淹れた。用件だけ話して離れる頃とは、もう違っている。その間に、アルバはこの紙を作っていた。


「言えば、お前は行くと言う」


 アルバが口を開いた。ニルは顔を上げた。


「だったら、聞く必要がないんですね」

「そうは言ってない」

「同じです。僕がどう答えるか、あなたが先に決めたから、この紙を出したんでしょう」


 指を置いたところへ力が入り、紙の端が浮いた。ニルは押さえ直したが、今度は別の角が折れた。


 アルバはその手を見ていた。


「脅しが来てる。患者の移送も襲われた。現場で何が起きるか、分かってからじゃ遅い」

「分かっています」

「あの屋敷から出た時、外套を留める指も震えてたろ」


 ニルの手が止まった。アルバは紙へ目を戻した。


「ああいうところへ、もう一度行かせたくない」

「あそこへは、僕が行くと決めました」

「知ってる」

「控室まで一緒に来てくださいと、僕から頼みました。話をして、写しを受け取って、戻りました」


 ニルは鞄を見た。底へ入れていた板は、もう抜いて自室へ置いてある。あの日の綴りも研究所へ届けた。


「手が震えたら、それで、行ってはいけなかったことになるんですか」


 アルバはすぐには答えず、卓の向こうで指を組みかけた。


「無事に戻った。それは分かってる」

「では、どうしてです」

「次も戻れるとは限らん」


 そう言われると、ニルには、今度は同じ順番で答えられなかった。戻れる保証なら、ディモスの屋敷へ入る時にもなかった。アルバに、玄関から先を一緒に来てほしかった理由の中には、その怖さもあった。それでも、待ってもらったことと、もう自分で行くところを決められなくなることは、続きになってほしくなかった。


「危険なら、その話をしてください。僕が何をするつもりなのかも、聞いてください」


 ニルは言い、紙を二人の間へ押した。


「僕の代わりに決めないでください」


 アルバは紙を取らなかった。


「守れるうちに、外したかった」

「僕を守るためなら、僕の意見はいらないんですね」


 返事をしたあと、ニルは自分の声が、研究所で話していた時より大きいと気づいた。二階で鳴っていた音は、しばらく前から聞こえなかった。


 


 アルバの目が上がった。


「お前の意見なら、もう一つ聞きたい」


 ニルは紙の端から指を離した。


「フェーンに、一人で来いと言われて、行くつもりか」


 鞄へ目が動いた。二つの紙の間へ入れた帳面が、まだ口から少し出ている。アルバもそちらを見たが、手は伸ばさなかった。


「まだ、決めていません」

「考えてはいたんだな」


 ニルは答える前に、鞄を開いた。知られていないはずだとは思っていなかった。それでも、こちらが切り出す前に、行くつもりか、と問われるところまでは考えていなかった。控えを抜き、申請の隣へ置く。古い測定記録について出した照会への返答に、フェーンが別紙を添えてきたのだった。ニルが確認したい条件は、口頭なら補足できる。軍人を伴わず、本人一人で話をしに来てほしい。日時は返事を受けてから知らせるとあり、末尾には、会議では説明しきれなかったことがある、と書いてあった。


「誰から、聞いたんですか」

「警備の確認依頼だ。お前が、訪問先を確かめてくれと出した」


 アルバは控えの上を見た。


「原紙が合同の窓口へ回った。今朝、受け取った」

「その紙を出したのは、その前ですね」


 ニルが申請を示すと、アルバは頷いた。


「先に出した」


 この招きが、申請の理由だったわけではなかった。ニルは二つの紙を重ねず、並べたままにした。


 訪問先について確認を頼んだのは、昨日だった。軍が場所を確かめるので、すぐに返事はできないと告げられ、それなら待つと答えた。面会へ行ける許可を得たつもりはなかった。だが、安全だと返ってきたら、どの資料を持っていくかは、もう書き出していた。アルバへ話すのは、条件を確かめてからでよい。危ないと言われる前に、危なくない理由を揃えておこうと思った。その方が話は早く済むはずだった。


「返事は、出していません」


 ニルが言うと、アルバは「聞いた」と答えた。


「ただ、測定の条件が、今ある写しでは抜けています。正式に問い直しても、提出する範囲を確認するとしか返ってきません。その条件だけでも聞ければ」

「だから、一人で行くのか」


 説明の途中で声が入った。ニルは言いかけていた箇所を、控えの余白へ指した。


「まだ、日時も決まっていません」

「一人で行くなら、そこで何をされても、外へ知らせる奴がいない」


 フェーンが指定したのは、王都内の事務所だった。そこが本当に本人の使う場所か、警備へ確かめてもらうつもりでいた。人の出入りもあるだろうと考えたし、軍人が来なければ話すという条件なら、自分が説明を聞く間だけ、護衛を伴わない方法も取れる。そういう項目を順に並べていた。部屋で話が終わらなかった時にどうするかは、まだ決めていなかった。


「一人で来い、と言われたことは分かっています。危険がないとは言っていません。でも、僕が行けば、ほかの人をその部屋へ入れずに済みます」


 ニルは顔を上げた。


「あなたまで、あの人の条件に合わせなくても」

「俺がいなければ、それでいいのか」

「そういう意味ではありません」


 すぐに返したが、アルバの目は控えから動かなかった。


「あの人が何をしたかは、まだ全部、記録で確かめていません。治療の経過に、実際に回復したところがあるのも見ました。だから、説明の中に使えることがあるかもしれないんです」

「話を聞いて、そのまま帰れると、誰が言った」

「帰れなくなると決まってもいません」


 ニルは言い終えてから、舌を上顎へ当てた。決まっていないことを、行ってよい理由へ替えていた。そう言わなければ、次には行くなと返ってくる。その返事を先に塞ぎたくて、口が動いた。


 アルバは控えを指さした。


「軍を外せ、と書いてある。お前だけに話す理由は何だ」

「僕の式を使っています。測った条件の説明なら、僕が聞く方が通じます」

「それだけで、お前一人にする必要があるのか」


 ニルは相手の字へ目を戻した。フェーンには、途中の区別まで話せる。会議の記録では省かれてしまった補正も、同じ図を見ながらなら尋ね直せるだろうと思った。そういう時間を、もう一度持ちたい気持ちもあった。そのことは、今、言えば、行くべきではない理由の方へ置かれる気がした。


「ほかの人が来たら話さないと、向こうが条件を出しています。僕まで行かなければ、また回答を待つことになります」

「条件に従えば、話すというだけだろ」


 アルバの声が低くなった。


「お前の無事までは、書いてない」


 ニルは紙を取った。どこにもない文を探すように頁の下へ目を動かしてから、卓へ戻す。


「それなら、どうすればいいんですか」

「一人で行くな」

「じゃあ、ずっと、出していいという返事が来るまで何も見ないんですか」


 問いを出すと、アルバは口を閉じた。資料を待つ時間が長くても、カイの薬は減らせていない。自分の研究室では、橋を保つための条件を一つずつ変えている。その作業を続けることはできる。すぐに別の道がなくなると分かったわけではなかった。それでも、もう測った人がいて、答えを知っているかもしれないのに、こちらで一から取り直す方を選ぶのは遅い。遅い間にも、誰かの腕には痛みが残る。その数え方を始めると、面会へ行く自分のことは、最後まで空いた欄にしておけた。


「僕が話を聞けば、少なくとも、今ない条件が一つ分かるかもしれません」ニルは言った。

「危険があるというだけで、その可能性までやめろと言われても」

「お前が戻らなかったら、誰が続きを調べる」

「僕以外にも、研究者はいます」


 そう口にした途端、いつもは自分がやると言う仕事まで、今は他人へ渡せることにしていると分かった。アルバの目が、まっすぐこちらへ上がった。


「俺には、関係ないか」


 ニルは唇を開いた。研究の続きをする人なら挙げられても、アルバが聞いたのはその話ではなかった。自分が危険へ行けば、この人はまた待つ。知らされずに行けば、どこへ向かえばよいかも分からないまま、戻る音だけを聞こうとするかもしれない。八日の留守の間、玄関を気にしたことを思い出せば、そこまで考えられた。けれど、先に申請を出した人へ、自分の返事だけを求められているのが嫌だった。


「関係ないとは言っていません。だから、話せる条件が揃ってから、あなたにも」

「揃ったら、行くと決めてからか」


 声が入ると、ニルは続きを止めた。鞄には、持っていく資料の番号を記した紙もあった。何を先に確かめ、どの問いを出せば、短い面会で足りるか。相談する時には、そこまでを用意しておくつもりだった。アルバが行くなと言っても、これだけの理由があると示せるように。


「まだ決めていません」


 同じ返事を繰り返すと、アルバが椅子を引いた。立つために右手を卓へついたが、すぐには腰を上げなかった。


「じゃあお前も、一人で全部決めるな」


 ニルは顔を上げた。


「あなたは、決めたでしょう」

「だから、お前もしていいのか」

「僕が、僕の行き先を決めることまで、同じにしないでください」


 言葉が速くなり、息を吸い直す間に、アルバが立った。椅子の脚が床を強く擦った。


「何かを聞くために、その人のところへ行こうと思うことも、僕にはできないんですか。そうしたいと言ったのに、行かない方がいいと言われたら、それを選ぶまで、僕の答えにはならないんですね」


 ニルも背凭れから身体を離した。


「僕のために、僕を外さないでください」


 アルバは卓の向こうに立ち、手を離していた。近づいてくるわけではない。それでも、ニルは足を膝の下へ引き寄せ、上から見られる高さを変えたくなった。


「お前は自分で選んでるんじゃない」


 声が、さっきまでより強く響いた。ニルは腰を浮かせたまま止まった。アルバの目は、紙ではなくニルへ向いていた。


「自分を差し出すために、理由をつけてるだけだ」


 その言葉を聞くや否や、ニルは椅子を押して立った。右脚を引き損ね、布の内側で古い皮膚が突っ張る。痛みを避けるために、足をわずかに開いた。


 知りたかったのは本当だった。自分で行きたいと思ったことも、嘘ではない。けれど、誰かを伴わずに済むと数える時には、自分一人ならどうにかなると思っていた。その部分へ、いま言われた言葉が当たった。ニルは申請を取ろうとして、指を止めた。自分で消したなら、身体まで返ってきたことになると考えていた、と話した夜が戻る。傷をつけたこともあったと認めた。それを聞いた人なら、何を望んだかまで、もう信じられなくなるのだろうか。


「それも、あなたが決めるんですか」


 声は低くなったが、柔らかくはならなかった。


「僕が何をしたいのか、言っても、僕よりあなたの方が分かるんですね」


 アルバの眉が寄った。


「危険なところへ一人で行く話をしてる」

「今、僕が選んでいないと言いました」


 ニルは相手の顔を見た。言い直してほしいと思った。行くな、という返事でなく、望んだことまでなかったように言った、その箇所だけを訂正してほしかった。


 アルバは唇を閉じ、それから「自分が痛む分は、数えてないだろ」と言った。ニルの指が鞄の持ち手へ掛かった。今度も、どこが痛むかを確かめる方へ話が向く。心配していることなら分かった。窓口へ申請を出す理由も、一人で来いと書かれた紙を見て腹を立てる理由も、分からないものではなかった。分かったからこそ、黙って頷けば、この場を終えられる気がした。その終え方へ身体が向きかけるのが、嫌だった。


「あなたも同じじゃないですか」


 アルバの目が止まった。ニルはその顔を見たまま続けた。


「自分が前へ出ればいいと思って、切られても、死んでいないから済んだことにする。痛くても動けるなら、傷の話をあとへ回す。あなたなら、そんなふうに自分を使ってもいいんですか」

「俺の任務だ」

「僕にも仕事があります」

「俺が入る方が、危険を減らせる」

「僕だって、自分が聞く方が早いと思いました」


 アルバの左手が、腰の近くで一度止まった。さっき立つ時に傷が引かれたのかもしれない。ニルは目を下ろしかけ、顔へ戻した。痛むなら座ってください、と先に言えば、今夜も身体を休ませる話を続けられる。それができても、申請はそのまま残る。フェーンの招きへ自分がどう答えるつもりだったかも、話さないままになる。いつもなら言えた一言を、今は出せなかった。


「あなたは危険を減らせるから、行っていい。僕は減らせないから、言われたところで待っていればいいんですね」

「同じ危険じゃない」

「同じだとは言っていません。でも、あの時、あなたが何をするか、僕は知らされませんでした。帰ってきて、傷を見て、そこで初めて聞きました」


 ニルは卓の縁へ手をついた。


「待つ方には、戻るまで何も分からないんですよ」


 アルバが何か言いかけた。ニルはその前に、「待つことを僕には渡して、自分には渡さないんですか」と続けた。


 言ってから、今、自分も、アルバが待つことについて答えなかったと思い出した。続きを調べる研究者はいると言った。面会の日時が決まる前なら、相談しなくてもよいことにした。戻るまで何も分からないのは、この人も同じになる。それを認めれば、手元の控えから話し直さなければならない。ニルは息を吸ったが、先に、申請の署名へ目を落とした。


「僕も、軍へ頼めばいいんですか。あなたを危険な任務から外してくださいと。あなたが嫌だと言う前に、医務室や上官へ話して」

「お前が決めるな」


 返ってきた声は速かった。ニルは指を紙から離した。


「そう言うでしょう。だったら、どうして僕の分は、あなたが決めていいんですか」


 アルバは卓へ目を落とした。二つの紙は、並べた時より少し離れていた。どちらにも、まだ承認や返答の印はなかった。


「外で何か起きたら、取り消せない」


 アルバが言った。


「後で、聞けばよかったと言っても」


 その声には、さっきとは違う硬さがあった。ニルは鞄から手を離した。何を思い出したのかは分からない。セインの名を出して尋ねることはできなかった。自分が話した傷を、今の行き先を決める根拠にされたくないと思っている。その同じ口で、あの夜聞いたことを、ここへ持ち出す気にはなれなかった。


「だから、先に聞いてくださいと、言っています」


 ニルは相手の顔へ目を戻した。


「聞いてからでも、危険だと言えます。僕が行きたいと思ったことを、全部、昔の癖だと決めなくても」


 アルバは少し顎を上げた。


「じゃあ、今、やめると言えるか」


 ニルは答えを止めた。フェーンのところへ行かずに、別の資料を待つことはできる。今夜、その返事をしてしまえば、少なくとも一人で出かけることはなくなる。それが、アルバの望む答えだと分かるほど、口にしたくなくなった。


「あなたが聞いているのは、僕がどうしたいかじゃありませんね」


 ニルは言った。


「行かないと言わせたいだけでしょう」

「お前が戻るように考えてる」

「戻る場所にいる人が、僕に聞かずに仕事を変えるんですか」


 声がまた強くなった。窓の硝子へ映る自分の肩が、灯の上に見えた。ニルはそちらを見ず、「あなたの考えた通りにしなければ、自分で選んだことにもならないなら、僕は何を言えばいいんですか」と続けた。


 アルバは卓の端にあった器を退けかけ、手を止めた。空の器だった。鍋から移すはずだった二人分が、まだ台所にある。ニルはその手を見た。何度も水を渡され、触られたくないと答えても、そこにいてもらえた。この人が怖いだけの相手ではないことは、今も分かっている。そう分かることと、今の言葉に腹が立つことを、どちらか一つへ減らせなかった。


「お前が傷つくと分かってて、頷けるか」


 アルバは器から手を離した。


「では、僕の意見が要るのは、あなたが頷ける時だけですね」


 ニルが返すと、アルバの口が閉じた。外を通る車輪の音が、急に遠くなったように感じた。アルバはニルを見ていたが、そこで言葉を探すための間を、ニルはもう待てなかった。


「僕が困るかどうかも、あなたの心配よりあとなんですか」

「じゃあ、好きにしろ」


 アルバは言い終えた直後、息を止めた。顎へ入っていた力が抜け、目がニルの顔から口元へ動いた。もう一度、唇が開く。ニルはその次の声を待ったが、最初の息だけが短く出て、言葉にならなかった。さっきまで大きかった自分の声も、どこへ置けばよいか分からなくなった。


 好きにしろと言われた。なら、紙を取って、面会に返事を出すのか。思った方へ行けるようになったはずなのに、ニルの手は動かなかった。行くなと命じられた時には、言い返す言葉が幾つもあった。今は、もう何をしてもこちらのことだと、話を終わらされたように聞こえた。相手の顔を見て、口元を緩めれば、少し前の声まで戻せるかもしれない。頬へ力が入ったところで、ニルは唇を閉じ直した。


 アルバが椅子から上着を取った。袖を通す途中、左側の肩を戻す動きが一度止まる。ニルは見ていたが、布を持つために近づかなかった。アルバも頼まなかった。卓の脇を通る時には、いつもと同じだけ幅があり、ニルの手にも鞄にも触れずに抜けられた。二人が離れたのは、歩くために空けていた、その短い距離だった。


 廊下で外套の留め具が鳴った。ニルは一歩だけ卓から離れたが、戸口までは進まなかった。どこへ行くのかを聞けば、まだ返事をもらえるのだろうか。今から行かないと言えば、出るのをやめてもらえるのか。そのために答えを変えるところまで考えてから、ニルは床についた足へ目を下ろした。右脚には体重を掛けられた。次の一歩を、痛みが止めているわけではなかった。


 靴を履く音がした。アルバは掛け鉤から革帯と鞘を取り、玄関の前で一度、居間へ顔を向けた。ニルが顔を上げると、目が合った。留め具へ置いていたアルバの指が離れ、片手が身体の脇へ下りる。何か言うのを待つ間に、外の見張りの靴音が門の方で止まった。アルバは目を外し、取っ手を持った。


 戸は最初、敷居に掛かった。いつもなら少し持ち上げれば収まるところを、強く引いたために木が鳴った。アルバは手を戻して持ち上げ、外へ出た。冷たい空気が廊下の奥まで入り、卓の灯が傾く。ニルはまだ居間にいた。閉まる戸の音は、家の中では、開けた時より大きく響いた。


 器は二つとも空で、パンの皿には、切った時のまま二切れが載っていた。ニルは申請の折れた角へ手を出しかけ、やめた。外で低い声が聞こえたが、何を言ったかは分からなかった。門の金具が鳴り、そのあとに続いた足音は、家へ戻ってくる向きではなかった。


 二階で板が軋んだ。ニルが振り向くと、少年が階段の上に立っていた。片手で手摺を持ち、もう一方には、独楽の紐の端を握っている。片足を一段下へ出していたが、それ以上は下りてこない。少年の目は、廊下の閉じた戸から、ニルの顔へ戻った。ニルは見返したまま、何も言えなかった。卓には二つの紙が残り、アルバの椅子は引かれたままだった。玄関へ向かうために空いている幅へ、ニルは足を踏み出さなかった。

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