第25章 用がなくても
アルバは椅子を横倒しにし、座面の裏から突き出た木片を指で抜いていた。床へ敷いた布には、短い槌と、先の厚さが少しずつ違う木片が並んでいる。ニルが居間の戸口に立つと、抜いたものが布の端へ置かれた。片側だけが潰れ、椅子の脚を支えていたところに黒い筋がついていた。
「前にも、直していましたね」
「また緩んだ」
アルバは座面を自分の膝へ寄せた。左の脇を深く曲げないよう、椅子の方を動かしている。
「今度は、もっと厚いものを入れるんですか」
「穴を先に見る」
ニルは腕に抱えていた帳面を卓へ置き、灯を少し近づけた。夕食のあと、自分の椅子を戻そうとした時に、背と脚が違う向きへ動いた。倒れるほどではなかったが、そのまま使うなと言われた椅子だった。
階上では、少年が何かを床へ置く音がして、それきり静かになっていた。窓際の細い紐は張ったままで、外の硝子には灯の火が小さく映っている。庭の向こうを見張りの兵が通ったが、戸を叩く用はないらしく、足音は角の方へ遠ざかった。ニルは椅子の脚を見下ろし、もう上へ戻れば、アルバが立つ時にこちらを避けずに済むのだろうかと考えた。
三日前の食卓でも、向かいの椅子は空いていた。何か嫌なことをしたかと聞くと、していない、と返ってきたが、場所を変える理由は分からないままだった。翌日の遅い帰宅も、戸が開くところまでは聞いた。顔を見れば、また長く眺めてしまう。見られるのが嫌なのかもしれないと思い、その夜は階下へ行かなかった。朝になれば話せるつもりが、傷を医務室へ見せたかと聞いて、その用件を先に終えた。
「そこ、持てるか」
声を掛けられ、ニルは顔を上げた。アルバが示しているのは、椅子の反対側の脚だった。ニルは空いていた椅子を引いて座り、膝の上へ木の端を載せた。
「これで、動きませんか」
「少し上」
言われた分だけ持ち上げると、座面の下にある穴が灯へ向いた。アルバは新しい木片を差し、槌を取る前に、ニルの指の位置を見た。
「そこは当たる。外へ」
ニルは握り直した。最初の一打で、掌へ小さな振動が伝わった。
少年の身体の具合を確かめた朝にも、アルバはこの椅子を直していた。あの時には測定中だったので、槌を使うのを待ってもらった。今日は何かを測っているわけではない。木片が入るたび、椅子の重みがこちらへ少し移り、ニルは落とさないよう指を曲げた。顔を上げなくても、同じものを向こうで支えている手が見えた。爪のきわに細い木屑がついている。ニルはそこへ目を留め、いつから指を見るようになったのかを、また考えかけた。
セリュシアの言った、恋かもしれない、という語は、その後も帳面の中にあった。アルバが帰ってくる時だけのことではない。朝、茶の量を説明している時も、夕方、留め金を拭いている顔を見た時も、目の前の小さなところがはっきりする。記した日を比べても、何をしていればそうなるのかは決められず、知っている動きを飽きずに見ていたことだけが残った。
「これでは、脚の根元が割れませんか」
ニルが尋ねると、槌が止まった。
「ここまでだ」
「まだ、木片が出ています」
「残りは切る」
アルバは座面から手を離し、差し込んだところを横から確かめた。
「押さえすぎると、そっちがずれる」
ニルは掌の力を緩めた。どのくらい入ればよいのか、向こうからは見えている。こちら側から全部確かめようとして、脚を傾けかけていた。
槌が床へ戻された。アルバが椅子を起こす前に、ニルは持っていた方を離した。脚が四本とも床へつくと、座面を押す手の下で、さっきまでの音がしなくなった。
「直りましたね」
「まだだ」
アルバははみ出した木片を示した。
「引っかかる」
ニルは頷き、卓の帳面を取る代わりに、少し離れた灯を戻した。作業が終われば、話す用もなくなる。そのことを気にしながら、すぐには終わらない仕事であってほしいと思っている。直さなければ明日の食卓で使えないのに、そう思う理由を、椅子の具合へは書きつけられなかった。
「お茶、飲みますか」
「あるのか」
「淹れます。僕も飲むので」
返事を待つと、アルバは刃を置いてこちらを見た。
「薄い方で」
「はい」
ニルは立ち上がり、床の木片を踏まない方から台所へ回った。棚から器を二つ出す。湯はまだ温かく、少し火へ寄せれば足りた。容器の蓋を取った時には、茶の葉を替えた朝を思い出した。同じ量なら前より苦くなると説明し、結局、減らす量だけを言い直した。あの説明を、今夜また始める必要はなかった。
ニルは葉を少なめに取り、湯を注いだ。話すことは他にもあった。研究所の窓際へ置いた株のことも、明朝に確かめる標本のことも、尋ねられればすぐに説明できる。それを話している間なら、アルバが黙っていても困らない。けれど、茶が淹れ終わる前から、もうその先で手が止まっていた。説明が分かれば近くへ来てくれる、という話ではなかった。
居間へ戻ると、椅子の脚に残っていた木片は短く削られ、アルバは刃を布で拭いていた。ニルは卓の空いたところへ二つの器を置いた。灯を返す時に離した帳面が、卓の向こうへ寄っている。開けば、恋、と書いた頁も出せる。ニルはその表紙へ手を置いたが、アルバへ向けて動かさなかった。いつ、何を見て、息がどう変わったかを全部見せても、自分が今ここでしていたいことまで、代わりに伝わるとは思えなかった。
*
木屑を布の中へ寄せ、アルバは道具を箱へ戻した。ニルが床に残った一片を拾うと、差し出された箱に落とすより先に、「それは捨てる方だ」と言われた。古い木片だった。掌へ載せると、打ち込まれていた端はささくれ、もう同じ場所へ使えないことが分かった。ニルは塵を入れる器へ移し、戻ってきたアルバが椅子の脚を指で撫でるところを見た。
「座れるぞ」
「あなたが、先に座った方が。まだ、屈んだままだったので」
「お前のだ。俺のはある」
アルバは今まで使っていた椅子へ腰を下ろした。ニルは直った方を少し引き、卓の角から右へ寄せた。そこなら、茶を取る時に腕がぶつからない。向かいへ置くこともできたが、置いてまた離れた席へ移られるのを見たくなかった。
アルバは器を取り、一口飲んだ。
「苦くない」
それだけ聞くと、ニルも自分の茶へ手を伸ばした。湯気はもう薄くなり、両手で持てる温度になっている。火の音に混じって、壁の奥で木が小さく鳴った。椅子は軋まなかった。ニルは背へ身体を預けてみて、それから、預けたままアルバを見るのをやめた。目が合えば、何だ、と聞かれるかもしれない。今夜は、まだ何もないと返すつもりになれなかった。
いないと、いつ帰るのかが気になり、帰っていると分かれば安心する。それでも自分の部屋へ戻るより、顔を見て、近くへ座っていたかった。ニルは器を持つ指を置き直した。この数日、違う名前をつけていたことが、同じ夜の中にあった。距離を取られるのは嫌で、その理由を聞くのは怖く、椅子を直す用が済んでもここにいたい。その時々を一つに揃えようとすると、どれかが違うことになる。
器を卓へ戻した拍子に、帳面の下から薄い紙が出た。明朝使う記録の控えだった。ニルは角だけを表紙へ入れ直し、その上へ掌を置いた。幼い頃、父に図鑑を読んでもらう時にも、こうして表紙を押さえて待っていた。ある夜、帰りが遅く、玄関へ行くより先に、本を椅子へ伏せたことがあった。父が帰ってくると、寂しかったことも、待たされて怒っていることも一緒に口から出た。もう今日は読まないと言ってから、でも、続きを知りたいと言い直した。
「一つに決めなくていい。怒りながら読もう」
父はそう言って、伏せた本の間へ指を入れた。どの頁だったかは今も覚えていない。膝へ寄った時、外から着てきた服の袖がまだ冷たく、本を支える手だけが温かかった。父の顔をもう一度見てから、ニルは次の絵を指した。怒っている方を片づけてから座り直す必要はなかった。
今の茶の器は、二つとも卓に置かれていた。アルバの手は膝にあり、その指にはもう木屑がない。ニルは帳面から手を離した。恋であると確かめられたら言うつもりで、何日も同じところを見ていた。確かめようとしている間に、知りたいことは、いつそうなったかより、これからも近くにいられるかになっていた。離れた席から声が届くだけでは、足りなかった。
アルバが茶を取り直す。器の縁へ添えられた指を、ニルは見た。さっき、椅子を支えていた時には、同じ木に伝わる力だけが分かった。今は、その手へ自分の指を重ねてみたかった。何かを渡すためでも、傷の動きを確かめるためでもなく、ただ触れたあとに、どんな顔がこちらを向くのか知りたかった。
触れることまで考えていたのを、帳面には書かなかった。書けば、見ているだけの話ではなくなる気がした。避けられるなら言わずにいた方がよいのかもしれない。それでも、言わないまま向かいの椅子を見ている方が、今夜は難しかった。
好き、と言うなら、近い。茶を淹れる量の説明を切られても、そのあとで話すのをやめたくならないことも、無事に帰っていると知ってから顔を見たくなることも、まだそこに置いておけた。姉が挙げた恋という語の範囲を、全部確かめたわけではない。それより先に、自分が今望んでいることの一つなら、口にできそうだった。
「アルバ」
器が卓へ戻り、顔が上がった。ニルは膝で指を組みかけ、片方の手を上へ重ねるだけにした。明日の予定を尋ねるのでも、渡しておく紙があるのでもない。何の話か先に説明しなければと思うと、また長い言葉が並び始める。ニルは口を閉じ直し、こちらを見ている目へ、もう一度目を戻した。
「僕、あなたが好きみたいです」
言い終わっても、アルバの顔はすぐには動かなかった。卓へ置いた器の横に、右手が残っている。聞こえなかったのかと思う前に、その指が縁から離れた。
「そうか」
低い声が返り、ニルは頷きかけた。返事があったことだけに頷けば、そのまま話が終わる。もう少し近くへ座りたくて言ったのに、今の席から動いてよいかも分からないままだった。
「それだけです?」
思っていたより、声に力が入った。アルバの眉がわずかに動く。ニルは重ねていた手をほどき、膝の布へ掌を置いた。何と返してほしいか、先に決めていたわけではない。けれど、知った、と受け取られるだけでは、足りなかった。言ってしまってから、その不足まで自分で説明することになると気づいた。
「その、僕は……」言いかけた時、アルバの身体が椅子の背から離れた。ニルは続きを止めた。右の肘が膝へ移り、前かがみになった分、さっきよりも顔が近くなる。卓を回ってこちらへ来たわけではないのに、その動きだけで、目を置くところが決まらなくなった。ニルが顔を下げかけると、アルバは、手を膝に置いたまま言った。
「俺も、お前がいい」
ニルは膝の上を見ず、アルバを見た。今度は、言われた言葉を順に並べても、説明の先を探す必要がなかった。それでも、返事の代わりに息が一つ出て、次に吸うまでの間が長くなった。「それは」と口にすると、アルバが待った。
「あなたも、僕が好きだという意味で、いいんですか」
「そうだ」
灯の火が一度傾いた。壁に映る椅子の背の影がずれ、ニルは、それまで肩に入っていた力へ気づいた。ゆっくり息を吐いたが、胸の内側はまだ忙しかった。遠い席へ皿を運んだのが嫌だったことは、その返事を聞いても消えない。何もしていないと言われてから、どこに手を置けばよいか考えたことも覚えている。アルバの口元を見ると、そちらへ少し近づいて確かめたいことが増えた。
「僕には、分かりませんでした」
「言ってなかった」
「はい」
ニルは返し、それから、膝の手へ目を落とした。自分も、今夜まで言っていなかった。分かってもらおうと顔を見ていたのか、それとも、自分で分かるために見ていたのか。その二つを決め直すより先に、椅子と椅子の間の床を見た。
「もう少し、そちらへ行ってもいいですか」
アルバは右側の空いたところを見て、「いい」と答えた。ニルは器が卓の端に残っていないことを確かめ、椅子から腰を上げた。椅子を持つ時には、さっき直した脚より背の方へ手を掛けた。床を擦らないように運び、アルバの右側へ置く。背の位置を揃えて座ると、卓へ手を伸ばす向きが少し変わった。肩はまだ触れていないが、顔を向ければ、相手の頬がさっきより近いところにあった。
アルバは、そこから椅子を動かさなかった。ニルは足を床へ揃え、膝の上に両手を戻した。何を話すか考えれば、いつものように何かは出てくる。木の脚が、今度はどれくらい緩まずにいるかも聞けた。けれど今は、話が続いていないことまで、そのままにしておきたかった。隣から息を吐く音が聞こえ、卓に置いた二つの茶の器を、どちらも取らなかった。
唇の形は、言葉を出さない時には少し違って見えた。食え、と言う時にも、結論、と言う時にも、こちらが返事を探すより先に向こうへ目が寄っていた。近くへ来れば分かることがあると思ったのに、今は見えるところが増えた分だけ、何をしたいかを隠しにくかった。ニルは右手を膝から少し浮かせたが、置き先が決まらず、もう一度下ろした。
「キスをしても、いいですか」
アルバの目が、ニルの口元へ下りて戻った。返事の前に、その喉が一度動いた。ニルは見ていたことに気づき、顔をそらしかけたが、そらさずに待った。「いい」アルバはそう答え、膝に置いていた手を少しずらした。それで、二人の間に、ニルが身を寄せる幅が残った。
ニルはアルバの右肩のあたりへ手を置いた。厚い服の上からでも、人の身体がそこにある重みは分かった。指を曲げ、少し顔を近づける。向こうの目がまだこちらを見ているので、途中で止まった。アルバは急かさず、顔をわずかに傾けた。ニルも同じように傾けようとして、どちらへ動かしたかを考えるのをやめた。触れたいところは、もう目の前にあった。
唇が合ったのは、目を閉じるより少し早かった。近すぎる顔がぼやけ、ニルはそこから目を閉じた。触れたところは温かく、肩に置いた指の下で、アルバの息が動いた。長くしていたいと思ったのに、息をどこで吸えばよいか分からず、ニルの方から顔を戻した。唇を離すと、思っていたより大きく息が入った。
手は肩へ残していた。アルバの目を見ようとして、先に口元を見てしまう。もう一度顔を寄せるなら、今度はどちらへ傾けばよいか分かった。そのまま目を上げると、アルバはこちらを見ていた。ニルは肩から手を下ろしかけ、指の先だけを袖の上へ残した。
「もう一回していいか」
声は近くで聞こえた。ニルは問いを聞き終わる前に頷き、それから、「はい」と答えた。一度自分からしてしまえば、次に尋ねられた時には迷わないのかと思ったが、待つ間は別のものだった。アルバの右手が上がるのを見て、ニルは少し顎を持ち上げた。頬の横へ掌が触れ、指の端が耳の下に当たった。さっき木片を押さえていた指だった。今は、皮膚に触れる分だけの重さがあった。
アルバが顔を寄せた。ニルはその動きを途中まで見てから目を閉じた。二度目には、最初よりも、唇のどこが触れているか分かった。肩の袖へ残した指を伸ばし、布の上へ掌を戻す。近づいた分だけ、隣の椅子へ体重を預けかけたが、足を床に置き直すと、アルバの顔もそれに合わせて少し戻った。息を吸うために離れたあと、頬の横にはまだ手があった。
ニルは目を開けた。顔が近いので、視線を一度で合わせられず、眉から目へ動かした。アルバの口の端が、ほんの少し緩んでいた。笑っているのかと聞く前に、ニルの方の口元も動いた。頬にある掌へ少し頭を寄せると、指が髪の方へずれた。その小さな動きが分かるところに、まだ座っていたかった。
「何だ」とアルバが言った。ニルは首を振ったが、今日はそのあとへ「いえ」をつけなかった。「まだ、見ていたいんです」と返すと、アルバの手が頬から離れた。指が一度、髪の端をかすめて、膝へ戻る。ニルはその手を追いかけず、肩へ置いていた自分の手を下ろした。顔はそのまま、こちらへ向いていた。
茶を飲もうとして、ニルは器の置き場所を一つ間違えた。先に手を伸ばした方はアルバのもので、触れる前に気づいて、自分の方へ取り直す。向こうでも器が持ち上がった。
「冷めましたね」
「そうだな」
ニルは一口飲んだ。薄く淹れた茶の味は、温かかった時より分かりにくい。淹れ直しますかと聞こうとして、器を両手で持ったまま、隣へ目を戻した。アルバは立たず、残っていた茶を飲んでいた。
もう何かを用意して、ここにいる時間を延ばさなくてもよかった。ニルは茶の残りをゆっくり飲んだ。ただ、用がなくなっても隣に座っていてよいかという問いは、言葉にすればまだ不慣れだった。今夜、ここへ来てよいと聞き、ここで触れてよいと聞いた。その二つの返事があっても、明日どう振る舞うかまで決まったわけではない。飲み終えた器を下ろすと、アルバの膝と、自分の膝の間には、指を伸ばせば届くくらいの幅が残っていた。
壁の灯の芯が小さく鳴った。ニルは窓の方を見て、閉め忘れたところがないか確かめた。硝子の向こうは暗く、植物の葉も部屋の灯を受けた側だけ見える。明朝はいつも通りに起き、土を見て、水を足すか決める。帳面も上へ持っていかなければならなかった。そう考えてから、今夜は朝の仕事を理由にここを離れるのを、少し惜しいと思った。
「もう寝るか」
アルバが尋ねた。
「はい。朝に、見るものがあるので」
ニルはそう答えたが、すぐに立たなかった。アルバも器を卓へ戻しただけだった。少しして、ニルは椅子の背へ手を掛けた。立つ時にも、直した脚は鳴らない。
「これは、いつものところへ戻しますね」
「ああ」
椅子を食卓へ戻し、帳面を取ると、さっき手を置いていた肩が、また一人分遠くなった。
器を下げるのはアルバが引き受けた。ニルは居間の戸口まで行き、帳面を抱えたまま振り返った。道具の箱は閉まり、塵の器には古い木片が残っている。明日の食卓では、あの椅子を使える。そこまでなら、今夜変わったこととして言えた。アルバがこちらを見て、「どうした」と聞いたので、ニルは少し待ってから、「おやすみなさい」と答えた。「ああ。おやすみ」と返ってきた声を聞いてから、階段へ向かった。
自分の部屋へ入ると、机の上には朝に使う測定片と、空の水差しがあった。帳面を同じ位置へ置き、明朝の頁へ細い紙を挟む。その隣に、恋、と書いた頁があったが、問いの印は消さなかった。何と答えたのかを書こうとして、羽ペンを取る前に、唇を少し閉じ直した。感触を確かめるためにしたのだと気づくと、もう一度同じように動かすのが、急に気恥ずかしくなった。
廊下では、アルバが階段を上がってきた。いつもの段が鳴り、足音はニルの戸の前を通って、自分の部屋へ向かった。ニルは着替えを取り、灯を低くした。自分の掛布へ足を入れ、枕へ頭を戻すと、窓辺の鉢も、椅子へ掛けた服も、昨夜と同じ位置に見えた。
何が変わったんだろう、とニルは思った。戸の向こうで、アルバの部屋の取っ手が鳴った。ニルは掛布を肩へ引き、目を閉じた。答えを探すより先に、唇に触れた感覚が、またはっきり戻ってきた。




