第26章 紙の上のパン
少年は、あの二人が前より変になったと思った。ニルがアルバの右袖に触れている。アルバが竈から鍋を下ろしたあとで、もう渡すものも受け取るものもないのに、布の端へ指を置いていた。食卓へ匙を置き、少年はその指を見た。袖に汁でも飛んだのかと思ったが、ニルは拭くものを持っていない。アルバが自分の腕へ目を落とすと、指は少しだけ動き、それから離れた。
「何かついてるか」
「いいえ」
ニルは答えたが、台所を出ようとはしなかった。アルバも鍋を持ったまま、こちらへ来ない。少年は自分の器を卓の端へ寄せ、「それ、冷める」と言った。アルバが顔を上げ、ようやく鍋を運んできた。今朝の汁には豆と、薄く切った根菜が入っている。少年の器へ注いでから、アルバは自分の分もよそった。ニルの前には、湯の入った杯だけが置かれた。
「食わないの」
「先に食べました。起きた時に」
ニルは杯を持って答え、窓際の鉢へ目をやった。いつも早く起きるので、少年が下りる前に食べ終えていることは珍しくなかった。アルバはまだ食べていない。夜に三人で卓につくこともあれば、少年だけ先に食べ、あとで鍋がもう一度火にかかることもある。この数日、二人の席は近いのに、食べる時刻まで同じになったわけではなかった。
寝る部屋も、別のままだった。夜、廊下で物音がすると、二人の足はそれぞれの戸へ向かう。朝早く水差しを持ち出すのも、ニルの部屋からだった。少年の部屋の壁際の布も、手を伸ばせば届くところに置いた独楽も動いていない。それなのに、下へ来ると、渡すもののない手が袖のところに残っている。
昨日は、ニルが戻ったかとアルバに聞かれた。玄関に鞄がある、と答えたのに、アルバは居間の戸口まで来て、名前も呼んだ。窓際からニルが顔を上げると、それで用が済んだように台所へ戻っていった。何を頼むのか聞こうとしていた少年には、少し拍子抜けだった。今朝も何か用があるなら言えばいいのにと思い、豆を匙で寄せながら、卓の向こうを見た。
ニルは杯を置き、アルバの腕の方へ目を向けた。今度は触らなかった。少年が同じところを見ると、右の袖口には、留めた釦と、いつもの布の皺しかない。「さっき、そこ、何だったの」と尋ねると、ニルの目が上がった。
「袖ですか」
「うん」
「少し、触りたくなったんです」
少年は匙を止めた。アルバはパンを折っている。嫌なら腕を引きそうなのに、そのままだった。
「同じ布だろ、右も左も」
少年が言うと、ニルは反対側を見てから、少し笑った。「そうですね」とそれで説明が終わったので、少年は汁へ顔を戻した。何か面白い布なら見てみたいが、あの返事では分からない。匙の裏に豆の皮が張りついていて、パンの端でこすると取れた。残った汁を吸わせるうちに、向こうでは、鉢を窓からどれだけ離すかという話が始まった。
夜の硝子が冷たいので、葉を触れさせたくないらしい。ニルは朝と夜の違いまで説明し、アルバは「場所、あるのか」と聞いた。少年の独楽を回すところには、細い紐が張ってある。ニルの目がそちらへ動いたので、少年は先に「そこは駄目」と言った。
「分かっています。こちらの台を動かせば」
返事をしながらニルが小さな台を持ち上げかけ、アルバに、先に鉢を下ろせ、と止められた。鉢を載せたまま運ぼうとするところも、話が長いところも変わっていなかった。
食べ終えて立つと、少年の上着の裾が椅子に引っかかった。下の釦が一つなく、布が開いていた。引き抜こうとして袖を伸ばすと、折り返した端から細い糸が出た。昨日、切ったはずのところだった。「そこ、また出てるぞ」とアルバが言ったので、少年は爪でつまんだ。引けば長く取れるが、その分だけ布が薄くなるのは知っている。
「切る。あとで」
服を買いに行く話は、前の日に聞いていた。今のものより暖かい上着を一枚、ということだった。少年は袖口を内側へ折り直し、「釦つけたら、これも着れる」と言った。「ああ」とアルバが答えた。ニルも、捨てるようには言わなかった。
「今のものは残して、寒い日に着るものを見に行きましょう。昼前には戻れると思います」
少年は二人を見た。新しい服を買うと、今まで着ていたものを取られるのか、まだ聞いていなかった。
「これ、置いといていいの」
「いい」
アルバは器を重ね、流しへ持っていった。少年は背の継ぎ当てへ手をやった。自分では見えないが、布の重なる端は分かる。内側には、小さな袋もつけてもらっている。新しい服に同じものがあるかは分からないので、籠から取った乾いたパンは、今日は外套の袋へ移した。独楽は布で包み、上の部屋へ置く。あとでヴァレットのところへ行く時に持っていけばよかった。
外へ出る支度ができた時、ニルはまだ鉢を移していた。アルバは角の兵士と話してから戻ってきた。最後の受け皿が上がると、台の下に丸く埃が残っている。少年は布を取りかけたが、アルバに「戻ってからでいい」と言われた。「では、帰ってから」とニルも鞄を取ったので、少年は布を置いた。
*
市場の通りには、屋根から下ろした布がいくつも張り出していた。色の濃いところは雨を吸い、端からだけ乾いている。少年は荷車の後ろを避け、二人の歩く間へ入った。知らない顔がこちらを向くと一度目を留めたが、隣の店の値を聞く声が続き、こちらへ近づいてはこなかった。アルバは曲がり角で少し歩調を落とした。少年が並ぶと、また先へ進む。腕を取られることはなかった。
衣料の店には、子供用の上着が低い棒へ掛けてあった。少年の目より少し下に、釦が一列ずつ並んでいる。ニルが最初に取ったのは灰色のもので、少年へ当てるより先に、袖の裏を指で撫でた。店の女が内側にも布をつけてあると言うと、ニルは表へ返し、窓の明るい方へかざした。
「これなら肌に当たる方は硬くありませんね。ただ、濡れたあとは、内側まで乾かした方が」
「濡れたら干す」アルバが言った。
「はい。でも、表だけ乾いても」
「分かった」
返事をした手は、もう脇の縫い目を確かめていた。左右を軽く引き、袖の付け根を見る。女が別の上着を出すと、今度は釦を留めてから、糸の端を指で押した。ニルは布を見ていて、アルバは繋いであるところばかり見ている。少年は二人の間から、奥に掛かった一枚へ手を伸ばした。
青みのある緑だった。袖の折れたところだけ少し明るく、釦は灰色のものより丸い。手に取ると、灯りの下で見た時より暗くなった。「これ」少年が言うと、二人の目が同時にこちらへ来た。アルバは縫い目へ手を出しかけたが、少年が抱えているのを見て下ろした。「着てみろ」と言い、ニルはまだ灰色の袖を持っていて、「そちらも裏を見せてもらえますか」と女へ聞いた。
少年は外套を脱ぎ、店の隅で上着に腕を通した。今の服を着たままなので肩が少し詰まったが、袖の先からはちゃんと指が出た。女が裾を直そうとしたので、少年は自分で引いた。釦は一つ目を間違った穴へ入れ、下まで留める前に気づいてやり直す。最後まで閉じると、腹の前で布が重なった。そこを押すと、自分の持っている薄い上着より厚かった。
「腕、上げられるか」
アルバに言われ、少年は片方ずつ動かした。上まで上げると袖が少し手首から離れたが、背中は突っ張らない。ニルは襟の内側を見て、「ちくちくしませんか」と聞いた。「しない」と答えると、ニルは店の女が見せた小さな札を読んだ。少年にはそこに何が書かれているか分からない。触れば分かることを、字でも確かめられるらしかった。
「こっちと、何が違うの」
灰色の方を指すと、ニルは二枚を並べた。
「こちらは綿が多くて少し軽いですが、君が着ている方も、内側は柔らかいですね。よく乾かせば使えます」
「洗う時は、釦外せ」とアルバが言った。
少年は自分の胸を見下ろした。使える、と聞いても、どちらを渡されるかはまだ決まっていない。「僕、こっちがいい」と言うと、ニルは灰色を棒へ戻した。
女が値を言った。少年はその数字なら分かった。灰色のものより、少し高い。
「丸いのだから?」
胸の釦を指して聞くと、布も違うのだと答えられた。見た目がよい方を取ったから余計に払うのかと思い、釦へ掛けていた指を離した。
「灰色のでもいいけど」
言ったあとで緑の袖を見てしまい、急いで腕を下ろす。アルバは財布を出し、女へもう一度値を確かめた。
「そのぐらいなら払える。どっちだ」
少年は灰色の上着を見た。そちらも暖かそうだったし、何も悪いところはない。ただ、自分の腕へ目を戻すと、袖の色が、店の入口にあった時とは違って見えた。外へ着ていけば、もっと明るくなるかもしれない。「これ」ともう一度言うと、アルバは必要な硬貨を台へ置いた。女が包む紙を取る間、ニルが袖口を見て、少し余りがありますね、と言った。
「折るほどじゃないだろ」
「今すぐ折る話ではありません。もう少し手が大きくなっても」
「僕の手の話、あとでして」
少年が言うと、ニルは口を閉じ、それから「はい」と答えた。アルバの口の端が少し動いた。少年は二人を見比べたが、もう服を脱ぐために釦を外し始めていた。見ているうちに、一番下の穴だけがまた分からなくなったので、指で布の重なるところを探した。
店を出ると、包みの端から出た布は青く見えた。少年は紙を少し開き、日陰へ腕を動かしてから戻した。ニルが染めた布の見え方について話しかけたので、「今、見てる」と返す。説明はそこで止まった。アルバは包みを受け取ろうと手を出したが、少年が自分の脇へ挟むと、その手を戻した。通りを横切る時には、少年も紙を閉じた。布を見たまま荷車に当たるのは嫌だった。
午後にはヴァレットのところへ行く約束をしていた。家で昼を食べ、迎えの馬車を待つ間に、少年は買った上着へ着替えた。今までのものは部屋に畳んで置いた。内袋を確かめてから離れたので、置き忘れた物はない。独楽と、まだ食べていないパンを布に包むと、緑の上着の片側の袋だけが膨らんだ。もう片側へ分け直して階段を下りる。ニルは研究所へ持っていく鞄を閉じ、アルバは午後に軍へ出る車の時刻を、戸口の兵士へ聞いていた。
*
ヴァレットは、少年が戸を通るより先に、新しい上着に気づいた。
「色ついてる」
そう言って袖の方へ顔を寄せたので、少年は少し腕を引いた。
「前のだって、色はあった」
「もっと薄かったじゃん」
「これ、外だと違う色になる」
ヴァレットが窓のところへ行こうとしたので、少年もついていった。硝子越しの光では、市場の入口ほど青くならなかったが、折り目のところは明るい。ヴァレットは自分の袖と並べ、「いいな」と言った。
裏の小さな部屋の作業台には、紙と、短くなった鉛筆が置いてあった。少年は独楽を出しかけ、紙を見て手を止めた。前にここで、自分の名の形を教わった。呼ばれれば分かるものが、紙の上では見慣れない線になる。見本があれば真似はできたが、最後のところは、見ないで書こうとすると違ってしまった。ヴァレットは紙を半分こちらへ寄せ、「あとで、続きやる?」と聞いた。
「今、何してたの」
「明日、台所で使うもの。忘れないように書いてって」
紙の表を見せてもらうと、長いものと短いものが、別々の行に並んでいた。どれも口にして知っている食べ物なのに、読んでもらわなければ分からない。少年は一番短いところを指した。
「これなら書ける?」
ヴァレットは紙を裏返し、台の上に転がっていた鉛筆を取った。
「水からにする? こっちのは卵だけど」
「簡単な方」
「じゃあ、水」
ヴァレットが上へ書き、少年は隣に同じものを作ろうとした。鉛筆を強く押しすぎて、先が紙の繊維に引っかかる。持ち直すと、今度は線が薄くなった。
「お前の、なんで濃いの」
「そこ、もっと出てる方を使って」
鉛筆の向きを変えると、紙を引っかく音が小さくなった。見本の下へ二つ書き、三つ目では最後の線が隣へはみ出した。
少年はそこを塗り潰しかけたが、紙が破れそうなのでやめた。
「何か違う」
「ちょっと開きすぎたね」
ヴァレットは空いたところへもう一度書いた。少年が鉛筆を止めていると、手を取って動かす代わりに、見本を指でなぞった。その指を見ながら、自分の方もゆっくり動かす。形は少し違ったが、紙を裏返して戻しても、何を書いたのかは覚えていた。
「これ、水」
「そう」
次はパンと書いてもらった。声にすれば短いのに、書くと水より場所を取った。少年は見本と自分の字の間へ指を置き、どこまでが一つの言葉なのか確かめた。ヴァレットがもう少し詰めて書くと、二つを別のものだと思いかけた。
「同じなの」
「同じ」
「じゃあ、さっきぐらい離して書けよ」
「ニルの紙なんか、もっとくっついてるよ」
少年は眉を寄せた。あの細い字が読めない理由は、字を知らないことだけではないらしかった。
「最近、あの二人変」
紙へ置いた指を離さずに言うと、ヴァレットは鉛筆を止めた。
「前から変じゃない?」
すぐに返され、少年は一度頷きかけた。鉢を載せたまま台を運ぼうとするのも、食べる前に長い説明をするのも、確かに前からだった。
「そうじゃなくて。袖、触ってた」
「何かついてたんじゃないの」
「ついてない。触りたくなったって」
ヴァレットは紙へ目を下ろし、短い鉛筆を台の上で半分転がした。
「じゃ、触りたかったんだろ」
「それは聞いた」
少年は自分の袖を見た。服の色なら、分からなくても腕を動かして確かめられる。あの二人は、顔を見て、それで話をやめることがある。前は頼み事が終われば場所を変えたのに、最近は何も持っていない手が近くに残る。
「あと、ニルがいるかって聞いてた。鞄、見えるのに」
「顔見たかったのかな」
ヴァレットが言った。少年はその答えを考え、紙の端に鉛筆を置いた。
顔を見れば済む用なら、まだ何か続くと思って待っていても、何も出てこないのかもしれない。少年が考えていると、ヴァレットが、せっかくここまで書いたのに、と紙を指した。
「こっちは、何だった?」
「パン」
答えは先に出た。ヴァレットが見本を手のひらで隠すと、少年は自分の書いた方を見た。
水を先に書いた場所へ戻り、パンと指した場所と見比べた。覚えていたはずなのに、見本がなくなると不安になったので、隠した手を少し押した。
「まだ見る」
「じゃあ、一回見てから」
ヴァレットが手のひらを上げた。少年は二つの違いを目で辿り、もう一度、水、と口にした。次にパン。字を書く時には、外へ出る道を覚える時のように、曲がるところを一つずつ見ておく必要があった。
卵も書いてもらった。水と違って、途中で鉛筆を止めるところが多い。少年は見本の脇へ小さく真似して書き、片側だけ先へ伸ばしすぎた。
「卵の絵なら、簡単なのに」
ヴァレットは紙を自分の方へ戻し、端に細長い丸を描いた。
「絵なら、こう?」
描き終えてから台所の分はもっと丸いか、と言い、もう一つ横へ足した。少年は二つの絵を見た。どちらを描いても同じ字でよいらしい。
「僕、卵から生まれた」
言ってから、少年は鉛筆を握り直した。ヴァレットの手が丸の脇で止まった。顔が上がり、目が少し大きくなったので、少年は紙から指を離した。次に何を聞かれるか考えたが、まだ聞かれていないことへ先に答えたくはなかった。上着の襟が首へ当たり、そこだけ少し硬く感じる。ヴァレットは少年を見て、もう一度紙の卵の絵へ目を落とした。
「へえ」
鉛筆が台へ置かれた。ヴァレットは紙を少しずらし、書くところを少年の前へ戻した。
「こっち、もう一回書く? 水とパンに戻る?」
少年は動かされた紙を見た。服を持ち上げる手も、誰かを呼びに行く足も出てこない。卵の字へ指を置き、しばらくしてから、「こっち」と答えた。
もう一度書くと、さっき伸びすぎたところが、今度は短すぎた。ヴァレットへ紙を見せようとした時、廊下から声がかかった。彼は返事をし、戸口へ立ってから「水差し戻してくる」と言った。少年は鉛筆を置き、椅子から下りかけたが、ヴァレットはもう盆を持っていた。
「その紙、置いといて。戻ったら、見本隠すから」
少年は台へ戻った。廊下の向こうで、水差しを置く硬い音がした。
紙の表には、ヴァレットが書いた長い言葉がある。長い方はまだ読めない。裏には自分の字が増えていて、卵の下の鉛筆の跡だけ、少し太かった。少年は紙の隅へ独楽を置き、浮かないように押さえた。袋からパンも出したが、すぐには食べず、台の端へ置いて水の字をもう一度見た。
ヴァレットが戻ると、袖に水が少しついていた。
「こぼしたの」
「ちょっと。こっち側だけ」
袖を戸口の明るいところへ向け、乾かすように腕を振る。少年は新しい上着を見下ろし、「それ、裏も乾かさないと駄目だって」と言った。
「誰が」
「ニル」
「やっぱり」
ヴァレットが笑い、少年も紙を少し押した。乾き方の説明を全部聞いていなくても、そこだけは覚えていた。
見本を隠してもらい、少年は水を指した。パンの場所も、今度は間違えなかった。卵は自分で書いた方だけ形が崩れていたので、そちらを指してから、見本を少し見せてもらった。「これ、明日も分かるかな」と言うと、ヴァレットは紙の上へ掌を戻した。
「じゃ、明日か、次に来た時にもう一回やる」
「お前、覚えとけよ」
「僕は覚えてるって」
そう返されたので、少年は見本のある方を自分へ引いた。
独楽を回すために台を空けようとすると、窓の下の棚に、薄い本が見えた。ヴァレットは紙を押さえるものを探すついでにそれを取り、「この前の虫、こっちに載ってた」と開いた。大きな絵の横に小さな絵がいくつか並んでいる。葉の裏についた粒のところを指すと、卵だと言われた。絵の下には、今、紙へ書いたものとよく似た字があった。少年は鉛筆を取らず、紙と本を隣に置いた。
「同じ?」
尋ねると、ヴァレットが頷いた。少年は紙を本から少し離し、もう一度見た。ほかの字は分からなくても、ここは分かる。その横の長いところを指すと、これは虫の名前だと教えられた。
「ここ、何て書いてあるの」
ヴァレットが読んだ名は、覚えにくかった。少年は一度真似して言い、途中を取り違えて、もう一度聞いた。
ほかの頁にも同じ虫がいるのか知りたくなり、めくる前にヴァレットを見た。
「見ていい?」
本がこちらへ寄せられたので、少年は端を持った。次の絵では、虫は枝に止まっていた。さっきより大きく描いてあるが、脚の数は変わらない。字はまだほとんど分からない。それでも、絵だけを見て閉じるのは惜しくなり、紙のパンへ目を戻してから、また本の小さな字を見た。
独楽は結局、そのあとで回した。少年が本と紙を窓際へ避ける間、ヴァレットは紐を巻いた。勢いよく引いたわりに独楽が斜めになり、少年の方へ転がってくる。受け止めて渡し直すと、「巻き方は合ってた」と言われた。
「引く時、上がってる」
「今の見えた?」
「見えた」
少年は鉛筆を持っていた方の手で、一度だけ向きを示した。今度はヴァレットが、その手の向きを確かめてから紐を巻いた。
窓の外が暗くなる前に、アルバが迎えに来た。少年は独楽を布に戻し、紙も持ち上げた。畳むと卵のところに折り目ができそうだったので、一度広げ、違うところで折り直す。ヴァレットが本を棚へ戻し、「次、続き見せる」と言った。少年は頷き、上着の袋へ紙を入れた。パンは遊ぶ途中で食べてしまったが、紙の上のパンはまだ残っていた。
玄関を出ると、朝より風が冷たかった。アルバは門の内側で待ち、少年の手に包みがあるのを見てから、馬車の戸を開けた。先に乗ったアルバは、座面へ右手をついてゆっくり腰を下ろした。まだ脇を庇っている。少年は足元を確かめ、一段上がる前に振り返った。ヴァレットが戸口から手を振っている。紙は独楽と別の袋にあり、家へ着いたら、窓際で広げられる。まずどの字を見せるか考えながら、少年も片手を上げた。
「じゃあ、帰る」




