第32章 戻って話す
橋の欄干から手を離すと、指の腹に石の冷たさが残った。アルバは外套の襟を合わせ、川から上がる風に背を向けた。対岸の家並みはまだ暗かったが、屋根の上だけ、夜とは違う薄い色になっている。荷を運ぶ車が一台、橋へ入ってきた。端へ寄って通すと、車輪の音が石の継ぎ目ごとに変わった。家を出てから、何台もの車をそうして見送っていた。
基地へ行けば、休む場所はあった。アルバは軍の門へ続く道を一度見て、曲がらずに歩いた。家へ戻る方にも、何度か足を向けた。まだ同じ言葉を言いそうだと思い、次の角で止まる。そのたびに、戻らない時間だけが長くなった。
左の脇は、深く息を吸うと引かれた。歩けなくなる痛みではなかったので、立ち止まる理由にしていなかった。寒さで肩へ力が入り、傷を庇う姿勢まで硬くなると、動けても痛いならあとへ回す、という昨夜の声が戻った。ニルはあの時も、こちらの脇を見ていた。それを知りながら、俺の任務だ、と返した。
好きにしろ。口にした直後から、違うと思っていた。ニルがフェーンのところへ一人で行き、戻れなくなってもよいと考えたわけではない。止める言葉が通らず、次に何を言えばいいか分からなくなって、話すことを投げた。玄関で振り向いた時、ニルは居間に立っていた。こちらが何か答えるのを待っていたのかもしれない。アルバは、そこでも口を開かなかった。
帰りたくても、次の推薦状を待って残ったと聞いている。ニルは望んでいないことへ、大丈夫だと答えた。今は行くなと求め、言う通りにしないなら好きにしろと返して、自分の方が戸を閉めた。昔と同じ言葉を誰が使ったかは知らない。それでも、逆らえばここでの暮らしも終わるという意味に、聞こえたかもしれなかった。今から戻るために、ニルに行かないと言わせる必要はない。自分の言ったことを、先に話さなければならなかった。
昔、誰かと言い争って道を離れれば、その夜は別の壁を探した。同じ場所が次の日も空いているとは限らず、食べ物を持つ手も、毛布を引く手も、いつまでも待ってはいなかった。離れるなら、次にどこで寝るかを先に考えた。あの家から出る時には、戻って話すのか、このまま別の場所へ行くのかさえ決めずに、革帯と鞘を取った。家の中にいる二人へ、それを見分ける方法は渡していない。
通りを曲がると、見慣れた塀があった。角の兵がこちらを認め、身体を起こす。夜の間に異変はないと告げられ、アルバは交代までの時刻だけを確かめた。庭の石には夜露が残っている。二階の窓は暗く、階下には、まだ小さな灯りがあった。誰がいるのかは塀の外から見えなかった。アルバは門を通り、玄関の取っ手を持った。昨夜、強く引いて鳴らした木を、今度は少し持ち上げた。
*
廊下へ入ると、台所で湯の沸く音がした。ニルの外套は掛け釘にあり、その下に揃った靴も見えた。アルバは戸を閉め、革帯を外して鞘と一緒にいつもの鉤へ掛けた。金具が木へ触れたところで、台所の音が止まった。靴を脱いで顔を上げると、ニルが戸口に立っていた。昨夕と同じ上着を着ているが、髪は結ばれておらず、片手には乾いた布を持っている。
「戻った」
アルバが言うと、ニルは頷いた。布を畳もうとした手が一度止まり、そのまま腹の前へ下りた。
「どこに、いたんですか」
「川の方だ。基地には行ってない」
「ずっと、外に?」
「ああ」
ニルの目が外套の肩から顔へ戻った。そこまで聞いても、戸口を空けて台所へ戻るわけではなかった。アルバは外套を掛け、こちらから一歩進んだが、手を伸ばす距離までは寄らなかった。
「昨日のは違う。死んでいいって意味じゃない」
ニルは布を握り直した。
「そんなつもりで、一人で行こうと思ったわけではありません」
声は低く、昨夜のように速くはなかった。アルバは頷いた。
「分かってる。ああ言って出たことを、改めて話したい」
ニルはしばらくこちらを見ていた。やかんの蓋が、台所でまた小さく鳴った。
「火を、先に落としてきます」
そう言って向きを変えたので、アルバは居間へ入り、待った。
卓には、昨夜の二つの紙が残っていた。灯から離れた方へ寄せられ、パンの皿はもうなかった。器も洗われている。自分が押した椅子は卓へ戻されていたが、座面の向きがわずかに斜めだった。アルバは背を持って直し、腰を下ろした。右手をついて左側を曲げすぎないようにする。こんな動きを見せておきながら、ニルの震えた指だけを、行かせない理由にしていた。
ニルは湯の器を二つ運んできた。片方をこちらへ置き、布は卓の端へ掛けた。「眠ったか」と聞くと、椅子を引く手が遅くなった。
「上には、行きました。でも、ほとんど」
右脚を少し伸ばしてから座り、湯の表面を見る。
「あなたは」
「寝てない」
答えると、向こうは器へ手を添えたが、まだ飲まなかった。目の下には、昨夕なかった薄い影があった。
「あの紙を見た時は、理由を聞こうと思っていました」
ニルは申請の写しへ目を向けた。
「話せば、取り下げてもらえるかもしれないと。でも、最後には、何を言えば、ここで話を続けられるのか分からなくなりました」
アルバは器から手を離した。ニルは紙を取らずに続けた。
「好きにしろと、言われたので。行かないと言えば、戻ってくるのかとも考えました」
「それを言わせるために、出たんじゃない」
アルバは答えた。ニルは顔を上げた。
「なら、何も言わずに出ないでください。僕には、違いが分かりません」
「悪かった」
アルバは言った。
「帰らないと決めたわけじゃない。だが、そう聞こえる出方をした」
ニルの指が器の縁から少し離れた。許すという返事は来なかった。アルバも、その言葉を待たずに続けた。
「申請もだ。守るつもりで勝手に決めた。悪かった」
自分の署名のある紙の角が折れていた。アルバはその角を見てから、顔へ目を戻した。
「言えば、お前は行くと言うと思った。だから、先に出した」
「昨夜も、そう言いましたね」
「ああ。聞く前から、お前の返事を決めてた」
ニルは頷かなかったが、口も挟まなかった。アルバは申請の、研究所で解析すると書いた行を見た。
「持ち帰れば済むかどうかも、俺だけで決めた。お前の仕事なのに」
ニルはそこで紙を手前へ引いた。
「全部、僕が行かなければならないと言いたいわけではありません。昨日、マレナさんにも、必要な仕事を示すように言われました。運べるものもありますし、軍医の方へ見方を伝えておけるところもあります」
折れた角を指で押さえ、次の段を示す。
「でも、何を運ぶか決めるために、その場で比べたいこともあるんです。それを聞かないで、僕には届いたものを見ろと言われると、できなくなることがあります」
「何が要るか、出せるか」
「はい。ただ、今は、場所も残っているものも全部は分かりません。先に決められない箇所も、そう書きます」
アルバは頷いた。危険を確かめてから人を入れる必要がある。それを理由に、研究者の名前だけ先に消さなくてもよかった。
「この申請は、今日、窓口で取り下げる」
「危険の確認まで、やめてほしいのではありません」
「分かってる。配置は、必要な仕事を出してから調整する。お前も入れて」
「申請の番号を控える」
アルバが用紙を示すと、ニルは中央へ戻した。
「これを持っていっても。僕の受け取った写しですから、戻してください」
「戻す」
アルバは受け取り、卓の端へ載せた。
「もう一つ、言ったこともある」
アルバが続けると、ニルの手が器の前で止まった。
「自分で選んでないと言った。聞きたいと思ってることまで、俺が決めた」
ニルは目を下ろし、しばらくしてから、「そこは、言い直してほしかったです」と答えた。
「自分のことを数えていなかったのは、本当です。でも、何を知りたかったかまで、嘘だったわけではありません」
アルバは頷いた。説明を聞きたいと言う理由はあった。それと、自分一人ならほかを危なくしない、と数える癖もあった。昨日は二つをまとめて、選んでいないと言った。傷のことを聞いた自分なら、本人の返事より先に分かるようになったと、どこかで考えていた。
「過去を話したから、今、何を言っても、そちらで決められるのは嫌です」
ニルは言った。顔は上がっていたが、器へ添えた片手は動かなかった。
「知らないでいてほしかった、とは思いたくありません」
アルバは喉に残った息を吐いた。
「俺が知ってるから、聞かないでいいことにはならない」
短く返すと、ニルはゆっくり頷いた。それから湯を一口飲み、器を卓へ戻した。
廊下の奥で、板が一度鳴った。階段を下りる足音は続かなかった。ニルはフェーンの控えを手に取った。
「僕も同じでした。場所を確かめてもらえば、それから話せると思っていました。あなたが行くなと言う前に、行ける理由を揃えておこうと」
「警備には出したな」
「はい。それで、相談もしたつもりになっていました。でも、あなたへ話すのは、答えが返ってからでいいと」
ニルは控えを持ち直した。
「僕が聞く方が早いと思ったのは、本当です。それに、もう一度あの人と、途中を省かずに研究の話をしたい気持ちもありました」
アルバの目は、手にある紙へ下りた。軍人を伴わず、本人一人で。昨夜、何度も見た条件だった。
聞きたいと言われると、今も止めたくなった。軍を外してまで会いたがる理由は、まだ分からない。アルバはその条件へ指を出しかけ、やめた。ニルは続きを言おうとしていた。
「行って、戻れなければ、あなたが待つことは考えていませんでした。ほかに研究者はいると言えば、答えたことになるように話しました」
ニルは紙を置いた。
「一人で行く方へ話を進めておいて、あとからあなたに知らせようとしたことは、謝ります。すみません」
アルバはすぐに、行くなとは返さなかった。昨夜も、その返事を出すために相手の語尾を待っていた。
「今も、話は聞きたいか」
「はい」
返事は早かった。
「でも、一人で来る条件には応じないと、返します。説明を求めることは続けます。正式な窓口で、会う条件も含めて」
「俺が行けと言うまで待て、という話にはしたくない」
アルバが言うと、ニルの目が上がった。
「ただ、どこへ行くか決める前に、危険がある話を出せ。全部揃ってなくていい」
ニルは頷きかけてから、「あなたもです」と言った。アルバは控えから目を戻した。「俺もだ」と返すと、向こうの指が卓の上で一度、開いた。
「任務で、話せないことはあるんでしょう」
「ある。行き先を言えない時もある」
「全部を知りたいということではありません。でも、傷が増えてから、初めて聞くのは」
そこまで言って、ニルは左の脇を見た。アルバは膝に置いた手を動かさなかった。あの移送で前へ出た判断が、すべて間違っていたとは思っていない。それでも、帰ってきてから傷を隠し、死んでいないと返したことは、任務の指示ではなかった。
「話せる分は、先に言う。変わったら、知らせられる時に知らせる。怪我を、黙って済ませない」
アルバが答えると、ニルは顔へ目を戻した。
「動けるかどうかだけではなくて」
「ああ」
そう言ってから、アルバは少し黙った。昨日なら、同じ危険じゃないという言葉が出た。仕事の違いはある。だから自分の分だけ、一人で持ってよいことにはならなかった。
「お前に関わることは、お前を抜いて決めん」
アルバは申請へ目を向けた。
「危ないから外すなら、まず話す」
「僕も、あなたに関係することを、一人で決めてから渡しません」
ニルは答え、フェーンの控えを畳んだ。
「反対されそうだから、言うのを後にするのも」
アルバは頷いた。反対する時は、またあるだろう。それでも話すという約束だった。
「危険なことを、自分だけで済ませようとしない。俺も、お前も」
ニルは畳んだ紙を鞄へ戻した。昨夜から椅子の脇にあった鞄だった。口を閉じても、すぐには手を離さず、「たぶん、また、自分がやる方が早いとは思います」と言った。
「俺も、前へ出る方が早いと思う」
「それで、先にやってしまわないようにします」
「ああ」
返事をしても、二人とも笑わなかった。やめられると簡単に言えるほど、昨夜の自分を遠くへ置けてはいなかった。
湯は、持ち上げればまだ温かかった。アルバは器の側面へ両手を添え、一口飲んだ。ニルがその指を見て、「手、ずいぶん冷えてますね」と言った。
「外にいた」
「そう聞きました」
返ってくる声には、少しだけ、いつもの硬さがあった。アルバは器を下ろした。朝食の鍋を火へ掛ける時刻だった。立とうとして椅子へ手をつくと、ニルが台所を示した。
「昨日の残りは、鍋にあります。全部は食べていません」
「お前は、昨夜食ったか」
「少し。あの子が下りてきたので、一緒に温めました。あの子は、もう食べていましたけど」
アルバは廊下へ目を向けた。昨夜、上から見ていたのかどうかは知らない。大きな声も、戸を閉める音も、聞こえなかったとは思えなかった。ニルは布を取り、立った。
「パンは、固くなりかけています。焼けば、食べられますか」
「食える。切った分、残ってるか」
「はい」
*
台所には二切れのパンが布に包まれていた。ニルが切り口を見せ、焼くための薄い鉄板へ並べる。アルバは鍋の蓋を開け、煮物の量を確かめてから少し水を足した。底からゆっくり混ぜると、冷えて寄っていた豆と根菜が離れた。昨日は三人分を作り、少年の分だけ先によそった。今朝は残っている量で足りる。皿を増やすために、戸棚へ手を伸ばした。
「そちらは、僕が出します」
ニルが言った。アルバは振り向き、器を取る手が届いているのを見て下ろした。ニルは三つを重ね、匙も持って居間へ行く。鍋を見ている間に、階段を下りる小さな足音がした。一段で止まり、もう一段進む。少年が台所の戸口へ来た時には、独楽の紐が片手から長く垂れていた。
「帰ってたの」
少年はアルバを見て言った。
「今朝だ」
「どこ行ってた」
「川の方」
答えると、少年は廊下の外套へ目を向け、またこちらへ戻した。ニルが居間から来たので、目はそちらにも動いた。
「二人とも、飯?」
と聞かれ、アルバは鍋を示した。
「ああ。お前の分もある」
少年はすぐには入らず、紐を持つ手を上着の袋へ寄せた。
「昨日、声が大きかった。戸もだ。悪かった」
アルバが言うと、少年は靴を揃えた方へ一度顔を戻した。
「聞こえた」
「そうだな」
「上でも、聞こえたから」
付け加える声は、さっきより強かった。アルバは頷き、言い訳を足さなかった。少年の手には、独楽そのものはなかった。紐の端を指で探り、戸口の脇へ少し身体を寄せた。
「飯、運ぶ?」
「鍋は俺が持つ」
「匙は、もう置きました」
ニルが答えた。少年は居間を覗き、「じゃあ、何すんの」と言った。「座ってろ」とアルバが返すと、眉が寄った。けれど、ニルがパンを返したところで、少年は一歩入って鉄板を覗いた。「もうちょっと焼いて」と端を指してそう言うので、ニルは火から下ろさずに戻した。少年は紐を袋へ押し込み、竈から腕を離した。
温まった鍋を居間へ運ぶと、少年は戸の見える側へ座った。独楽の場所の紐は張ったままで、その内側に器はない。アルバが三つの椀へ順によそう間、ニルは焼けたパンを皿へ移してきた。自分の分を置いてから、残りを少年の前へ寄せる。少年は一切れ取り、すぐ齧った。熱かったらしく、口から少し離し、息を吹きかけた。
「汁につければ、冷めますよ」とニルが言った。
「そっちも熱い」
「こちらよりは」
「お前、食ってみたの」
「まだです」
少年はもう一度息を吹きかけた。アルバも先に汁を食べた。温かいものが腹へ入ると、外套を脱いでからも背に残っていた冷えが、ようやく薄くなった。
ニルは匙を持ったまま、こちらの顔を見ていた。「味か」と聞くと、首がわずかに振られた。
「いえ。今朝も、同じものを食べるんだと思って」
アルバは椀へ目を下ろした。昨日よそわなかった分だった。口論が始まる前には、この卓で二人とも食べるつもりでいた。「まだ、怒っていますよ」とニルが続けたので、顔を戻した。
「分かってる」
「でも、食べたいです」
ニルは言い、匙を口へ運んだ。アルバは自分も次の一口を取った。ニルが顔を下げるたび、出ていった時に何を考えさせたか、また気になった。それを尋ね直すなら、食べたあとでも話せる。この席で続きを聞けた。
少年はパンを半分まで食べ、残りを皿へ置いた。二人が話し始めると匙を止め、話が短く終わるとまた動かす。それが何度か続いてから、椀を自分の方へ引き寄せ、片足を椅子の横へ出した。肩が少し下がっていた。「夜も、これ?」と聞くので、アルバは鍋の残りを見た。
「別のを足す。何がいい」
「豆ばっかじゃないの」
「豆は、嫌ですか」
とニルが聞いた。
「昨日も豆だった」
「それなら、別のもので」
ニルは答え、途中でパンの皿へ手を伸ばした。少年はその皿から自分の残りを取り、今度は汁へ浸した。夜の食事の話は、それでいったん終わった。独楽の紐を袋から出すことも、器を洗うため先に席を立つこともせず、少年は汁の中に残った根菜を匙で一つずつ寄せた。
アルバは椀を空にし、ニルが用意した湯を飲んだ。器を持つ指は、もうまっすぐに伸びる。ニルも食べ終え、二つの器を重ねた。「昼前に基地へ行く」とアルバは言った。
「先に少し寝る。医務室にも寄る」
ニルは「傷は、昨夜より痛みますか」と聞いた。
「冷えた分、張る。傷が開いた感じはない」
「診てもらってください」
「ああ」
返事をすると、ニルは器を持って立った。少年は二人を見ていたが、匙を最後まで使い、自分の椀も取った。「紐、替えた」と上着の袋を示す。「あとで回してみますか」とニルが聞くと、少年は頷き、窓際を見た。そこへ紙を置くものは、今朝は誰も持っていなかった。
片づけを終える頃には、窓の外が十分に明るくなっていた。少年は独楽を取りに上がり、ニルは鞄へ帳面を収めた。アルバも申請の写しを、軍へ持っていく書類の袋へ入れた。上へ行こうとすると、廊下でニルに呼び止められた。
「次に、少し離れていたい時は、そう言ってください」
ニルは鞄を持っていなかった。
「僕も、そう言います。今すぐ話せない時は、ありますから」
アルバは頷いた。
「戻って話すなら、それも言う」
「はい」
そこで返事は終わったが、ニルは居間へ戻らずにいた。アルバが待つと、右の袖へ指が触れた。何かを渡すための手ではなかった。布を軽く摘んでから離れ、その指はニル自身の身体の脇へ戻った。
アルバは上へ行き、自分の寝台へ横になった。左側を下にしないよう掛布を引くと、階下で独楽が床へ落ちる音がした。少年が、まだ巻く途中だった、と言い、ニルの返事が続く。声の調子までは聞き取れなかったが、足音は家を出る方へ向かっていなかった。目を閉じても、昨夜の口論は思い出せた。好きにしろと言った自分の声も残っている。それをまた言い直す場所は、階下にあった。
短く眠り、下りてくると、ニルは外套を着ていた。髪を結び、鞄の口を閉じている。玄関の外では、研究所へ向かう車が待っていた。アルバが声を掛ける前に、ニルは留め具から手を離して、こちらを見た。
「今日は遅くなります。午後の測定を、最後まで見てから帰るので」
問いの語尾ではなかった。アルバは今夜も帰りを待つことになるが、何も聞かずに戸の音だけを数える必要はなかった。戸口まで行き、敷居に掛かる戸を持ち上げる。ニルがそこを通る前に、返事をした。
「分かった」




