第29章 そこにいてもらうこと
アルバの手は、ニルの右腿へ届く前に止まった。服に覆われていても、その下のどこに古い傷があるかは分かる。寝台の端へ並んで座り、ニルは、さっきまで袖に置いていた指を下ろしたところだった。アルバの掌とニルの膝の間には、まだ少し空気があった。
「ここ、触っていいか」
ニルは手の甲から顔へ目を上げた。屋敷で近づいてきた指とは違う。問いがあり、答えるまで待っている。それが分かっているのに、脚を動かそうとすると、踵が床へ強くついた。
「今日は嫌です」
声は、思っていたよりはっきり出た。アルバは「分かった」と言い、手を自分の膝へ戻した。ニルはその動きを見たまま、口を閉じていた。続きは来なかった。どうしてかとも、どこならいいかとも聞かれず、二人の間の幅は、座った時と同じだけ残った。
食事を終えてから、ニルの方がこの部屋へ来たのだった。眠る支度を済ませて戸口まで行き、少しそばにいたいと伝えた。少年は今夜もヴァレットのいる家へ泊まっていて、階段を上がる足音は二人分しかなかった。袖へ触れた時には、それを離したくなかった。けれど、腿の近くへ手が上がると、馬車で握っていた服地の皺まで思い出した。まだ自分の身体が何を嫌がっているのか、順に説明できるところまでは戻っていなかった。
アルバの机には、旅から持ち帰った留め具が載っていた。乾いた布で半分ほど磨かれ、残りは灯の外へ向いている。ニルはそちらを見た。断った以上、続きをしてもらうために席を空けた方がよいのかもしれない。足を引くと、アルバの目が床へ下りた。
「戻るか」
「いえ。まだ、ここにいたいです」
返事のあとで、膝へ置いた両手を重ねた。触られたくないと言っておきながら、近くにいたいとも言う。それを言い直す語を探している間に、アルバは頷いた。
「なら、いろ」
ニルは足を元の位置へ置き直した。寝台の木が小さく鳴ったが、隣の身体は離れなかった。屋敷から持ち帰った鞄は、階下の棚にある。綴りの枚数をもう一度確かめ、明朝届ける紙と一緒に収めてから上へ来た。アルバにも、目録の後半が揃ったことは話した。けれど、そこへ記された日付の説明から、右腿の話を続けることはできなかった。今、触れられたくない理由を聞かれれば、紙の話では済まない。
アルバは机の方へ片手を伸ばし、水の器を取った。自分で一口飲み、元へ戻す。ニルへ渡すための動きではなくても、その手を目で追っていた。「水は、まだありますか」と尋ねると、器の隣へ顎が向いた。もう一つは、ニルが来た時に置いてもらったものだった。持ち上げれば飲める。腿へ触らせなかったあとでも、同じ場所にある。ニルは自分で取り、半分ほど残った水を少し飲んだ。
器を返す時、服の皺へ目が下りた。右腿の外側には、自分の指で引いた細い折れ目が残っている。馬車を下りてからも、一度、同じところを握っていたらしい。布を伸ばすと、内側の古い引き攣りが少し動いた。皮膚に新しく触れたものはないのに、その場所だけを意識から外せなかった。ニルは掌を腿から浮かせ、寝台の縁へ置いた。アルバはその手を取らなかった。
窓の外で、見張りの兵が交代する声がした。返事は低く、門の金具が一度だけ鳴った。屋敷の玄関で聞いた使用人の声も、同じくらい静かだった。大声を出されなければ怖くないのかといえば、そうでもなかった。今夜は、分かった、という短い返事のあとを、何度も確かめている。ニルは隣を見た。アルバは窓へ顔を向けていたが、立つために足を引いてはいなかった。
「明日は、朝から基地ですか」
「昼前。先に医務室だ」
ニルの目が左の脇へ寄った。
「昨日と、変わっていませんか」
「変わらん。診せる」
「はい」
そこで返事を終えると、しばらく、二人とも話さなかった。言わなければならないことがなくなったのに、席は空かなかった。ニルは水の器を戻した手を膝へ置き、今夜はもう触ってほしいと言わないまま、その沈黙の中に座っていた。
自室へ戻ったのは、眠気が来てからだった。立つ時に、アルバは机の灯を少し寄せた。床へ下ろす足が見える明るさだった。「おやすみなさい」と言えば、いつもの返事が来た。ニルは戸を開け、廊下へ出たあとに、一度だけ振り返った。アルバは留め具を手元へ持ってきていた。今夜続ける仕事はあったのだ。そのために早く出ていけと言われたわけではなかった。
寝台へ入っても、右腿には服地を握った時の感触が残った。ニルは掛布の下で、指を開いては閉じた。今日は嫌です、と言った。手は来なかった。そばにいたいと言った。そこには座れた。二つを同じ夜に言えたことを思い出すと、次には、あの返事が何を取り消したのかを探してしまう。水を飲み、明日の話もした。廊下の向こうでは、留め具を置く音がまだ続いていた。今日は、と言ったからには明日何か返すのかとも考えたが、明日の触れ方について約束はしていなかった。
*
翌朝、ニルは窓辺の鉢を二つに分けた。夜の冷え方が違ったので、土へ触れてから水を足す。右膝を曲げ、台の下の鉢を引き出すと、寝間着の内側で皮膚が突っ張った。以前からある感覚だった。傷がつく前の自分なら、これを感じずにしゃがめたはずだと思っても、どのように脚を動かしていたかまでは戻らない。ニルは鉢を台へ載せ、葉の裏を見た。今日測る位置は分かった。
十一枚の写しは、照会の控えと一緒に届けた。家へ戻ってから空になった鞄を片づけると、底へ入れていた板だけが残った。角の折れた紙はなかった。受け取るために用意した幅へ、全部を収めて帰ってきた。そのことと、屋敷で触られたくなかったことを、同じ成功や失敗として数える必要はないはずだった。ニルは板を抜き、次に使う時まで机の脇へ立てた。
二日目の朝には、アルバが台所にいた。ニルは戸口で少し待ちかけ、鍋の脇へ通れると分かってから入った。棚から茶の器を二つ出す。昨夜も、それより前の夜も、腿の近くへ手が来ることはなかった。そのことを確かめるために自分から触ってほしいと言うのは、違う気がした。いつまで嫌だと言ってよいのかを尋ねることも、まだできなかった。「薄い方ですか」と声を掛けると、アルバはパンを切る手を止めず、「ああ」と答えた。
茶を渡し、向かいへ座る。アルバの椀にはニルと同じ煮込みが入っていた。鍋を温める時も、パンを分ける時も、何かの返事を待つ手つきではなかった。ニルは匙を口へ運び、豆を飲み込んでから、渡そうとしていた帳面を卓へ載せた。研究所の棚を移す相談なら、いつも通り話せる。そこまでを話す間に、自分の中には別の用件もあると、何度か思った。
三日目の夜、アルバの戸の前で足を止めた。まだ灯は点いていた。叩けば返事が来るだろう。ニルは右腿の布へ指を置き、何を最初に言うか考えた。風呂で見たものを覚えているか。それとも、ディモスが最後に呼んだ声の話から始めるか。どちらを先にしても、自分で焼いたことへ辿り着く。言葉を全部揃えてからと思うと、揃えるべきものがまた増えた。
その夜は、自分の部屋へ戻った。話していないことで、明朝の席がなくなることはなかった。けれど、黙っていれば、アルバが知っているのは、風呂で一度見えた皮膚の形だけになる。それで今まで困らせられずに済んだことも分かった。ニルは机へ座り、朝の記録を閉じた。見つけられなければよかったと思っていたものを、今は、見えているだけで終わらせたくなかった。
*
四日目の夕食のあと、ニルは器を拭き終えてからアルバを呼んだ。
「僕の部屋で、少し話してもいいですか」
アルバは鍋へ載せた蓋を確かめ、こちらを見た。
「今か」
「はい」
ニルは布を棚へ掛けた。洗い直す器はもうない。ひとつ残しておけば、言葉が出なくなった時にも手を動かせるかもしれないと思っていたが、拭いた分は全部戻した。
二階へ上がると、自室の机には、朝に使った帳面が置いてあった。ニルはそれを閉じ、椅子を寝台の方へ向けた。アルバが腰を下ろす前に、左側を曲げなくて済む位置へ少し動かす。「そこまででいい」と言われ、手を離した。自分は寝台の端へ座る。灯は机に残っていた分だけだったが、二人の顔は見えた。窓辺の葉には一部だけ光が当たり、残りは硝子の暗さへ重なっている。
アルバは、話す用事を先に尋ねなかった。ニルは膝へ両手を置き、右の掌だけを少しずらした。
「風呂の時、脚の傷を見ましたね」
「見えた」
返事を聞くと、掛布を引いて隠したい気持ちが、一度戻った。今は服を着ている。見せるためにここへ呼んだのではなく、話すためだった。
「あの時は、聞かれたら答えようと思いました。でも、聞かれなかったので」
アルバは頷いた。ニルはその目へ顔を戻した。
口にしてしまえば、始める時刻は決まった。けれど、何をされたのかという語より先に、身体の向きを変えた夜のことが出てきた。傷が見えないよう脚を閉じる。布の端を長く持つ。服を着てしまえば、朝には測定へ行ける。何でもないものとして扱うために覚えた動きばかりが、先に並んだ。ニルは袖の端を摘み、離した。
「最初は、火傷ではなかったんです」
アルバの目が、一度、右腿の方へ下りて戻った。
「字がありました。あの人の名前です。ディモスの」
名を言うと、口の中に、屋敷の茶の苦さが戻った。ニルは机の水へ手を伸ばしたが、器を持ち上げずに、指を縁へ置いた。指には硝子の冷たさが返った。誰も、飲み終えるまで待つように言ってはいなかった。器を離すと、思い出す方を止めていた息が、ゆっくり出た。
あの夜、窓の外が暗くなったことは覚えていた。自分がどれほど長く部屋にいたのかは分からない。卓へ置いた図の上から別の布が掛けられ、帰るために取るはずの鞄は、椅子の下へ寄せられていた。研究院の温室へ翌朝戻ることと、次の費用について話した。そのあとで何をどの順にしたかは、間が抜けている。目を開けていたのに、灯の火が遠くに見え、自分の脚も、そこから少し離れたもののようだった。
「小さな先生」と声がした。ニルは呼ばれた方へ顔を向けようとして、途中で止まった。首を戻す幅がうまく決まらない。ディモスの手が右脚を押さえ、もう一方に持った細い刃が灯を返した。何をするのか尋ねるために口を開いたはずだったが、出た息は言葉にならなかった。刃の先が腿の内側へ触れ、痛みが、その場所だけを急にはっきりさせた。
脚を引くと、押さえた掌に止められた。
「動かないで」
声は、いつもと同じ柔らかさだった。ニルはそれに合わせて身体を止め、止まれば何をされるのかを、そのあとで理解しようとした。短い線が肌へ残り、離れたところへ次の痛みが来た。書かれたものを上から読むことはできなかった。分かったのは、紙に書く時とは違い、次の線が来ても、前の痛みはなくならないということだった。
「これなら、忘れないだろう」
ディモスは言った。何を、と聞けなかった。名前だと分かったのは、相手が自分の名を口にして、最後のところへ指を置いたからだった。ニルはそこを見た。自分の腿に、他人の字がある。知っている名前なのに、一度も息を途切れさせずに読むことはできなかった。布を掛けられると、見えなくなった部分へも痛みが残った。
帰ったあとに服を替え、鏡を傾けて初めて、文字の形が揃って見えた。反対側から読まなければならない名だった。ニルは鏡を伏せた。翌朝、研究院で測定台へ屈むと、服の内側が擦れた。脚を開かずに済む位置へ椅子を動かし、片を支える腕の高さも変えた。記録には、その日に取った値と、操作の時刻を正しく書けた。何をされた夜の翌朝かという欄は、どの帳面にもなかった。
次に呼ばれた時も、同じ屋敷へ行った。名前の線がまだ痛む頃だった。ディモスは話の途中で脚へ手を置き、見えない場所を、服の上から指で辿った。「覚えているかい」という言葉にニルは頷いた。頷かずにいれば、布の下を見て確かめるのかもしれない。それが怖くて答えると、ディモスは嬉しそうに笑った。
「そうだろうね」
その声のまま、次の支援について話を続けた。
傷が塞がってからも、指は同じところへ来た。触れられれば脚を引きたくなり、引けば、忘れたのかと問われた。ニルは名前を言うようになった。相手が聞きたいものを先に出せば、確認する時間が短くなることがあった。それを覚えた自分の声だけが、回数を重ねるほど柔らかくなった。名前を刻まれた夜は途切れたところが多いのに、あとから指でなぞられた順番は、今でもよく分かった。
ニルは袖を握っていた。部屋の灯は机の上にあり、右脚を押さえる手はない。目の前にはアルバが座っている。話の途中から、肘を膝へ移し、前かがみになっていた。
「何度も、聞かれました。覚えているかと」ニルは言った。
「忘れていたことはありません。言えば、早く手を離してもらえる時があったので、僕は、名前を呼びました」
アルバは顔を上げたまま、続きを待った。
「この間も、声は同じでした」
それが、今日話している理由の全部ではなかった。けれど、再会しなければ思い出せない過去でもなかった。
「傷のことを言われたわけではありません。僕が、最後に言ったんです。身体に、もう名前はないと」
控室で待っていた人は、その言葉を知らない。今、聞かせれば、屋敷へ入る前に決めていなかったことまで、自分が選んで話したものになる。
アルバが短く息を吐いた。
「それで、あの痕か」
ニルは頷きかけ、首を戻した。文字が残ったことと、火傷になったことの間には、もう一つ夜がある。
「僕が消しました。自分で」
そう言うと、アルバの指がわずかに曲がった。椅子を立つ動きはなかった。ニルは机の水を取り、今度は一口飲んだ。喉へ落ちるまで待ってから、「研究院を離れたあとです」と続けた。
姉の家にいた頃には、着替えるたび、誰かが戸を叩かないか気にしていた。見せたことはなかった。セリュシアは研究院からの連絡を引き受け、次の研究所へ通えるようにしてくれた。ディモスの屋敷へ行く用事もなくなった。それでも、脚を見れば、名前はまだあった。相手が来なくても、知っている文字を自分で読めた。どこへ住むかが変わっても、服を脱げば同じものが残った。
この家へ移った頃、まだ、廊下の向こうに軍靴はなかった。誰かが帰る時刻を待つ必要も、寝る前に頼まれる用事もない。一人で鍵を閉め、台所を片づければ、その日の生活は終えられた。最初は、それでよいと思っていた。夜に呼ばれずに眠ることと、朝、自分の時刻で出ることを、ようやく同じ家でできた。けれど、ある晩、寝間着へ替えるために服を脱ぐと、右腿の名が灯の下へ出た。
もう読まなくてよいはずのものだった。ニルは身体を横へ向け、見えない位置に脚を戻した。見えなくしても、字がどこにあるかは分かる。指で確かめるつもりはなかったのに、布を引く手が、その上で止まった。屋敷では、覚えているかと聞かれていた。今は誰も尋ねない。尋ねられなくても、自分は読めた。
その夜、一人で火を使った。熱した金属を手にしたところまでは、今も自分の動きとして覚えている。皮膚へ当てた時、声を抑えようとした。誰もいない台所で、そうする必要はなかったのに、歯を合わせ、息だけを細く出した。痛みで膝が曲がり、用意していた姿勢は保てなくなった。それでも、ニルは文字のある方を見た。やめるかどうかを決める基準にしていたのは、自分の脚ではなく、まだ読める線だった。
熱のあとには、元の字より広い痕が残った。読める部分を消そうとするうちに、文字のなかった皮膚まで傷めていた。最初に何を考えたかは覚えている。翌朝、どのように服を着れば擦れずに済むかは、やってから考えた。布を当て、歩く時には右の脚を小さく動かした。誰かに診てもらえば、何があったかを尋ねられるだろう。それを避けたかった。傷が痛むことより、説明して見られることを先に考えていた。
しばらくして、皮膚の上からは名前を辿れなくなった。細い線の間へ、不揃いな盛り上がりが繋がっている。鏡を向けても、最後まで読めなかった。ニルはそこで、ようやく布を戻した。消せたと考えた。そのあとで立ち上がると、腿が痛んだ。字がなくなったことを確かめる時には、その痛みを、したことの残りとして扱っていた。
目を下ろすと、膝の向こうには寝台の縁があった。ニルは膝へ置いていた手を少し開いた。アルバはまだ椅子に座り、話し始めた時と同じように、こちらを見ていた。
「文字が読めなくなるまで、焼きました。そのあとに残ったのが、風呂で見えたものです」
言い終えると、傷を説明するための順番だけは、初めて最後まで繋がった。
「姉様は、知りません。名前をつけられたことも、僕が消したことも」
ニルは続けた。
「呼ばれていたことは、知っています。でも、これは、言っていません」
アルバは頷いた。姉へ今すぐ知らせるために立つことも、いつ話すのか尋ねることもなかった。ニルは、その次に来るはずだと思っていた語を待った。馬鹿なことをした。どうして一人でそんなことを。どれも、自分なら何度でも思いつけた。
アルバが口を開いた。
「今も、痛むか」
「擦れると、少し。深くしゃがむと、ひきつれることもあります」
それには答えられた。いま血が出る傷ではなく、ずっと前に塞がっている。
「前は、消せたならよかったと思っていました。あの人のものが残っていなければ、それで」
ニルは右腿へ目を下ろした。服の下にある形を見なくても、どの部分が引き攣るか分かった。
「それで、僕の脚を焼きました」
言葉がそこで止まった。研究院から離れ、自分で住む場所へ来てからも、誰かの名を消すために、自分の身体の痛みを後へ回した。消したことは、今も取り消したくなかった。けれど、名を消したことと身体を傷めたことを、どうしても分けられなかった。布が擦れ、姿勢を変えれば痛む。そのたびに否応なく突きつけられていたが、不便を隠して過ごせたから大丈夫なのだとしていた。
「名前は、残したくありませんでした」
ニルは顔を上げた。
「それは、今も同じです。でも、僕の皮膚までなくしたかったわけではないんです」
袖を摘みそうになり、今度は手を開いたままにした。
「自分で消したなら、身体も自分に返ってきたことになると思っていました。傷をつけたことまで、同じ言い方で済ませていたんですね」
アルバは膝に置いた指を少し伸ばした。
「消した。それで、怪我もした」
アルバに言われてニルは頷いた。二つを言われても、片方をなかったことにされるわけではなかった。
水の器を両手で持ち直した。飲むにはまだ残っていたが、指を置く場所が欲しかった。話しているうちに、傷の形を見せて確かめてもらわなければ、説明を終えたことにならない気がした。右脚の布へ目を向けると、アルバもそちらを見た。
「まだ、話すことがあるか」
問いは脚についてではなかった。ニルは器の縁から指を離した。
「言いたかったのは、ここまでです」
「そうか」
何を思ったか、聞きたかった。嫌になったかと尋ねれば、また相手の顔に合わせた返事を作り始めるかもしれない。それでも、目を上げるのをやめたくはなかった。
「聞いて、どうでしたか」
ニルが言うと、アルバは少し黙った。机の灯が小さく揺れ、椅子の背にある影が動いた。
「何と言えばいいかは、分からん」
低い声が返った。ニルは器の底を見た。分からないと言われたことへ、残念な気持ちはあった。けれど、分かっていないものを、こちらが安心するように埋められたわけではなかった。
「はい」
ニルは答えた。それから、「僕も、全部は」と言いかけ、残りを飲み込んだ。今夜話したのは、答えが揃ったからではなかった。傷を見られた時にも、屋敷へ行く前にも、言うことはできたかもしれない。できなかった夜の分を、いま全部説明し直す必要はない。アルバが知っていることの中へ、自分が話した順番で、この傷のことも入った。それを確かめるために、脚を出す必要はなかった。
ニルは器を机へ戻した。手が空くと、右腿へ載せかけ、掛布の端を持つ方へ変えた。
「今日は、ここで寝ます」
アルバが頷き、椅子から身体を起こしかけた。
「もう少し、いてもらえますか。そこに」
最後の言葉と一緒に、椅子を見た。アルバは足を戻し、「分かった」と答えた。ニルは自分で枕を寄せ、脚を寝台へ上げた。痕の上に布の皺が重ならないように、右脚を少し伸ばした。
灯を少し低くしてもらい、掛布を肩へ引いた。アルバが椅子へ座り直すと、木が短く鳴った。眠れるかどうかは、まだ分からない。目を閉じれば、字の線や、覚えているかと聞く声が戻るかもしれなかった。ニルは掛布を持つ指へ、しばらく力を入れていた。その間にも、腿へ確かめる手は来なかった。
椅子の脚が、床を一度擦った。ニルは目を開けた。アルバは立ったのではなく、足の置き場所を変えたところだった。こちらを見て、何も尋ねずに座っている。ニルは顔を枕へ戻した。今は触ってもよいと、言うこともできた。けれど、今夜してほしいのは、そこにいてもらうことだった。掛布の端を握る指が少し緩んでからも、返事を付け足さずに目を閉じた。眠りへ入るまで、腿の近くに残ったのは、自分の手だけだった。




