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Ipomoea  作者: Tanahituzi


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第28章 今、言っています

「全文が揃っているのは、カーヴァン家の控えだけでした」


 セリュシアは送付状を食卓へ置き、その下から、研究権利の譲渡契約について尋ねた照会の控えを出した。院が提出したものには付属目録の後半がなく、ルーヴェ社から引き継がれた書類も、登録された範囲を示す抄録だけだった。権利が外へ移ったことは、もう確かめている。軍がその取得に費用を出したことも分かっていた。けれど、渡された権利と作業記録の一つ一つを結びつけるには、まだ足りない頁があった。


 ニルは送付状を手前へ向けた。ディモス・カーヴァン伯。宛先を何度も書いたことのある名だった。本文には、当時の支援者側の控えに、契約本文と目録の全頁が綴じられているとある。最後の二行は別の筆で、ニル本人が来るなら用意しておく、と添えてあった。時刻はこちらで知らせてよい。そういう返事が、セリュシアの出した依頼へ戻ってきていた。


 アルバが王都外から戻って三日が経っていた。少年はその日、ヴァレットのいる家へ行くことになっており、迎えに来たセリュシアが、この紙も届けたのだった。ニルはその朝に測った鉢の帳面を閉じ、卓の端へ寄せた。ここへ自分で行けば、帰る時には契約写しを持っている。返事を読み終えた途端、鞄へ何を入れるかまで考えていた。


「僕が、受け取りに行きます」

「私が行ってもいいのよ」とセリュシアが言った。

「あなたでなければ受け取れない契約ではない。もう一度、その点を書いて送ることもできるわ」

「分かっています」


 ニルは頷いた。急いでいるから、行くしかないと言えば、姉は別の手順を挙げてくれるだろう。それが間違いでないことも分かった。


「でも、僕は、この人が持っている分を自分で見たいです。抜き書きだけを受け取るのではなくて」


 セリュシアは椅子へ背を預けず、送付状の端に指を置いた。


「行くなら、私も一緒に」


 ニルは紙から顔を上げた。姉が隣にいれば、話すべきことを代わりに尋ねてもらえる。昔と同じ声で呼ばれた時にも、こちらが返事を作るより先に、用件へ戻してもらえるかもしれない。その場面を思い浮かべると、もう姉に任せたい気持ちがあった。「姉様には、来ていただかなくていいです」と言ってから、理由を増やすために目を下げそうになった。


「僕が、話します」


 セリュシアの指は紙を押さえたままだった。「一人で行くつもり?」と聞かれ、ニルは首を振った。台所の戸口にいたアルバへ顔を向ける。彼は水の器を棚へ戻し、こちらを見た。


「屋敷まで、一緒に来てもらえますか」

「どこまでだ」

「玄関から、控室まで。話をする部屋には、僕だけで入ります」


 アルバは送付状へ目を落としたが、紙を取らなかった。


「分かった。時刻を出せ」


 ニルは新しい紙へ、二日後の午後なら行けると書いた。契約の全文と目録を一緒に受け取りたいこと、同行者が一人いることも加える。昔なら、同行者について先に断りを求め、相手の都合を聞いてから時刻を決めていた。今も、差し支えなければ、とペンの先が動きかけたが、その言葉を入れなくても、用件は伝わった。封をする前にセリュシアへ渡すと、彼女は最後まで読み、来訪を待つという返事を受け取ってから出るよう言った。


 


 見張りのいる玄関から姉を送り出したあと、ニルは鞄の底へ硬い板を入れた。契約の角が折れないようにするためのものだった。照会の控えと番号を書いた紙を載せ、口を閉じる。用意はそれで済んだのに、一度開き、板が傾いていないか確かめ直した。アルバは食卓の帳面を動かさず、隣の椅子へ腰を下ろした。左の脇を曲げる前に、右手で座面を押さえている。


「傷は、もう診てもらったんですか」

「今朝。変わらん」


 ニルは頷き、鞄から手を離した。訊けば答えが来ることを確かめるために、傷の話を持ち出したのかもしれなかった。アルバは窓の外を見てから、「向こうで待つ部屋は、着いてから決める」と言った。


「はい」

「そこへ戻ってこい」


 ニルはもう一度頷いた。受け取る紙の枚数はまだ知らなくても、屋敷を出る時、一人で馬車を探す必要はなかった。


     *


 門の内側には、枯れた葉が一枚も溜まっていなかった。敷石の両側に低い木が植えられ、枝の下を通る水路にも、濁ったところはない。ニルは馬車から下り、刈られた枝の先を見た。切り口を揃える位置が高すぎる。春に芽が出ても、隣と擦れやすいだろうと思ったが、それを記す紙は鞄へ入れていなかった。玄関へ向かう三段の石も、以前と同じ幅で続いていた。


 戸を開けた使用人は、ニルの名を確かめてから会釈した。洗った布と、床に使う蝋の匂いがした。廊下の奥には花を活けた大きな器があり、その向こうの窓から、午後の光が床へ長く入っている。急ぐ足音も、大声もなかった。外套を預かると手を差し出され、ニルは留め具を外した。内側の襟を折って渡す動きは、相手が受け取るより早かった。


 アルバの外套も隣の釘へ掛けられた。軍服の留め具を見た使用人は、奥へ案内する前に、一度こちらへ顔を戻した。


「お連れ様は、こちらでお待ちいただくよう伺っております」


 示された控室には、二脚の椅子と小さな卓があった。窓は玄関前の道へ向いている。ニルが中を覗くと、アルバは戸の内側へ入り、右の椅子の脇へ立った。


「終わったら、ここへ来ます」


 ニルが言うと、アルバは頷き、椅子の背へ手を置いた。ニルは鞄を持つ指を緩め、使用人の方へ戻った。廊下を進むと、足元の敷物が厚くなり、靴音が途中で消えた。曲がる角は一つだけだった。そこを覚えてから、先の戸を見た。閉じた扉の前で使用人が名を告げ、返事を待って開けた。


 ディモスは窓際の椅子から立ち上がった。濃い色の上着に、白い襟がよく見えた。髪のこめかみには以前より白いところが多かったが、こちらへ向く時、顎をわずかに上げる動きは変わらない。


「小さな先生」


 そう呼ばれた途端、ニルは口元を緩めていた。


「よく来たね。会えなくなってから、ずいぶん経つ」

「ご無沙汰しております」


 声も、用意していたものより柔らかくなった。ニルは鞄を身体の前から外し、相手へ会釈した。送付状で読んだ名と、目の前の顔は、同じ人のものだった。それを考え直す時間が要らないほど、返事をする身体の方が早かった。ディモスが近づいてくるあいだも、ニルは戸口から一歩進み、通る幅を空けた。


「髪は、まだそうしているんだね」


 ディモスの目が結び紐へ向いた。


「研究室では、邪魔になりますから」

「前にもそう言っていた。結んでいない方が、私は好きだったが」


 ニルは紐へ手を上げかけた。が、ほどく用事はなかった。鞄の持ち手をもう一方の手で支えると、上がりかけた指も、そこへ戻せた。


 使用人が茶の器を二つ並べた。ディモスは窓に近い長椅子を示し、「こちらへ」と言った。向かいにも椅子はあったが、そちらへ座ろうとは身体が動かなかった。ニルは示された端へ腰を下ろし、鞄を膝へ置いた。卓には厚い綴りがあった。青みのある表紙には、研究院の院務番号と、ルーヴェ薬剤研究社の名が並んでいる。紙を受け取る用件が、ここにあった。


「これを探していたのだろう」


 ディモスは表紙へ掌を載せた。


「姉上からの手紙を見て、書庫を調べさせた。よく残してあったものだ」

「契約本文と、付属目録も揃っていると伺いました」

「揃っているよ。今日は、そんなに急いで帰らなくてもいいだろう」


 器が卓のこちら側へ置かれ、ニルは礼を言った。契約の綴りはディモスの手の下に残った。


 使用人が出ていくと、ディモスは長椅子の反対側へ座った。二人の間には鞄を下ろせるほどの幅がある。


「エヴァンの方では、うまくやっているのかな」

「小温室を使わせてもらっています。今は、損傷した茎の測定を」

「仕事があるかという話だよ」


 ニルは口を閉じ、頷いた。


「あります」

「それはよかった。あんなふうに急に移れば、馴染むまで難しいこともあるだろうから」

「研究に必要なものは、揃っています」


 ニルが答えると、ディモスは茶の器を取った。


「君には、場所さえあればいいのだね。前から、寝る所より温室を気にしていた」


 ニルは鞄の持ち手を膝から外した。そう言ったことはあった。けれど、何でもよかったわけではない。器具があるか、株を育て続けられるかと尋ねる言葉は知っていても、寝る場所について尋ねる時には、どこまでを望んでよいのか分からなかった。


 卓の上にある綴りへ顔を向けると、ディモスの指が表紙の番号を撫でた。


「あの研究は、ずいぶん費用が掛かった。君が一度説明を始めると、必要なものが次々出てきたね」

「測る条件を変えると、同じ試料では比較できなかったので」

「君の話は細かいね」


 笑いの混じった声で言われ、ニルは残りの説明を止めた。そのあとで、今も同じところで口を閉じたのだと分かった。


 以前、この部屋で、図を三枚広げたことがあった。ディモスが先の一枚を伏せ、「先生の話は、あとにしよう」と言ったので、ニルは三枚とも重ねた。研究院から借りてきた器具を返す日が近づいており、その紙を見てもらうために来ていた。


「私のところへ来る時まで、そんな顔をしなくていい」


 言われて初めて、眉間へ力を入れていたと気づいた。笑うと、向こうの指が頬に触れた。


「そう。そちらの顔の方がいい」


 ニルはその顔のまま、紙を出し直してよい時を待った。


 今、膝に置いているのは鞄だった。図は一枚も持ってきていない。ニルは持ち手から指を抜き、照会の控えを取り出した。


「この番号の目録を、先に見せていただけますか」


 ディモスは紙へ顔を寄せたが、受け取らずに頷いた。


「見せるよ。そのために呼んだのだから。茶が冷めてしまう前に、少し話そう」


 飲まなければ、次へ進まないのだろうか。ニルは器を持ち上げ、ひと口含んだ。熱さがまだ舌の奥へ残る。以前よりも苦い茶を使っているのか、同じものを、今日は違う味として飲んでいるのかは分からなかった。ディモスは器を卓へ戻し、ニルの方を向いた。


「新聞の件も、読んだ。何やら大変なことになっているようだね」

「当時の資料を、確かめているところです」

「だから、この古い契約が要る」

「はい。何の権利と記録を渡したのか、目録の続きを読まないと分かりません」


 ディモスは表紙を持ち上げ、最初の頁を開いた。ニルが膝から鞄を下ろそうとすると、「そこに置いたままでいい」と言われた。紙を載せる場所が要るのだと答えかけたが、先に開かれた頁へ目が寄った。契約の日付は、自分が研究院を出たあとだった。


 ニルは院務番号を照会の控えと比べ、次の頁を見た。成果の利用、許諾、譲渡についての条項は、既に受け取った資料と同じだった。続く目録には、論文の題だけではなく、作業記録の別綴、配合を直した試験、測定条件を追記した頁が並んでいる。自分が院を離れる時、持って出られなかったものだった。ニルは目録の下へ指を置き、今まで読めなかった枝番号を辿った。


「この記録まで、含まれていたんですね」

「まとめて渡した方が、続きをする者も困らないだろう」ディモスは答えた。

「公刊した式だけでは、作れません。合流する位置を変えた条件は、まだ外へ出していなかったので」


 ニルが言うと、ディモスは頷いた。


「だから、君の仕事には値打ちがあった。そこを分かってくれる相手へ渡すことも、支援した側の仕事だよ」


 目録の次の頁には、記録の受渡しを確認した日と、担当者の名があった。登録所の抄録では、権利が移った日しか分からなかった。これを軍の基礎資料整備の支出と並べれば、取得のために払われた費用と、受け取った記録を照合できる。ニルはその日付を控えへ写し、綴りの後ろまでめくった。本文六枚、付属目録四枚、原本との照合を記した一枚。表紙にある総数と合っていた。


 


 綴じた部分に指を残していると、ディモスが「どうだい」と聞いた。ニルは顔を上げた。


「こちらを、全部持ち帰れますか」

「そのつもりで写させたのだよ」


 青みのある表紙が少しこちらへ押された。受け取ろうと両手を出す前に、ディモスの手がニルの肩へ置かれた。


「それを読んでいる時は、本当に昔と同じだね」


 肩が下がった。掌の重さに合わせて、身体を小さくする動きだった。ニルは紙へ添えた指をそのままにし、相手の手を見ないように顔を上げた。こうすれば早く済むと考えるより前に、口元はもう緩んでいた。ディモスは親しげに笑い、襟に近い布を指で払った。何かがついていたのか確かめようとして、目を下げかけたが、その手は退かなかった。


「いつも、君の鞄は紙で膨れていた。ここへ来ても、私の顔より先に、机を見ていたね」


 ニルは卓へ戻りそうになる視線を止めた。机にあったものが要ったから、見ていた。そう返せばよかったのに、「失礼を」と最初の言葉が出た。続きを謝罪しないまま口を閉じると、ディモスの指が肩の布を軽く押した。


「責めてはいないよ。ああいうところも、私は気に入っていた」


 窓の外で、枝の影が壁を動いた。部屋は暖かく、ニルの足元へも、暖炉から熱が届いている。庭には人がいて、使用人も先ほどまでここにいた。何かを隠すために暗くされた場所ではなかった。ディモスは肩に手を置いたまま、窓を見た。


「この部屋も、ほとんど変えていない。懐かしいね」


 頷くために、首へ力が入った。ニルは息を吸い、そのまま吐いた。


「僕は、そうでもありません」


 ディモスの目がこちらへ戻った。口元の笑みはまだ残っている。


「研究院を出た時は、急だったからね。姉上の判断には、私も驚いたよ」

「僕が、ここへ来なくなったことですか」

「連絡が全部、あちらを通るようになったことだよ。君は、何も言わなかった」


 ニルは控えの紙を目録の上へ置いた。今、それについて何を言うべきか考えれば、契約が要る理由まで遠くなる。


「こちらの綴りを、鞄へ入れます」


 声を用件へ戻すと、ディモスは肩から手を離した。ニルは綴りを持ち上げたが、膝の鞄が邪魔で口を開けられず、いったん卓へ戻した。今度は鞄を床へ下ろそうと身を屈めると、背の脇へ、また手が来た。


「荷物は預けてくればよかったのに」


 ディモスの手のひらが、腰に近い上着へ当たった。ニルは鞄を置く手を途中で止め、顔を上げた。近すぎるところに襟と、上着の釦が見えた。姿勢を戻せば、手も離れるだろうと思い、鞄を膝へ戻して座り直す。けれど、ディモスもこちらへ身体を向け、空いたところへ少し寄った。さっきあった幅が狭くなっていた。


「君がいなくなって、つまらなくなったよ」


 声は低くなったが、怒ってはいなかった。


「難しい話をして、あとで急に静かになる。私は、ああして一緒にいる時間が好きだった」


 ニルは返す言葉を探した。研究の説明を聞いてもらえた夜もあった。それが全部つまらなかったと言えば、嘘になる。けれど、説明をやめたあと、ここに残りたいと思っていたわけではなかった。今でも、相手に気に入られた返事を出せば、綴りを鞄へ入れるところまで、滞りなく進むかもしれない。


 腰の布に当たっていた手が前へ回った。ディモスはニルの膝にある鞄を見て、「それは、こちらへ」と長椅子の端を示した。言われた通り、鞄を端へずらす。空いた膝へ視線が下り、相手の手も、その方へ動いた。鞄の持ち手を掴んだ自分の指と、近づいてくる指が、目の中に一緒にあった。右腿の布へ届く前に、ニルは息を止めた。


 アルバが帰ってきた夜、触ってほしいと思ったことは覚えていた。背に置かれた手の重さも、今も思い出せる。だから、触れられることそのものが、いつでも嫌なのではないはずだった。それを今ここで説明しようとした途端、何を言えば相手に分かってもらえるかという考えだけが先へ進んだ。嫌なのだと伝える前に、矛盾がないことを確かめようとしていた。


 ニルは鞄の持ち手から指を一本離した。近づく手を押し返すつもりだったが、掌は膝へ下りただけで、相手には届かなかった。今、してほしくないことがある。それなら、そのことを先に言わなければ、手は来る。


「触らないでください」


 ディモスの指が止まった。ニルはその指から顔へ目を上げた。眉がわずかに上がり、半ば開いていた口が閉じられた。軽い驚きの形だった。


「どうしたんだい」


 ニルの方も、すぐには次の息を吸えなかった。声を出したのに、手はまだ自分の近くにある。こちらが笑って言い直すのを待つように、ディモスは顔を向けたままだった。


「触られたくありません」


 ニルは言い、肩を少し戻した。ディモスの手が下がり、長椅子の布へ置かれた。腰のところにも、もう重さはなかった。


「昔は、そんなことを言わなかったね」


 ニルは頷かなかった。言わなかったことを否定すれば、それも事実ではなくなる。脚を引こうとして、靴の踵が長椅子の下へ当たった。


「今、言っています」


 ディモスはニルをしばらく見てから、身体を向こうへ戻した。


「そうか。久しぶりに来たのだから、もう少しゆっくり話せるかと思ったが」


 ニルは鞄を膝へ戻し、留め具へ手を掛けた。口は、思っていた向きには開かなかった。金具を押さえる指が震え、ずらしたところを、また同じ指で押していた。ディモスは茶の器を取り、ひと口飲んだ。ニルの手へ手を重ねて、開けてやろうとはしなかった。


 綴りを返せ、と言われるだろうか。送付状に書かれていたのは、来れば用意するという言葉だけだった。それでも、ニルはまだ、卓の青い表紙を取れずにいた。断ったことをなくすために微笑めば、続きを作れる。その動きが口元に残り、何も言っていないのに、頬へ力が入った。ニルは舌を上顎から離し、息を吸った。


 留め具は、端を押さえ直すと外れた。口を開け、膝の上で鞄を支えた。中に板があり、持ち帰る紙を入れる幅も空いている。そこまでを用意して、この家へ来たのだった。


「写しは、いただきます」


 ディモスが器を下ろした。ニルは綴りの端へ手を置き、今度は離さなかった。


「目録も含めて、十一枚。こちらの照会に対する受領書は、受付へ渡します」


 用意していた用紙を鞄から出すと、指の震えで角が擦れた。それでも、日付と受け取った物は書ける。羽ペンを取り、本文、付属目録、照合書と順に記した。ディモスは書き終えるまで、横から覗いていた。


「君は、本当に仕事で来たのだね」


 声には、少し笑いが戻っていた。


「そうお伝えしました」


 相手を怒らせるために選んだ返事ではなかった。けれど、今の言い方を、昔ここへ来た自分が使えたとは思えなかった。ディモスは綴りを手前へ引き戻さず、署名を確認した頁が折れないよう、端を揃えた。ニルは自分で受け取り、鞄の底へ入れた板に沿わせた。


 照会の控えも重ね、鞄の口を閉じる。茶は半分以上残っていた。


「では、失礼します」


 ニルが立つと、ディモスも器を戻した。


「もう帰るのかい」

「必要なものは、受け取りました」

「そういう意味ではないよ」


 向こうも立ち上がり、卓の端を回った。ニルは長椅子から離れ、鞄を両手で持った。右脚へ体重を掛ける時、膝が一度緩んだが、敷物の上へ靴を置き直せば立っていられた。


「送らせようか。夕方になると、門の外は風が冷たい」

「車を待たせています。同行した人も」

「軍人だと聞いたよ」


 ディモスは戸の方を見た。


「彼のところへ戻りたいのか」


 ニルはその言い方で、さっき控室に置いてきた人が、こちらにいる時間を数える相手へ変えられた気がした。帰りたいのは本当だった。けれど、アルバがいるから、ここで触られたくなかったのではない。


「今日は、ここまでです」


 言ってから、屋敷にいる時間についても、自分が決めた返事だったと分かった。


 ディモスは呼び鈴を取った。響きは短く、すぐに廊下で足音がした。扉は、使用人が外から開けた。出ることを止める手も、鍵の音もなかった。ニルは鞄を脇へ寄せ、戸口へ向かった。そこで会釈をすれば、訪問は終わる。笑って礼を言う顔まで、もう作りかけていた。


「小さな先生」と、後ろから呼ばれた。ニルは振り向いた。ディモスは卓の脇に立ち、もう手を伸ばせる距離にはいなかった。

「すっかりよそよそしくなったね。私の名前まで、忘れたわけではないだろう」


 ニルは相手の顔を見た。忘れていなかった。紙の上で見れば、指が止まる。それでも、ここへ来る前と、ここを出る時に、同じ返事をする必要はなかった。


「僕の身体に、あなたの名前はもうありません」


 ディモスの手が、呼び鈴の柄を持ったまま止まった。ニルは鞄の持ち手を押さえ直した。どういうことか、と聞かれる前に、廊下へ向きを戻す。口の中は乾いていて、会釈をする時にも、唇の端が引かれそうになった。ニルは笑う代わりに頭を下げ、扉を通った。使用人が後ろで戸を閉めるまで、足を止めなかった。


     *


 角を一つ戻ると、控室の戸は開いていた。アルバは椅子へ座っていたが、ニルが廊下へ出てきたところで立った。二枚の外套も、控室の掛け釘へ移っていた。


「終わったか」

「はい」


 ニルは答え、鞄を持ち上げかけた。


「十一枚、揃っていました。目録も、後ろの受渡しの日付も」


 アルバの目は、鞄から、それを持っている指へ動いた。指を離して持ち直しても、震えは止まらなかった。


 何を話したかと聞かれれば、契約の番号から答えることはできた。けれど、アルバは続きを尋ねず、ニルの外套を釘から取った。差し出された布を受け取り、鞄を卓へ置く。袖へ腕を通す間だけは、指を持ち手から離せた。襟の下で留め具を探すと、布の端を先に掴んでしまい、金具を引き出すためにやり直した。震える指で留めるのは至難の業だった。


「留めるか」とアルバが聞いた。

「お願いします」とニルが答えると、手が襟の下へ来た。留め具を合わせ、布を挟んでいないか一度見てから離れた。ニルはその手を見た。肩にも、腰にも、続いて置かれることはなかった。アルバが自分の外套を着る間に、ニルは鞄を取った。使用人へ受領書を渡すと、伯爵へお届けいたします、と返ってきた。ニルは頷いたが、返事のために顔を緩めたことへ、頷いたあとで気づいた。


 


 玄関の戸が開くと、冷たい風が頬へ当たった。ニルは段の端に靴を置き、次の石までの高さを見た。入る時にも通った三段だった。紙を入れて重くなった鞄が傾き、金具が外套へ小さく当たる。アルバは先に庭へ下り、ニルが最後の段へ足を置くまで、門の方へ歩き出さなかった。手を差し出されていないことが、今は足元を見ていられる理由になった。


 馬車の戸を開けてもらい、ニルは内側へ鞄を置いた。アルバが向かいへ乗る時には、座面へついた右手が見えた。左脇を押さえるような動きはない。戸が閉じると、屋敷の窓は硝子越しに一つだけ残り、車が動き始めてから、門柱の後ろへ隠れた。「家でいいか」と聞かれ、ニルは頷いた。


「写しは、明朝届けます。先に、家へ」


 アルバは窓を開け、御者へ行き先を伝えた。


 舗装の継ぎ目を越えるたび、鞄の金具が同じ場所へ当たった。ニルは鞄を座面の奥へ寄せ、手を膝へ戻した。契約を開けば、さっき読んだ枝番号をもう一度確かめられる。全部を受け取っていることも、表紙にある枚数で分かる。けれど、今は留め具を開ける気になれず、窓の外の、店先から片づけられていく籠を見ていた。


 車が曲がり、身体が横へ寄ったところで、腿にある布が強く引かれた。ニルは目を下ろした。鞄から離した右手が、外套の下へ入り、自分の右腿の服地を握っている。いつからそうしていたのか、分からなかった。指の間に細かな皺が寄り、握ったところだけ、濃い影になっていた。

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