第30章 聞いておきたかった
第30章 聞いておきたかった
「俺にも、話してないことがある」
ニルが傷の経緯を話した二日後の夜、アルバは短剣を拭いていた布から指を離した。刃はもう乾き、柄の付け根に残った汚れも落ちている。居間の卓には二人分の茶があり、向かいでは、ニルが朝の記録を閉じたところだった。少年は今夜もセリュシアの家に泊まっている。夕方、ヴァレットと翌朝にすることを話してから、泊まりたいと言ったのを聞いていた。外では見張りの靴が一度、門のそばで止まったが、戸を叩く音はしなかった。
ニルの手が、帳面を鞄へ入れる途中で止まった。
「ご自分のことですか」
「小さい頃の話だ」
アルバは答え、短剣を鞘へ収めた。留め具を掛ければ、今夜の手入れは終わる。布を畳みかけてやめ、刃を置いていた面を内側へ折った。そうしている間、ニルは続きを尋ねず、帳面を鞄へ入れて、その口を閉じた。
この二晩、何度か話そうとした。ニルの戸の前を通る時にも、今朝、茶を渡された時にも、セインの名は口へ上がりかけた。言えば、最後に聞いた声まで話すことになる。それを避けて、何年か一緒にいた奴がいる、とだけ伝えることもできた。だが、そこまでなら今までと変わらない。アルバは布を卓の端へ置き、空いた手を自分の膝へ下ろした。
「セインって奴がいた。俺と同じくらいの歳だ。下層区で、何年か一緒にいた」
ニルはその名を一度、低く繰り返した。
「一緒に暮らしていたんですか」
「家はなかった。寝るところを探して、食えるものを取ってた」
向こうの目は、まだこちらを見ていた。パンを盗んだと言えば、どうしてそんなことをしたのかと聞かれるかもしれない。これまで下層区で聞いたことを思い出し、困った顔をするかもしれない。ニルは茶の器を持ち上げたが、そういう問いは出さなかった。
卓には、食事のあとで包んだパンがあった。今夜食べ切らなかった分で、明朝には鍋の残りと出せる。端の皮が一つ、包みから外れていたので、アルバは布を開いて戻した。乾いたところを押すと、中の柔らかい部分が少し沈む。冬、排気口のある壁の前で割ったものは、こんなふうには戻らなかった。セインは落ちた屑を膝で受け、服へついた分まで集めていた。今は二人分より多く残っている。アルバは包みを閉じ、手を引いた。
「そいつを、置いて逃げた」
ニルが器を下ろした。底は音を立てず、持っていた指だけがしばらく残った。アルバは包みの角を見ていた。先にここまで言うと、あの日のことを、盗みの話から順に説明する必要があると分かった。
「二人で捕まった。俺の方が、先に手を引き抜けた」
そこからどう逃げたかを言う前に、アルバは、その朝どこにいたかから話し始めた。指の内側には、もう、古い上着を掴まれた重みが戻っていた。
*
その朝、セインは毛布の端を自分の背の下へ巻き込み、まだ起きようとしなかった。アルバが引くと、膝がこちらへ出てきた。
「寒い」
「こっちもだ」
そう返すと、毛布の向こうで鼻を啜る音がした。工房の火は、夜明け前に一度弱くなる。格子から出る熱が減る時刻を二人とも知っていたが、足を外へ出すのは、いつも相手の方が先であってほしかった。
アルバは毛布を放した。前の晩に口へ入れたものは少なく、立つと腹の中が空いたまま動く感じがした。セインの上着の袋が膨らんでいたので手を出すと、肘で押し返された。
「何もない」
「なら見せろよ」
袋から出てきたのは、短くなった紐と、拾った金具だった。食べ物はなかった。アルバが金具を取りかけると、セインは指を閉じた。
「これは俺の」
「食えないだろ」
「売れるかもしれない」
どこへ売るのか聞けば、まだ知らないと言った。
毛布を隠す場所は、壁の少し先にある板の裏だった。雨が強ければ濡れるし、同じところへ長く置けば誰かに取られる。それでも、今朝はほかに持っていく場所がなかった。二人で丸めた布を押し込むと、縫い直された端だけが出た。セインがそこへ靴の先を当て、見えなくなるまで奥へ押した。
「今日は俺が見てる」
「昨日も、お前が見てた」
「昨日は、何も取れなかっただろ」
アルバは返事をせず、工房の角を曲がった。
荷を運ぶこともあった。籠が軽ければ二人で一つを持てたし、渡し場で落ちた炭を集めれば、小さな銅貨になる日もあった。だが、その朝は、戸の外で待っても呼ばれなかった。あとで来いと言った男は、別の者へ籠を渡した。セインがいつ来ればよいか聞き直すと、男はもう聞かず、二人の前で戸を閉めた。アルバは戸の脇に落ちていた炭を拾い、上着へ入れた。売るだけの量にはならなかった。
パンがある場所へ向かった。店の正面では、まだ買う者が多く、裏では、荷車へ載せる籠が壁際に並んでいた。蓋の開いた一つには、布を敷いて小さなパンが詰めてある。セインが先に覗き、すぐ顔を戻した。
「あれなら取れる」
「人がいる」
「向こう向いてる」
アルバが角の先を見ると、荷車の男は店の中へ入ろうとしていた。待っていれば戻る。セインはその背が戸の内側へ消えるまで数え、アルバの袖を引いた。
アルバは籠へ手を入れた。二つを上着の内側へ押し込み、三つ目を取る前にセインが一つ掴んだ。籠の縁へ布が掛かり、引けば残りのパンも動く。アルバが布を戻す間に、表の戸が鳴った。セインはもう通路へ向いていた。「来た」と短く言って走り出したので、アルバも手を引いた。背後で、止まれ、と声がした。
パン屋の裏から壁の間を抜ければ、三段の階段へ出る。いつもはそこで荷車の通る道を外し、工房の裏へ回った。二人とも、走りながらそちらへ向いた。だが、その日は階段の上に箱が置かれ、下の幅を車輪が塞いでいた。セインが片側へ足を掛けた時、向こうにいた年上の男が、こちらを見た。後ろからの声を聞いて、箱の脇へ身体を寄せる。通れるはずの幅が、その肩で埋まった。
アルバは横へ逃げようとした。壁際の桶を越せば、隣の戸の裏へ入れる。靴が桶の縁へ当たり、水が跳ねたところで、上着の背を掴まれた。襟が喉へ食い込み、息が止まる。腕を抜こうとすると、もう片方の袖も引かれた。「走るな」と近くで声がした。足を地面へつけ直す前に、背中を壁へ押しつけられた。
セインも止められていた。先ほど道を塞いだ男が肩を持ち、別の男が腕を後ろへ回している。アルバがそちらを見た時には、セインはまだパンを握っていた。指から取られそうになると、手を口へ寄せた。男がその手を叩き、パンが石の上へ落ちる。
「それでも食うのかよ」
そう言われて、セインは顔を背けた。その頬へ拳が当たり、身体ごと壁の方へ寄った。
アルバの腹にも、一度、硬いものが入った。拳か膝かは見えなかった。身体を曲げようとしても、上着を持った手に戻される。吸いかけた息が途中で止まり、口を開けても、次が入らなかった。男の手が上着の内側へ入った。隠したパンを探している。アルバは自分でもそこを押さえようとしたが、手首を取られ、肩の上へ押し上げられた。
「あるじゃねえか」
パンが一つ引き出された。皮が潰れ、上着へ屑が落ちる。男はもう一つへ手を伸ばし、アルバが身をよじると、頬を打った。返すと言おうとしたが、声は口の中で濡れたまま、よく出なかった。足元では、落ちたパンが誰かの靴で踏まれていた。
セインが膝を上げ、後ろの男の脚を蹴った。肩を押さえる手は離れなかったが、腕を持っていた男が罵り、身体を前へ寄せた。アルバを掴んでいた男も、そちらへ顔を向けた。その拍子に、上げられていた手首が少し下がった。アルバは肘を身体へ引いた。手首は抜け、袖を持った指だけが残った。縫い目が伸び、古い糸が一つずつ切れた。
桶の横が、今は空いていた。片足をそこへ出せば、壁の裏へ入れる。セインはまだ、二人に押さえられている。腕を引くためには、あの男たちの間へ戻らなければならなかった。アルバは一瞬、身体をそちらへ向けかけた。頬の内側が痛み、息はまだ深く吸えない。もう一度掴まれれば、次に手が抜けるかは分からなかった。
今、走れば、自分は出られる。
アルバは残った袖を引いた。縫い目が裂け、肩に掛かっていた重みがなくなった。男の手が前へ出たが、アルバは先に桶の脇を抜けた。幅の狭いところで腕を擦り、隣の戸に肩をぶつける。後ろで靴が石を蹴った。捕まる、と考えるより先に、身体が次の角へ向いていた。
「アルバ!」
セインの声だった。名前を呼ばれたのは、桶を越してから、まだ数歩しか進んでいないところだった。どこにいるかも、戻るならどちらへ向けばよいかも分かった。アルバは顔を上げ、前の角を見た。そこまで行けば、後ろからは見えなくなる。足はまだ動いた。上着の裂けた袖を腹へ押し込み、もう一歩、踏み出した。
振り返らなかった。
角を曲がり、さらに細い道へ入った。知っている壁も、いつも水を飲む井戸も通り過ぎた。後ろから来る靴音が聞こえなくなっても、広い道へは出られなかった。足が止まったのは、閉じた工房の戸へ手をつき、腕で身体を支えなければ立っていられなくなってからだった。息を吸うたび、腹の打たれたところが痛んだ。もう一度、名前を呼ぶ声が来る気がして、戸へついた手を動かせなかった。
誰も来なかった。通りの向こうでは荷車が動き、人が、どちらへ荷を積むか言い争っていた。アルバはその声を聞き、追ってきた男たちのものではないと分かるまで、何度も顔を伏せた。セインがまだ押さえられているか、あのあと離されたかは、ここからでは見えなかった。だが、戻って確かめるために、戸から手を離したわけではなかった。川とは反対の道へ出て、さらに遠い方へ歩いた。
水路の脇へ座った時、上着の内側に何かが当たった。取られなかった方のパンだった。半分潰れ、汗を吸った布へ皮が貼りついている。アルバは剥がし、掌へ載せた。いつもなら、先に食うなという声がした。今は、その声が来るところを見ても誰もいなかった。腹は空いていた。ひと口を押し込むと、唇の内側へ擦れたが、噛めた。二口目も、自分の口へ入れた。
暗くなってから、眠れる壁を探した。一人なら入れる隙間があった。膝を引き、裂けた上着の端を肩へ戻しても、布は同じところからずれた。毛布は、工房の裏に置いたままだった。取りに行けば、あの道を通る。セインが戻るかもしれない場所も、そこにあった。アルバはそこへ行かず、背へ当たる石の出っ張りを避けて座り直した。
夜の途中で人が来るたび、靴から先に見た。セインの靴は、片方の爪先が開いていた。遠くからでも、その歩き方なら分かると思っていた。だが、通る者の足を確かめることと、セインのいる方へ戻ることは、同じではなかった。翌朝、アルバは別の岸へ渡った。橋の端で一度立ち止まり、向こうから来る人の列を見た。知っている顔はいなかった。誰かへセインの名を出すために、橋を戻りはしなかった。
*
ニルの茶は、もう湯気を立てていなかった。話す間に器を一度持ち直し、今は卓へ置いている。アルバは、自分の手が膝の上で握られていることへ気づいた。裂けた袖はない。指を伸ばすと、服地の上に爪の跡だけが残った。
「呼ばれた。名前を。聞こえてた」
アルバは言った。
「振り返らなかった。そのあとも、戻らなかった」
ニルはすぐには答えなかった。アルバも、ほかに何ができたかを足さずに待った。もし男が手を離さなかったら。もし階段の上に箱がなかったら。そういう順番なら、今まで何度でも組み直した。自分が桶の脇を抜けたあとのことは、組み直しても分からなかった。
「セインさんが、そのあとどうなったかは」
ニルが口を開いた。アルバは顔を上げた。
「たぶん死んだ。確かめてない」
そう言うと、死んだ、の方だけが部屋へ残ったように聞こえた。自分が見たのは、壁へ押さえられていた姿までだった。それでも、生きていると考えようとすれば、あの道から離れてもよかった理由を、後から足している気がした。
「生きてるかもしれないと思うのも、逃げみたいで嫌だ」
ニルは器から手を離した。帳面を取り出すことも、昔の下層区の名を尋ねることもしなかった。アルバは、知っている道へ兵を出せることを考えた。今なら一人で行かなくてもよい。記録を探す窓口も知っている。だが、あの頃の子供の行方が、名前一つで今から見つかるとは言えなかった。それより先に、見つからなければ何を答えにするのかを考えてしまう。死んだと言う時にも、まだ生きているかもしれないと言う時にも、確かめていないところは同じだった。
「あなたが戻れば二人とも助かった、とは僕には言えません」
ニルは、途中で少し言葉を切った。
「そこにいませんでしたし、戻ったあなたが何をできたかも、分かりません」
アルバは茶へ手を伸ばした。器の表面はぬるく、口へ持っていっても、熱さを避ける必要はなかった。一口を飲み、下ろしてから頷いた。ニルの指は卓の上で一度、重なり、それから離れた。
「卑怯じゃなかったとも、僕には決められません。でも、子供だったことは事実でしょう」
アルバは目を下ろした。あの時の男の手は、自分の肩を片方だけで壁へ戻せた。今なら同じ場所で腕を取られても、抜く方法を知っている。桶を越す前に、相手の膝を折ることもできるだろう。そう考えるたび、あの頃の自分にも、何かできたはずだと思った。ニルの言った子供は、そういう力をまだ持っていなかったアルバだった。頬を打たれ、息を吸えず、抜ける場所だけを見た。そこまで戻して思い出しても、セインの声は聞こえていた。
「置いていったのは、俺だ」
「はい」
ニルは答えた。返事の前にもあとにも、違う、とは言われなかった。アルバは器から指を離し、掌を卓へ置いた。何かを言われれば、その言葉に自分の覚えていることを当て、合わない部分を探すつもりだったのかもしれない。今は、言ったことをそのまま聞かれている。付け加えなければならない弁解は思いつかなかった。
窓の外で、荷車の音が長く続いた。食事の時にも通った車だろうかと考え、途中でやめた。どこに戻るかは知らない。ニルも窓へ一度目を向けたが、またこちらを見た。まだ答えを探しているのか、ここで話が終わるのを待っているのかは分からなかった。アルバはパンの包みへ触れ、曲がっていた角を戻した。
「返せないな」
そう言うと、ニルが顔を上げた。
「今、誰かを助けても。そいつには」
言葉はそこまでしか続かなかった。カイを乗せた馬車の戸口へ入った時には、前へ出れば止められると判断した。実際、腕を引く手は離せた。だが、あの時、間に合ったことを、セインのいた壁まで持ち帰ることはできない。次にはもっと早く入れるようになっても、あの日だけは同じところへ残った。
ニルはパンの包みから、アルバの顔へ目を戻した。
「セインさんは、別の人ですから」
声は低かった。アルバは頷いた。それは分かっていた。家に来た少年が、食べ物を袋へ入れる時にも、セインの手が重なることがあった。それでも、少年は草の分け方に腹を立て、独楽を回す幅を欲しがり、ヴァレットと遊びたがる。見えている顔へ、昔の声を当て続けることはできなかった。
「どんな人だったんですか」
しばらくして、ニルが尋ねた。アルバは窓から目を戻した。
「パンを先に食う」
「あなたが取ったものでも」
「ああ。見張りをしたから、その分だと」
「あなたは?」
聞かれて、アルバは布の端を押さえた。
「持ってる時に食った。あいつが寝てから取ったこともある」
ニルの目が、少しだけ包みへ下りた。今夜の残りは、先にどちらが持つかで減るものではなかった。
「毎晩、取り合ってた。毛布も」
「それでも、一緒にいたんですね」
「一人なら、見張りもできん」
アルバは答えた。一人で籠へ手を入れれば、その間は道が見えない。眠れば誰が近づくか分からず、熱のある夜には、水を飲みに行くため立つだけで難しかった。セインが持ってきた水を飲んだことも、自分が先に相手の靴を引っ張って起こしたこともある。どちらかがずっと助ける側だったわけではなかった。その話を一つすると、もう一つ、パンと毛布以外のことも出てきた。
「金具を拾った。売れるかもしれんと言ってた。売る先は知らなかった」
「その金具は」
「知らん。あいつが持ってた」
アルバは短剣へ目を移した。今の鞘の留め具は、壊れれば替えを出せる。あの朝、何に使うのかも分からない金具へ、セインは指を閉じた。持ったまま捕まったのか、道の途中で落としたのかは覚えていない。ニルは頷き、金具の行方を、もう尋ねなかった。
茶を飲み終えると、ニルは空の器を少し前へ押した。アルバはそれを見て立ちかけたが、左の脇が引かれ、座面へ右手をついた。ニルが先に二つの器を取った。
「洗ってきます」
アルバは手を離した。台所へ向かう足音のあと、水が短く流れた。洗うほどの器ではないと言うことも、自分で片づけると言って取り返すこともできた。だが、今は椅子へ座り、戻る音を待った。
水音が止まっても、アルバは指を膝へ押しつけていた。振り返らなかったことも、あのあと一人でパンを食べたことも、今夜はかえって細かく思い出せる。ニルが何と言うかを考える時には、責められる顔と、許される顔ばかりを先に置いていた。どちらでもなかったので、話を戻して別の言い方を探す必要がなくなった。最後に呼んだ声だけでなく、毛布を引き、金具を握っていたところまで話した。それを聞いたニルが、器を洗って戻ってくる。
ニルは器を伏せてから戻ってきた。
「僕の話を聞いたので、ということなら、話さなくてもよかったんですよ」
アルバは卓の布を取った。そういう数え方なら、聞いた分を返したことになる。短く済ませる理由にもできた。
「それで話したんじゃない」
「そうですか」
ニルは頷き、鞄の取っ手へ触れた。
「聞いておきたかったです」
そう言われると、アルバは布を折る手を止めた。役に立つ話ではなかった。何かの証拠へ加えられるわけでも、明日から使う知識が増えたわけでもない。ニルは、それでも、聞いておきたかったと言った。
アルバは短剣を取り、卓から布を退けた。いつもなら、このあとでもう一つ、革帯の手入れをする。今夜使った分だけは、先に済ませてあった。上へ行けば眠れる。ニルは鞄を持ち、先に廊下へ出ようとしてから、こちらを見た。アルバはその顔を見返した。隣にいてほしいと思う理由を、今すぐ全部話すつもりはなかった。言わずにいれば、二人ともいつもの部屋へ戻る。
「今夜、隣で寝るか」
ニルは鞄を持ち直した。
「あなたも、眠りますか」
「寝る」
「では、はい」
返事のあとで、向こうの目が少し伏せられた。アルバは立ち、短剣を廊下の鉤へ戻した。階段を上がる時には、ニルが先へ行った。軋む段を越え、二階へ着くと、自分の戸を開ける。「着替えてきます」と言われ、アルバは頷いた。
部屋の机へ布を置き、上着を椅子へ掛けた。寝台には枕が一つしかなかった。もう一つ取ってくるか考えていると、ニルが自分の枕を抱えて戻ってきた。戸口に立ち、「こっちでいいですか」と右側を示す。アルバは掛布を開き、足元へ寄っていた皺を戻した。「ああ」と言うと、ニルは枕を置き、寝台の端へ座った。
横になる時、ニルは右脚を一度伸ばしてから、布の下へ入れた。擦れると痛むと、二日前に聞いた。アルバは掛布の角を持ち上げ、ニルが脚の位置を決めてから下ろした。上から引くと、向こうの手でも少し戻された。アルバも左側を捻らず、仰向けになった。灯を消す前に水を手元へ置くと、ニルは器の場所を見て、それから枕へ頭を戻した。
暗くなっても、すぐには眠れなかった。廊下の板が冷える時の音と、外で交代する兵の声がした。ニルは一度、掛布の中で手を動かした。腿へ触れるために布を直しているのか、ただ寒いのかは分からない。アルバは身体を向けず、「足りるか」と聞いた。「はい。今は」と返事を聞き、布を取りに立つのはやめた。
目を閉じると、桶の向こうから呼んだ声が戻った。アルバは一度、唇を閉じ直した。隣に聞こえるほどの声を出したわけではない。それでも、ニルがこちらへ顔を向けた気配があり、しばらくして、呼吸がまた枕の方へ戻った。あの角で止まらなかった足は、今、寝台の上にある。戻れなかった道を、ここから辿り直すことはできなかった。
ニルの息がゆっくりになった。アルバはその間隔を何度か聞き、寝ついたらしいと分かってから、掛布の縁に残していた手を下ろした。話してよかったかと尋ねれば、また返事をもらえるだろう。今夜は聞かなかった。セインのことを知っているニルが、隣で眠っている。アルバは片足の位置を変え、閉じた目の奥に残る道を、消そうとせずにいた。眠りにつくまで、覚えているセインは、あの壁の前にいた。




