第27章 止めたあとにも
「七日。道が悪ければ、八日になる」
アルバは外套の留め具を確かめながら言った。王都の外にある駐屯地を回る通常の任務だった。前の晩にも聞いた日数なのに、ニルは、食卓へ置いた帳面の日付をもう一度見た。今日の朝を数に入れるかどうかで、帰る日が一日違う。
「戻るのは、七日目の夜ですか」
「早ければ。その日のうちに基地を出られなければ、翌日だ」
ニルは頷き、帰宅の予定を書いた行の下へ、もう一つ日付を加えた。
少年はパンを食べ終え、二人の間にある紙を覗いた。
「そんなに、飯いらないの」
「ここではな。向こうで食う」
「籠の方は?」
アルバは棚を見て、「残してある」と答えた。少年が確かめに行くと、紙包みを戻す音がした。ニルも鍋の残りについて聞きかけたが、今朝の分を食べ切る話より、七日後のことを聞いていたかった。
「移動は、ずっと馬ですか」
「馬車も使う」
「傷は、見てもらったんですね」
「昨日。乗っていいと」
そこまで返事が来ても、左側へ荷を掛けないかと目が寄った。アルバは鞄を右手で持ち上げた。
留守の間も家の見張りは続くことになっていた。ニルが研究所へ出る日は、少年が日中をセリュシアの家で過ごし、夜まで戻れない日には泊まることも、本人と話して決めてある。朝と夕方の迎えについて書いた紙は、居間の棚へ置いた。少年は、自分には読めない行を増やすより先に、何日の夜はここへ帰るのか、声で確かめた。「今日の夜は、ここですね」とニルが言うと、「それは覚えてる」と返された。アルバが玄関へ向かうところまで、少年はついていった。
戸を開けると、通りで待つ車の幌が見えた。アルバは外の兵へ短く声を掛け、ニルへ顔を戻した。
「変わったことがあれば、基地へ知らせろ」
「はい」
ニルは右の袖へ指を置いた。留め具を直すためではなく、布に触れるためだった。アルバの腕が止まり、ニルが指を離すまで、鞄は持ち上がらなかった。出る時刻を遅らせたいわけではない。そう思ったあとにも、同じところへもう一度触れたかった。
「気をつけてください」
「ああ」
返事を聞いて、ニルは手を下ろした。
車が角を曲がると、少年は先に台所へ戻った。ニルは玄関の戸を閉め、掛け釘の下を見た。外套が一枚ないだけで、廊下が広くなったわけではなかった。以前にも、軍務で何日か戻らないことはあった。いつ出たのか知らず、靴がないのを見つけてから不在に気づくこともあった。その頃には、台所を使う時に待たずに済み、夜の足音で目を覚ますこともなかった。今朝は、戻る日を二つ聞いたうえで、どちらにもまだ遠いと思った。
三日目の夕方、ニルは鍋へ入れる根菜を切り直した。火へ掛ける前に大きさを揃えれば、途中で硬さを確かめる手間は少なくなる。そうしている間に、少年が先にパンを食べ始めた。
「煮てから切れば」
「それでは、熱いです」
「今、腹減ってるんだけど」
ニルは最後の一切れを鍋へ入れた。測るほどではないと思いながら、汁に足す塩だけは、小さな匙の端まで揃えてしまった。
少年は買った緑の上着を椅子へ掛け、文字を練習した紙をその下から出した。水とパンなら、見本を隠しても分かるようになったと言う。ニルが字へ近づくと、紙は少し戻された。
「まだ、書いてる」
「その線は、こちらまで続けると」
「あとで見せる」
ニルはペンを取らずに手を引いた。鍋の底を混ぜる用事へ戻っても、線の終わりを直すなら一度で済む、と頭の中では考えていた。
汁ができた時には、少年のパンは半分ほどなくなっていた。ニルは二つの椀を卓へ運び、いつもアルバが座る側へ一つ置きかけて、向きを変えた。少年が匙を沈める。
「二人だと、変」
「量が多かったですか」
「そうじゃなくて。そっち、喋ってるの、おまえだけ」
ニルは空いている席を見た。調理の順番についても、今日の紙についても、短い返事の来る方へ、何度か顔を向けていた。
「君も、話していますよ」
「聞いたからだろ。あいつなら、もう切れとか、先に食えとか言う」
少年は根菜を匙で押し、柔らかくなっているのを確かめた。
「これは、ちゃんと食えるけど」
ニルは礼を言いかけ、それを聞かれたのではないと思って口を閉じた。椀は温かく、食べる物が足りないわけでもない。仕事で待っている返事も、この席では出せない。それでも、少年が食べる速さを見てから、空いた椅子へ、また目が動いた。
寂しいのだと思った。誰かへ説明するために選んだ語ではなく、匙を動かしている途中に出てきた。危ない仕事をしていないか、傷が悪くならないかという心配なら、帰ってきて確かめればよい。今は、調理の説明を切られることまで待っていた。少年へ全部話せば代わりになるものでもなかった。ニルは自分の椀へパンを浸し、これが崩れる前に引き上げるよう言われた時の声を思い出した。
朝には、いつも通り目が覚めた。硝子に触れそうな葉を内側へ戻し、土を見てから、水を足す鉢と足さない鉢を分ける。研究所でも、測定を始めれば、取るべき値は分かった。けれど、家で台を窓から離したあとの土の乾き方を比べた時、今夜なら説明を聞いてもらえると思いかけた。出勤前、帳面を鞄へ入れてから、アルバが戻る日を確かめる。そこで数えた残りの日数は、葉の増減よりずっと遅く変わった。
七日目の夜、少年は独楽を包みながら、明日は向こうへ泊まる、ともう一度言った。ヴァレットが本の続きを見せる約束をしていて、翌朝にも時間があるらしい。
「文字、忘れたかもやる」
「練習した字ですね」
「本の方。ここ、前は分かったのに」
広げた紙には、折り目を避けた字が残っていた。ニルは読んでやる前に、少年が指している場所を見た。
「明日の夕方に迎えが来ます。帰るのは、その次の昼でよいですか」
「うん。昼は、ここで食う」
少年は紙を畳み、独楽とは別のところへ入れた。
*
八日目は、ニルの休みだった。午後、玄関の取っ手が動いた時にも、鉢の受け皿を拭いていた。通りの車輪はもう止まり、外の兵と話す声も聞こえていた。それでも、戸が敷居を擦って持ち上がるまで、布を置けなかった。朝には帰らなかった。そのことを理由に、今日も夜になるまで戻らないと考え直したばかりだった。ニルは受け皿を台へ下ろし、廊下へ出た。
アルバが靴の泥を落としていた。幌から降りる時についたらしい乾いた草が、外套の裾に一本残っている。鞄を下ろし、顔を上げる。
「戻った。何か――」
「会いたかったです」
ニルは、聞かれそうなことの答えより先に言った。声にすると、七日分を一度に伝えるには短すぎる気がしたが、別の語を足さず、近づいた。アルバの右側へ身体を寄せ、外套の背へ両手を置く。鞄の紐が肩へ当たったので、その端を避けて抱きついた。
外套は冷たかった。袖へ触れる時にはいつもすぐ離していた指が、今は背の布を掴んでいる。左の脇を押さえないよう、右の肩へ顔を寄せた。アルバが息を吸い、手がニルの背の近くで止まった。
「腕、回していいか」
「はい」
返事をすると、手のひらが肩甲骨の下へ置かれた。引き寄せる力は強くなかったが、ニルが片足を寄せた分だけ、腕の位置も変わった。
「七日か八日だと、聞いていたんです」
ニルは外套へ顔を寄せたまま言った。
「ああ」
「分かっていたのに、長かったです」
返ってくる声を聞くと、もっと話したくなる。何を聞いてほしいのかは、抱きつく前より分かりにくくなった。アルバの手が背の上で一度動いた。
「俺も、顔が見たかった」
ニルは頭を上げた。近くへ来すぎて、目を合わせるためには少し戻らなければならない。それが惜しく、背へ置いた手を先に緩めた。
「通っていい?」
少年が階段の下から言った。片手に着替えの包みを持ち、ニルの脇を見ている。廊下の真ん中に立っていた。ニルはアルバから一歩離れ、「すみません」と道を空けた。少年は包みを棚の下へ置き、アルバの鞄も踏まない位置へ押した。
「帰ってる」
「今、戻った」
アルバが答えると、少年は頷いた。
「僕は、今日向こう。明日の昼、帰る」
自分の予定を言ってから、外套の草を指した。
「それ、床に落ちる」
アルバが取る間、ニルはまだ、顔を見ていた。
手を洗って戻ったアルバへ、ニルは水を渡した。座る時には右手を椅子へついたが、出発の朝より深く脇を庇ったようには見えなかった。
「傷は」
「増えてない。途中でも診てもらった」
そこで終わりにしてよい返事だった。ニルは椅子を引き、右側へ座った。八日の間にあったことを話そうとすると、切り直した根菜や、台を移した鉢まで、一緒に出てきた。
「朝に水をやった時だけで比べると、位置を変えた影響が分かりにくかったんです。それで、帰ってからも土を見たんですが」
「家の鉢か」
「はい。窓から離した方です。前より水が残っていて」
「なら、減らすのか」
「単に減らすだけでは、根の方が――」
そこまで言って、ニルは一度止まった。アルバは水の器を持ったまま、こちらを見ていた。
「長いですか」
「少し」
「でも、今、聞いてほしかったんです」
「そうか」
返事が短いことも、今は足りなくなかった。ニルは帰宅後の土の違いを、続けて話した。
少年は迎えが来る前に汁物を食べた。上着の釦を留める時、袋に入れた紙が折れないか確かめ、パンは籠から一片だけ取った。アルバが包みを持とうとすると、「それは僕の」と脇へ寄せる。
「分かってる」
手が下りるのを見てから、少年は外套を着た。ニルは迎えの御者へ、翌日の戻る時刻を伝えた。少年も同じ時刻を口で確かめ、門を出る前に、二階の窓を一度見上げた。
馬車の戸が閉まり、少年が座り直したところまで見送ってから、ニルは家へ戻った。玄関にはアルバの外套が掛かっていた。今朝まで空いていた釘の下へ布が落ち、裾についた草はもうない。台所から「腹減ってるか」と声がした。「はい」と答えると、鍋の蓋が開いた。ニルは靴を揃え、鞄も帳面も持っていない手を一度見てから、その声のする方へ行った。
*
食後、アルバが湯を使っている間に、ニルは器を洗った。鍋は翌朝の分を残して台へ移す。七日間、二人分を出す時にも、この位置へ器を置いていた。今夜は、一つを洗っているうちに、先に洗った方を持っていく足音を待った。アルバが戻ってきて、濡れたままの杯へ布を当てる。
「置けば乾きますよ」
「棚へ戻す」
「僕も、今から拭きます」
ニルが布の端を取ると、同じ一枚を使うには近かった。腕はそのまま、触れずに並んだ。
片づけが済んでも、ニルは居間へ帳面を取りに行かなかった。今夜見る用事のない紙だった。アルバが階段の方を見て、「もう寝るか」と聞く。移動の続いた身体なら、先に休んでもらった方がよいのかもしれない。それを答えるつもりで顔を上げたのに、ニルの目は、袖から出ている手の方へ先に下りた。帰ってきてから、背へ置かれた掌の重さが何度も戻ってきた。
「まだ、起きていられますか」
「少しなら。何かあるのか」
ニルは、何もない、と答えかけた。受け取ってほしい書類も、運んでほしい鉢もない。用があると聞かれれば、そういうものを探す方が早かった。けれど、今夜は紙を広げれば、手が空かなくなる。
「もっと触ってほしいです」
言ってから、ニルは自分の両手を重ねず、アルバの前へ残した。
アルバの視線が手へ下り、それから顔へ戻った。
「どこを」
「袖とか、顔だけではなくて」
説明を始めると、何を望んでいるかが、さっきよりはっきりした。口づけをしたいこともある。けれど、その先にある触れ方を、今夜は自分から求めていた。
「服の下も、触ってほしいです」
最後の言葉が小さかったので、聞き返されるかもしれない。ニルは顔を下げずに言った。アルバは手を伸ばさず、「上で、座るか」と尋ねた。
階段は一段だけ、二人の足で続けて鳴った。アルバの部屋へ行くと、机の脇に旅の鞄が置かれていた。留め具は開いているが、着替えはまだ中に残っている。アルバは寝台の端の上着を椅子へ移し、ニルに座る場所を示した。悪夢の夜にも来た部屋だった。今は図鑑を抱えておらず、自分の足でここまで来た理由も言えている。ニルは右側へ座り、足を床につけた。隣へ腰を下ろしたアルバとの間には、まだ手を置ける幅があった。
「キスも、してほしいです」
ニルが言うと、アルバは頷いた。
「いいのか」
「はい」
顔が寄るのを見ながら、ニルは相手の肩へ手を置いた。今度は息を吸うために自分で少し戻り、離れたあとにも、その手を残した。アルバの指が頬へ触れていた。そこから首の脇へ下りる前に、「ここは」と聞かれる。ニルは返事をして、襟の布が指へ当たらないよう、釦を一つ外した。
昔も、襟へ手を上げたことはあった。寝室へ行くと言われれば、外すものの順番は分かった。今、同じ釦を外しても、そのあとでアルバの手は待っていた。ニルが次を留めたままにしていれば、勝手に先へ進まない。「こちらも」と言って自分で布を緩めると、手のひらが服の内側へ入った。触れてよい場所を尋ねられ、ニルは言葉を探しながら答えた。もう一度確かめてから、アルバが下着の内側へ触れた時、思っていたより早く身体に反応が起きた。
ニルは息を止めた。望んで来たはずだった。触れてほしいと言った時には、今ここにいる手へ、もう少し近づきたかった。それなのに、身体の反応を知った途端、昔、顔を背けないようにしていた時のことが戻ってきた。誰かの問いへ頷いている間にも、身体は反応した。そのあとで、嫌だったと思い直そうとすると、自分の身体に違う答えを出された気がした。
「どうした」
アルバの手が止まった。ニルは肩に置いた指へ力を入れたが、顔を上げられなかった。
「痛いか」
「いいえ」
痛くないなら、続けてもらってよい。いつものように考えかけて、そこから先が動かなかった。アルバが手を少し引いた。
「離れるか」ニルは頷いた。服から掌が抜け、アルバは膝の上へ手を戻した。ニルが外した釦を留め直すまで、次の質問は来なかった。
自分から望んだのに、途中で止まった。帰ってきたばかりの人へ触れてほしいと頼み、触れられれば顔を下げている。ニルは何か説明しようとしたが、最初に出そうになったのは、勘違いしました、という語だった。何を勘違いしたのかは、今夜は言えない。ここへ来たかったし、アルバに触ってほしかった。そのことまで間違いにすれば、さっき自分から言えた二つを、両方取り消すことになる。
「昔、嫌だったはずなのに、身体が反応したんです」
口にすると、語尾だけが細くなった。ニルは布の合わせ目を指で押さえた。
「研究院にいた頃です。帰りたいと思っていても、反応して。僕は、嫌だと思ったんですが、そうなったなら、違ったのかもしれないと」
どの夜だったかを並べれば、誰へ会うために出たかも話せる。けれど、今、口にしたかったのはそこではなかった。視線を上げると、アルバの手はまだ膝にあり、こちらの顔を見ていた。
「今も、少し似たことが起きたので」
ニルは続けた。
「あなたに触ってほしかったのは、本当です。だから反応したなら、分かるんです。でも、昔も反応したなら、昔も、僕がしてほしかったんでしょうか」
自分で尋ねてから、そんなことをアルバに確かめられるはずがないと思った。あの部屋にいたのは自分だった。帰りたいと考えたことと、身体に起きたことを、どちらも覚えている。その二つのうち、どちらが本当かを決められず、ずっと、身体の方を残してきた。
アルバはすぐに答えなかった。机の上の灯が揺れ、ニルは釦へ置いていた指を下ろした。聞かなかったことにしてくださいと言えば、アルバとはこの話を終えられるのかもしれない。そう考えて息を吸ったところで、声がした。
「身体がどうしたかと、お前がどうしたいかは別だろ」
ニルは顔を上げたまま、返事をしなかった。アルバは声を強めず、「今、帰りたかったのか」と聞いた。
「今は、帰りたくなかったです」
「昔は」
「帰りたかったです」
こちらは、口にするとすぐに出た。帰れば失うものがあり、戻ったあとの仕事が続けられるか分からなかった。それでも、あの椅子から立って、鞄を取りたかった。
「でも、帰らずにいました。大丈夫だとも言いました」
ニルが付け加えると、アルバは自分の手へ目を下ろし、またこちらを見た。
「言えば、帰れたのか」
ニルは首を振りかけ、途中で止めた。
「出ることは、できたと思います。扉を開ければ。でも、次の推薦状は、そこで待っていたので」
全部が閉じた部屋だったという話にしてしまえば、帰らなかった理由も簡単になる。そうではなかった夜にも、自分は残った。
「研究を続けたかったんです。あの人に、触られたかったのかは……」
言いかけて、ニルは閉じた自分の襟を見た。触られないで帰れるなら、そうしていた。推薦状だけを鞄へ入れ、翌朝の温室へ戻っていたかった。
「反応しても、望んだことにはならないんですか」
「それで決まるなら、お前に聞かなくていいことになる」
アルバは答えた。ニルはさっき尋ねられた、離れるか、という言葉を思い出した。身体に反応が起きたことは、アルバにも分かっていたはずだった。それでも、手を戻す方の返事を待っていた。
「でも、どうして、嫌な時にも」
「理由は、俺には分からん」
アルバは首を振った。知らないことを、慰めるために埋める声ではなかった。
ニルは寝台の縁へ掌を置いた。布には、自分が座ったところから皺が続いている。ここへ来る時には、上着を椅子へ移してもらった。何をしてほしいか尋ねられ、襟に触れてよいかも聞かれた。その一つ一つへ返事をした自分と、さっき反応した身体は、同じ寝台の上にある。それを二つの答えとして置くのは、まだ難しかった。反応したなら、すべてを続けたいということになるのではないか。手が離れた今も、身体の変化はすぐには消えていなかった。
「今は?」とアルバが尋ねた。
何を感じているかを正しく名づけなければ、答えられない問いではなかった。今、どうしたいか。ニルは膝へ戻っている手を見た。話す間、それを遠くへやってほしいとは思わなかった。昔のことを思い出したのも本当で、最初に望んだことまでなくなったわけではない。
「まだ、触ってほしいです」
ニルは答え、一度息を吐いてから付け加えた。
「でも、どこまで続けられるかは、まだ分かりません」
「どこなら」
「背中を。服の上から」
言ってから、ニルは隣へ少し向きを変えた。アルバの手が上がる。置かれる前にも頷き、手のひらが背へ触れてから、肩に入っていた力をゆっくり緩めた。布を隔てた触れ方は、帰宅した時にも知っていた。さっきの反応を消すために違うことを始めたのではなく、今、してほしい場所を一つ言えた。それでも、触れられている間に昔を考えてしまわないかと、呼吸へ何度も注意が戻った。
アルバは背を撫でる前に尋ね、ニルはそれにも返事をした。一度、二度と手が動くと、ニルは横を向いている首を戻した。顔を見たい。近づけば口づけもしてもらえるかもしれない。そう思ったあとに、今夜、次を一つずつ答え続けることが、急に難しくなった。疲れているのか、思い出したことが残っているのかを、先に決めようとした。どちらかが分かるまで、触れている手を待たせておく必要はないはずだった。
「止めて、いただけますか」
掌が離れた。アルバはニルから少し身体を引き、手を自分の膝へ戻した。
「分かった」
それだけで、背中に残っていた重みがなくなった。ニルは服の上へ手をやりかけたが、途中で下ろした。理由を聞かれる前に、説明しなければと思った。
「今日は、ここまでにしたいです」
「ああ」
アルバは頷き、寝台から立たずにいた。
ニルはその顔を見た。触れてほしいと自分から言った。途中で望む場所を変え、今は、やめてほしいと言った。どこまでなら続けられたのかを数えるより先に、アルバが上着を取り、戸口へ行く動きを待ってしまった。けれど、膝に戻った手は、服の留め具へも、旅の鞄へも伸びなかった。アルバは机の方を見て、「水、要るか」と聞いた。
「はい。少し」
ニルが答えると、器が取られた。注がれる水の音が、話していた間より大きく聞こえる。受け取る時には、ニルも底へ手を添えた。水を一口飲み、もう一口飲むか考えてから、器を膝へ戻す。
「帰ってきた日なのに」
「何だ」
「途中で、やめてしまって」
言葉にすると、謝らなければならないことの形へ近づいた。アルバは器を持つ手を見て、「今日はここまでなんだろ」と聞いた。
「はい」
「なら、ここまでだ」
返事のあとにも、二人はしばらく座っていた。ニルは、残った水を飲み終えてから器を返した。触れてほしいとはもう言わなかったが、部屋を出る時刻まではすぐに決められない。
「もう少し、ここにいてもいいですか」
「いい」
アルバは空の器を机へ置いた。隣へ戻る時には、さっきと同じくらいの幅を残して座った。何も尋ねない時間にも、ニルの膝へ手が戻ってくることはなかった。
やがて、旅の鞄の端から出た布を、アルバが指で戻した。明朝は基地へ報告に行くという。ニルは出る時刻を聞き、先に食べる物が要るかも尋ねた。
「ある分でいい」
「鍋に、残っています」
「それでいい」
今夜触れてもらったことに、食事を作って返さなければならないわけではなかった。台に置いた鍋を温めれば、二人とも食べられる。それを話し終えると、ニルはようやく寝台から足を引き、立ち上がった。
「おやすみなさい」
「ああ。おやすみ」
アルバは戸を開けるためについてこず、ニルが出る方へ顔を向けていた。取っ手へ手を掛け、ニルは一度振り返った。寝台の端には、まだアルバが座っている。もう少し話せば返事が来る距離だったが、今夜は、自分の部屋で眠りたかった。そう決めて、戸を閉めた。
机の帳面を開くと、朝の頁に書いた日付が見えた。八日目。その隣に、小さく帰宅予定とある。ニルは次の朝の頁へ紙を挟んで閉じ、羽ペンを取らずに着替えた。外した釦を、自分で一つずつ留め直す。昔の身体のことを考えれば、また同じ問いが出てくる。今夜言われた一言で、長く残してきた答えの方が、全部消えたわけではなかった。
掛布へ足を入れたところで、廊下の向こうから水の器を置く音がした。ニルは枕へ頭を下ろし、目を閉じた。さっき、止めて、と言った時のことが戻ってくる。手が離れ、身体が少し遠くなった。そのあとにも、水は渡され、隣の席は空かなかった。明朝の食事の話もした。戸を閉めたのは、自分が眠るためだった。
止めたことでなくなったのは、背へ触れる掌の重さだった。ニルは肩まで掛布を引いた。隣の部屋で椅子が動き、寝台の木が小さく鳴った。八日の間、聞きたかった音が、今夜はそこから聞こえていた。




